【文鮮明】皇室と統一教会の関係|三笠宮と教祖の記念写真【皇族】
5 19 怒りの市民パレード(わが町・府中に「統一教会」系カルト集団はいらない!!)
山田朗講演会(講演、質疑応答、意見交換等)
【 五 】 「はだしのゲン」7巻(243P)
(母親の命が後4ヶ月と医者から宣告されたので、母親を連れて京都旅行に皆で出かけるが、母親は血を吐いて、旅先で死亡。火葬にすると知らされたゲンは、母親の死体をおんぶして東京に連れて行くと言う。兄達が「何故か?」と問うと、
ゲン 「連合国司令官マットカーサーにあうんじゃ」
兄たち 「マッカーサー元帥に」「ゲン、しっかりせえや マッカーサーは、日本をし
はいしとる最高のえらい人なんだぞ かんたんにあえるか」
ゲン 「やかましい 最高にえらかろうが、知ったことか わしゃ どうしてもあう
んじゃ」
兄の昭 「マッカーサー元帥に会うてどうするんじゃ」
ゲン 「言うたるんじゃ しっかり知らせてやるんじゃ」
「アメリカが広島と長崎におとした原爆の罪の深さを言うたるんじゃ」
「どれだけひどい地獄をつくりだし いまも つづいているか たっぷり知らせ てやるんじゃ」
「おかあちゃんに すまなんだ 許してくれと言わせてやるんじゃ」
「モウ原爆は二度と使わんと言わせてやるんじゃ」
東京大空襲
死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲。この3月10日の空襲だけで、
罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。
なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。
重慶爆撃
言論の自由が欲しい!!
アジアの国々に対して日本は、戦争責任を認めて、率直に謝罪することが出来ていない。 平和博物館では、展示が日本の空襲や戦時中の暮らし向きだけが展示され、加害の展示は殆どないのが現状だ。
靖国神社を廃止し、国立の戦没者追悼施設の建設を!!
「群馬の森」朝鮮人追悼碑が撤去に
長生炭鉱(山口県宇部市)「ヒロシマ通信」から 山口宇部・長生炭鉱の「水非常」は、事故で亡くなった183 名のうちの136 名が朝鮮人でした。2月3日におこなわれた現地での追悼の集いは、さまざまな問いかけを私たちに突きつけてきます。・・・終わり近く9分ごろのところに金平記者が長生炭鉱のピーヤの見える海岸でインタビューしているシーンも出てきます。たいへんに貴重な28分ほどの映像、まだ観ていない方、ぜひ視聴をオススメします! https://www.youtube.com/watch?v=oT781LkmlmY&t=35sマグロはどこに消えた
AFP=時事通信
ビキニ環礁で1952年に行われた水爆実験の原子雲
各地の汚染魚たちをそのまま流通させるわけにもいかず、いずれも、地中に埋められたり、沖合で投棄されたりした。
築地市場に第五福竜丸から水揚げされたマグロ2トンが届いたのは、被曝から約2週間後。3月16日午前3時のことだった。
当時の朝日新聞(同日付夕刊)ではその様子をこう報じている。
築地市場からは同船の魚は街頭に流れていない模様。十六日午後一時半から原爆魚の放射能の測定を行った。
放射能測定器で測定したところ、一ミリグラムのラジウムが持つ放射能と同程度の放射能が記録された。この放射能は相当強いもので、三十センチ以内に長くいると放射能の害を受けるし、またもちろん食べれば危険がある。
被爆地選出の首相が、なぜ放射能の恐ろしさを語らない?? 再生可能エネルギーの積極的活用を!!
◆9月3日(日)
205, 展示が見やすく勉強になりました。スタッフの方も大変ご親切に対応して頂き 感謝しております。
(70代・立川・知り合いから教えて頂きました・-)
日本が中国に棄ててきた毒ガス問題
忘れられた毒ガス被害者(相模海軍工廠)
毒ガス工場46年目の証言(東京第二陸軍造兵廠 曽根製造所跡)
毒ガス工場解体(大久野島の毒ガス工場解体)
プレ企画 映画「隠された爪痕」「払い下げられた朝鮮人」の感想
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
原爆投下にまつわる「俗説」を検証する【広島原爆から76年】
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
第7章 満州事変