【文鮮明】皇室と統一教会の関係|三笠宮と教祖の記念写真【皇族】
5 19 怒りの市民パレード(わが町・府中に「統一教会」系カルト集団はいらない!!)
飯田平和祈念館展示
山田朗講演会(講演、質疑応答、意見交換等)
会場には、100名を超える人々が参加して、山田さんの講演を聞き、又意見交換もしました。
「はだしのゲン」巡り揺れる広島 教材から削除、販売は急増―原爆忌
東京大空襲
死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲。この3月10日の空襲だけで、
罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。
なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。
重慶爆撃
日本は戦争の加害をきちんと伝えるべきだ!!
2024年2月20日初版発行:アテネ出版(3000円+税)
第533回 反核座り込み行動 核も戦争もない平和な21世紀に!!
アジアの国々に対して日本は、戦争責任を認めて、率直に謝罪することが出来ていない。 平和博物館では、展示が日本の空襲や戦時中の暮らし向きだけが展示され、加害の展示は殆どないのが現状だ。
靖国神社を廃止し、国立の戦没者追悼施設の建設を!!
「群馬の森」朝鮮人追悼碑が撤去に
長生炭鉱(山口県宇部市)「ヒロシマ通信」から 山口宇部・長生炭鉱の「水非常」は、事故で亡くなった183 名のうちの136 名が朝鮮人でした。2月3日におこなわれた現地での追悼の集いは、さまざまな問いかけを私たちに突きつけてきます。・・・終わり近く9分ごろのところに金平記者が長生炭鉱のピーヤの見える海岸でインタビューしているシーンも出てきます。たいへんに貴重な28分ほどの映像、まだ観ていない方、ぜひ視聴をオススメします! https://www.youtube.com/watch?v=oT781LkmlmY&t=35s
珠洲原発があったら大惨事であった!!原発をなくそう!!
進まぬ耐震化、被害拡大要因か 能登半島地震 死因9割「家屋倒壊」全国で同様の懸念
実際、会談の翌日には、日本政府がマグロ検査の年内打ち切りを決め、1週間後にはビキニ被ばくに関する「完全解決」の合意文書が交わされた。米国が「見舞金」として200万ドルを支払う一方、日本は賠償請求の権利を放棄する、という内容だ。それ以降、第五福竜丸以外の調査は行われず、巣鴨プリズンにいた戦犯は1958年までに全員が釈放された。 高橋氏は「政治の話し合いで、漁民個人の被害は抹消されました。実際は多数の船が被害に遭ったのに、『ビキニ』は第五福竜丸だけに矮小化されたんです」と語っている。
15、高橋君の「カクワカ」の活動の話に引きづりこまれました。国連での「核兵器禁止条約」成立の、新しい時代を切り開く希望として正面から受け止めた姿勢に深く感動しました。市民の運動が社会を動かし、世界を動かす展望を語る姿に日本の新しい希望を感じました。
「核兵器禁止条約への日本参加」を議員に直接尋ねる面会活動を進める「カクカワ広島」の体験談が聴きごたえがありました。この広島からの核廃絶の取組の中から研究分析による政治の分析は若い世代にできる柔軟で納得できるものになっていました。
(70代)
被爆地選出の首相が、なぜ放射能の恐ろしさを語らない?? 再生可能エネルギーの積極的活用を!!
◆9月3日(日)
191、詳しい資料を、これでもかという程次々と展示されていて、初めて知る事も多かったです。こうしたことを全く知らないまま育った日本人が、戦争について考えようとせず、新たな戦前に向っていることは、同じ過ちを繰り返すことになります。
政治家たちも、かってあったことを隠蔽し、うやむやにしようとしていることに危機感を覚えます。
多くの人、若い人に見てもらいたいパネル展でした。ありがとうございます。
(70代、-、友人、-)
日本が中国に棄ててきた毒ガス問題
忘れられた毒ガス被害者(相模海軍工廠)
毒ガス工場46年目の証言(東京第二陸軍造兵廠 曽根製造所跡)
毒ガス工場解体(大久野島の毒ガス工場解体)
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
原爆
原爆が使用されたのはなぜ?
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
第7章 満州事変