歴史ランキング
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昭和天皇の戦争責任を問う!!
日本と台湾の地震の対応が何でこんなに違うのか?
山田朗講演会(講演、質疑応答、意見交換等)
【 五 】 「はだしのゲン」7巻(243P)
(母親の命が後4ヶ月と医者から宣告されたので、母親を連れて京都旅行に皆で出かけるが、母親は血を吐いて、旅先で死亡。火葬にすると知らされたゲンは、母親の死体をおんぶして東京に連れて行くと言う。兄達が「何故か?」と問うと、
ゲン 「連合国司令官マットカーサーにあうんじゃ」
兄たち 「マッカーサー元帥に」
「ゲン、しっかりせえや マッカーサーは、日本をしはいしとる最高のえらい人
なんだぞ かんたんにあえるか」
ゲン 「やかましい 最高にえらかろうが、知ったことか わしゃ どうしてもあうん
じゃ」
兄の昭 「マッカーサー元帥に会うてどうするんじゃ」
ゲン 「言うたるんじゃ しっかり知らせてやるんじゃ」
「アメリカが広島と長崎におとした原爆の罪の深さを言うたるんじゃ」
「どれだけひどい地獄をつくりだし いまも つづいているか たっぷり知らせて
やるんじゃ」
「おかあちゃんに すまなんだ 許してくれと言わせてやるんじゃ」
「モウ原爆は二度と使わんと言わせてやるんじゃ」
東京大空襲から70年、直後と現在を写真で比較
10万人以上が犠牲となった東京大空襲から70年。焼け野原の向こうに見える隅田川の橋と70年後にスカイツリーを遠景に撮影した橋など、空襲直後と現在の東京の下町を写真で比較した。
2015年3月11日 09:41 JST
東京大空襲
死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲。この3月10日の空襲だけで、
罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。
なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。
重慶爆撃
日本は戦争の加害をきちんと伝えるべきだ!!
2024年2月20日初版発行:アテネ出版(3000円+税)
第533回 反核座り込み行動 核も戦争もない平和な21世紀に!!
言論の自由が欲しい!!
アジアの国々に対して日本は、戦争責任を認めて、率直に謝罪することが出来ていない。 平和博物館では、展示が日本の空襲や戦時中の暮らし向きだけが展示され、加害の展示は殆どないのが現状だ。
靖国神社を廃止し、国立の戦没者追悼施設の建設を!!
「群馬の森」朝鮮人追悼碑が撤去に
長生炭鉱(山口県宇部市)「ヒロシマ通信」から 山口宇部・長生炭鉱の「水非常」は、事故で亡くなった183 名のうちの136 名が朝鮮人でした。2月3日におこなわれた現地での追悼の集いは、さまざまな問いかけを私たちに突きつけてきます。・・・終わり近く9分ごろのところに金平記者が長生炭鉱のピーヤの見える海岸でインタビューしているシーンも出てきます。たいへんに貴重な28分ほどの映像、まだ観ていない方、ぜひ視聴をオススメします! https://www.youtube.com/watch?v=oT781LkmlmY&t=35s
被爆地選出の首相が、なぜ放射能の恐ろしさを語らない?? 再生可能エネルギーの積極的活用を!!
◆9月3日(日)
200, ショックでした。
旧日本軍が、ここまでひどいことをしていたとは思わなかった。
(60代・横浜市内・チラシ 赤旗・-)
日本が中国に棄ててきた毒ガス問題
忘れられた毒ガス被害者(相模海軍工廠)
毒ガス工場46年目の証言(東京第二陸軍造兵廠 曽根製造所跡)
毒ガス工場解体(大久野島の毒ガス工場解体)
プレ企画 映画「隠された爪痕」「払い下げられた朝鮮人」の感想
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
原爆投下にまつわる「俗説」を検証する【広島原爆から76年】
YAHOO!JAPANの過去拙稿で示した通り、広島・長崎原爆によって日本が連合国への降伏を決断した、という説は原爆投下を正当化させたいアメリカ側の保守的イデオロギーが後背にあり、正しくはない。 私たちは歴史を後から振り返るので如何に原爆が悲惨かを知っているが、当時の日本政府や軍部にも原爆について正しい知識を持つものはほとんどいなかった。まして原爆による放射線の影響を予期できたものなど皆無に等しかった。日本の降伏を決定づけたのは、原爆ではなくむしろソ連参戦(1945年8月9日)である。日本は当時中立国であったソ連を仲介して連合国と講和を探っていた。そのソ連が参戦したから、日本政府も軍部も万策尽きてポツダム宣言受諾に傾いた。原爆投下は日本降伏の決定打では無かった。 軍部は、広島市に原爆が投下された直後、陸海軍合同の調査団を空路・広島市に派遣した。猛火のため調査団は広島市中心部に入ることは出来なかったが、翌日以降本格的な調査を開始した。そこでは「白い服を着ていたものは助かった」「防空壕に入っていたものは無傷であった」などの事例から「新型爆弾恐るるに足りず」という結論になり、それが「新型爆弾への対処法」として新聞等に掲載された。「肌の露出を抑えること」「B-29が単独飛行していてもこれを疑い、防空壕に入ること」などと原爆についての対処法が縷々喧伝されたが、残留放射線の影響については全く触れられていなかった。当時の政府も軍部も、原爆被害を軽視していたのである。日本降伏の決定打は、皮肉なことに二発の原爆ではなくソ連対日参戦であった。
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
第7章 満州事変
4、黒井さんが常にみんなに強く訴えかけるようにして話していたから心にめっちゃ響いた。現代でも戦争(元兵士)によって苦しんでいる人、PTSDだった人はこんなにいるんだと思った。「みなさんのおじいちゃんおばあちゃん、ひいおじいちゃんひいおばあちゃんが戦争を経験し生き残ったからあなた方がいるんですよ」。あたりまえのことだと思ったけど、改めて聞くと全然あたりまえじゃないと思った。
私はある個人が兵士になり戦場で殺し合いを選択することに賛成しませんが、本人の自由意思で兵士の道を選ぶことは尊重します。
しかし、ある個人が戦争をしたくないのに、徴兵なり集団多数の意見なり、集団の長なりの意思に強制されて兵士にされ戦場に派遣されることは受け入れることができません。真っ向から反対します。支持できません。個人の自由意思はどんな場合でもどんな時でも尊重されるべきと思います。
そのことが民主主義の根本条件と思います。