核・戦争のない世界!!

2024-11-04 10:08:03 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。 
 
南京大虐殺 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 重慶爆撃                   
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

 

 
 
 





 

 原爆    
        




 
 
 
 
 
 
  
 
日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
実験医学雑誌24巻(1940年)
雑報(2号) 
宮川所長の青山先生胸像由来の話
 両先生の一行が、この画期的なる業績を挙げ、宛も凱旋将軍の如くに帰国せられた際に、全国の医師諸君からその学勲を頌し記念するために贈られたのが今回茲に安置致しました胸像であります。私等常に伝染病の研究に従事しておりますものにとりましてはこの様な立派な歴史のあるものを吾等のもとに置きますことは単に先生の温容に接するという以外に、言い知れぬ教訓と鞭撻と勇気とを与えられるのであります。 承わる所によるとこの胸像は先生の36歳の時でありまして、藤田文蔵先生、宮尾栄助氏鋳なっております。いかにも溌剌として勇気凛々たるものがあり、ベストなる1大 悪魔と取り組もうという様な気分が溢れております。
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第8章 昭和維新と統制
 
軍は2月の叛乱を調査した結果、蜂起した青年将校たちは2月20日の総選挙で左派候補が支持され、有権者が反軍感情を示したことに危機感を深めていたことが判明した。さらに、首謀者が地方出身で民衆主義的な主張をしていたにもかかわらず、農業恐慌を理由に革命家になったわけではなく、その究極の目標は、当時、多くの日本人が想像していたような農村の改革との関係をまったく持っていなかったのである。叛乱首謀者の目的は、国体の精華をさらに明らかにすることにあり、彼らはそれを日本の軍備の近代化を促進することと理解していた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 




























 

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