●『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
1、自衛隊の装備・訓練を探る
国会におけるBC兵器論争
68年2月の衆議院予算委員会における楢崎代議士(社会党)の質問も、催涙ガスに関連した自衛隊のBC兵器装備の実態に鋭く迫っていくわけで、69年8月2日には前述のように「在日米軍及び自衛隊における化学・細菌作戦についての質問主意書」が出された。
以下、68年2月の衆議院予算委員会における「自衛隊と毒ガス問題」の質疑を再録してみよう。
〇赤沢国務大臣 クロルアセトフェノンの5%の液を四塩化エチレンに溶かしまして、それをリバールで60倍に水で薄めて機械的に放水しておるわけでございまして、これは各種の濃度につきまして、長い間警察でも研究した。このクロスアセトフェノンというのはご指摘の通りに、随分昔に開発されたものでありまして、こういう薬剤としては比較的に毒性もない。そこで、いろいろ試験を致しまして、一過性の刺激のあるガスであって、そう生命に別条があるとかいうものでないということで、承知をいたしております。
〇楢崎委員 困りますよ、こういう答弁は。私は、クロルアセトフェノンのことを聞いていないのです。四塩化エチレンの事を聞いているのです。あなた方が使った催涙液の5%がクロルアセトフェノンで、95%が四塩化エチレンじゃありませんか。四塩化エチレンのことを聞いていおるのです。何をそういう答弁をするのですか、時間が無いと言われておるのに、あなたはこれを溶剤として使ったのでしょうか。溶剤として使うことをあなたは責任を持って命じた。だから、これは有機溶剤のーいいですか、有機溶剤中毒予防規則に該当するかどうか、これをきいておる。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
VIDEO
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第2部 仁愛の政治
1922(大正11)年―1930(昭和5)年
Ⅳ
加藤の在任中には、24年6月28日に開院した第49議会から、26年12月26日始まる第52議会まで、4つの議会が開かれた。この間摂政と宮廷グループは、宇垣による軍政改革、外相幣原の推進する対中国非干渉政策、きわめて弾圧的な治安維持法を支持した。治安維持法は、西園寺の見解では、左翼に議席を与えないでおくために必要だった。これがしかるべき「枠」となって、いずれ「憲政の常道」が成立するはずだった。西園寺は、皇室を基礎とする「国体」の聖なる性格を強調する治安維持法が、党派に対して、「国体」を錦の御旗として政敵を攻撃する手段を与えることになるとは考えていなかったのである。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする 国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、 武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、 永久にこれを放棄する。
②.前項の目的を達するため、 陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.
IMA G INE9
解説
09
9条がゆきわたった世界
国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。
憲法9条を生かそう!!
『鹿屋(かのや)航空基地 史料館』(鹿児島県鹿屋市)について
~ご理解していただきたいことを文章にしました~
2022年7月17日記 鶴ヶ岡裕一(都内在住)
願わくは、戦没者たちが、自衛隊の「閉じ」の中から解放され、新たな地にて平和な社会の実現を見守って下さいますように。(鹿屋市内に一定の世論ができて、このような文章を書いているのではなく、私・鶴ヶ岡個人がこだわってきた、「戦没者」ということや「戦没者の遺念」ということへの思いから、書きました。また、鹿屋市当局も、資料館を取り戻すことなど、夢にも思っていないことでしょうし、自衛隊と利益関係でつながる出入り業者の数も多いですので、これまで(戦没者の冒涜に)気づいた人がいたとしても、なかなか声に出すことは出来なかったのではないかと思うのです。 それだけ根の深い問題になっていますが、そこに光を灯すべき価値は大いにあるのではないでしょうか。数や金の上にあぐらをかいて、人々を、自分に都合のいい価値観にしばりつけているような地域性の中にある自衛隊の中でも「戦没者たち」が、埋没させられ、利用されてきました。自衛隊を包み込むそのような地域性があることもしっかりと見据えた上で、 「自衛隊が戦没者たちを冒涜してきたということと、 史料館は新たに平和祈念資料館として移転すべきこと」について、このような小さな声を、風に託すような思いで、届けたいです。)