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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-16 16:45:37 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆天皇は知っていたのか
 天皇の従兄弟で宮田陸軍中佐として知られる竹田宮は、東京の大本営勤務の後、1943(昭和18)年8月、関東軍作戦参謀として作戦本部に勤務し始めた。関東軍作戦部長松村少将は、ハバロフスク裁判の証人として、宮田中佐の731部隊に関連した任務について次のように供述している。
「宮田中佐は関東軍作戦部と731部隊の連絡役として、作戦部から特別に任命されていました。731部隊への訪問者に対して直接通行証を発行するのが、作戦本部副部長である竹田宮の仕事でした。訪問者はその通行証を竹田宮に返却することになっていました」
 関東軍と731部隊とは日常的に接触しており、作戦本部は、細菌の生産必要量、備品の補給、731部隊に必要な専門人員の養成などについて、指令を与えていた。さらに細菌兵器使用方法の研究のため、関東軍内部には特別委員会が設置されていた。この委員会の構成員は竹田宮と731部隊及び100部隊の部隊長、関東軍司令官、参謀長だった。この会議では細菌爆弾のフィルムが上映された。またある時、笠原幸雄中将(関東軍参謀長)が竹田宮に対して、731部隊を訪問し、兵器生産について報告するように命令したので、彼は山田司令官を伴って、平房を公式に視察したということも知られている。部隊の印刷担当だった上園は、その時のことを覚えていて、「私は、731部隊正門の隣の本部で仕事をしていました。誰か偉い人が部隊を訪問すると必ず記念撮影をするんですが、大体正門の前に並ぶんです。天皇の従兄弟の竹田宮が731部隊に来て、記念撮影をしていたのを覚えています」と語った。
※このように731部隊に天皇の親族が直接関わり、部隊は稼働していた。天皇ももちろんこのことは知っていただろう!!そしてそこでどんなことが行われていたかも、報告を受けていたはずだ!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
施尽臣(男、70歳)の証言
 日本軍が南京を侵犯した時、私たちは沈挙人巷(今の郵政宿舎の北側)の難民区に住まっていましたが、中には百人余り住んでいました。南京が日本軍に占領されて3日目(冬月14日)に、日本軍がそこで50人から60人ほど捕まえて行き、トラック1台に詰め込んだのですが、その中に従兄弟の葉銘恩で、その時36歳だったのも同時に捕まえられて行き、その後ずっと帰ってきていません。捕まって行った人たちは2日ほどして、日本軍に掃射されて死んだという話です。(井昇安と丁亜慶が記録)
化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!
遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
 1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
化学兵器被害の苦しみ
 事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします 
 早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
 第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい 
 このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3  学習会・パネル展示を開きませんか? 
 中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください 
 2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
 被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
化学兵器被害解決ネットワーク
TEL 03-5379-2607 FAX 03-5379-2608e-mail suopei@tky.3web.ne.jp
http://cweapon.sakura.ne.jp/mt/youcan/
カンパ振込口座
郵便振替口座:00170-0-650194加入者名:チチハル8・4被害者を支援する会(通信欄に「ネットワークカンパ」とお書き下さい)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-15 12:11:16 | Weblog


日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆天皇は知っていたのか
 細菌戦部隊についての情報は、さらに上層まで到達していたのだろうか?皇族は知っていたのだろうか?昭和天皇の弟である三笠宮は731部隊を視察している。部隊のカメラマンだった山下はその時のことを回想して、次のように語ってくれた。

 私は731部隊の幹部隊員と三笠宮の、記念撮影のカメラマンを勤めました。私は三笠宮が平房の部隊の内部を視察する時には同行しなかったので、三笠宮がどこまで見たのかはわかりません。あいにく、私が撮った写真は、三笠宮の眼鏡が反射していて、目のあたりがよく見えませんでした。ひどく機嫌を損ねた石井隊長に、修正するようにきつく言われました。我が部隊は科学の粋を集めているのだから、そのような修正ができないはずはないというのです。この出来事のせいで、私は三笠宮が部隊を訪問した時のことをよく覚えています。

 宮自身がその回想録の中に、「兵隊の突撃力を向上させるために、銃剣訓練に生きた捕虜を使ったと士官学校の同級生が話していたこと」「多数の中国人捕虜が毒ガスの人体実験のため、満州の平原を行進させられているフィルムを見せられたこと」を書いている。またさらに、階級の高いある軍医が「満州事変の後、国際連盟から派遣されたリットン調査団に対して、コレラ菌で汚染した果物を食べさせようとしたが、失敗した」という話をしたと書いている。「このようなことが、聖戦の名の下に行われていた」とも書いている。

※軍上層部はもちろん、三笠宮までもが731部隊を視察している。もちろんそこでどんなことが行われているのかを実際に見ただろう!!その他の皇族も知っていた。天皇には731部隊でどんなことが行われ、どんなものを開発していたかについても、詳細な情報が届けられていたのだろう!!天皇はそこで開発される新兵器に期待していたはずだ!!
 また、生きた捕虜を銃剣で突いて殺すことなども天皇の耳に入っていただろう!!
それにしても、階級の高いある軍医が「満州事変の後、国際連盟から派遣されたリットン調査団に対して、コレラ菌で汚染した果物を食べさせようとしたが、失敗した」という話を三笠宮にしたというのも驚きだ!!もし、成功していればどんなことになったのか?
みんなこれらのことが「聖戦」の名の下に行われていた!!残酷極まりない!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
王承聖(男、66歳)の証言
 1937年には私は20歳になってなく、南京が陥落する前の冬月6日に、家のみんなについて難民区の三条巷2号に移り住みました。私たちは家の中に隠れて銃声と叫びわめく声とが聞こえるだけでしたが、夕方は炎の光が天を突いていました。一日おいて銃声はだんだんと消えて行き、人心は驚きあわてて定まらず、日本軍がすでに入ってきたと伝わってきました。窓からのぞいて見ると、日本軍が三々五々群をなして、実弾入りの銃を担い、疫病神に取り憑かれたかのように道行く人にぺちゃくちゃとホアクーニャン(=若い娘)を要求し、聞いて分からないと銃で撃つのでした。日本軍が入ってきて2、3日したある日の午後、日本軍が実弾入りの銃を担って戸別に男を雲南路の角に追い立てて1人1人額と手とを調べ、直ちに壮年男子と老いたのや弱いのとを両側に分けましたが、私は身体が弱く目の病だったので生き残れました。一緒に追い立てられた従兄の王承薫(23歳)と王承景(23歳)と王承○(19歳)とは、どこに駆り立てられて殺害されたか分からず、それ以来屍すら見つかっていません。その後中島部隊が良民証だの安居証だのをこしらえて、査定したり証を受領したりする時にも少なくない人を虐殺したのです。その時陰陽営一帯には屍が地にびっしりで、暑さで臭気がたまらず、後に紅卍字会の埋葬隊が集団的に埋葬しました。日本軍が南京で焼き殺し姦淫したすさまじさは見るに忍び難く、犯罪行為は筆舌に尽くせず、古来稀に見る大惨事でした。(井昇安と丁亜慶が記録)※○は日本の漢字に変換できない字
化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!
遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
 1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
化学兵器被害の苦しみ
 事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします 
 早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
 第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい 
 このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3  学習会・パネル展示を開きませんか? 
 中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください 
 2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
 被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
化学兵器被害解決ネットワーク
TEL 03-5379-2607 FAX 03-5379-2608e-mail suopei@tky.3web.ne.jp
http://cweapon.sakura.ne.jp/mt/youcan/
カンパ振込口座
郵便振替口座:00170-0-650194加入者名:チチハル8・4被害者を支援する会(通信欄に「ネットワークカンパ」とお書き下さい)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-14 08:54:20 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆天皇は知っていたのか
 関東軍関係者以外では、1942年3月から11月まで支那派遣軍司令官だった畑俊六大将は当然、1942年夏の浙贛(せっかん)作戦に細菌兵器が使用されたことを知っていただろう。
 畑、東条、木村、梅津、小磯、南、そして荒木、これら全員が、後に東京裁判の被告となった。そして、奉天特務機関長土肥原賢二大将、1936年から37年まで関東軍参謀長で、1938年から39年まで陸軍大臣だった、満州事変の陰謀者の1人板垣征四郎大将(当時は中佐)が被告席に加わった。土肥原と板垣は石井の仕事についての知識を上記の同僚たちと共有していたに違いない。
 その内の多くが国政の頂点まで上り詰めた陸軍首脳のほとんどが、石井の仕事について、認識していたか、認可を与えていたことははっきりしている。
 軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルビンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
※上記のような軍首脳部が731部隊のことに熟知し、外務省も協力していた。外務省と言えば1937年に南京大虐殺があった当時、外相であった広田弘毅等も731部隊の人体実験を知っていたのではないかと思う!!大日本帝国が全力を傾注して最新兵器の開発を急いでいた!!ということは天皇も秘密兵器開発に承認を与えていたのでないか?
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
馬鴻有(男、63歳)の証言
 1937年には私の家は估衣廊87号でしたが、日本軍が南京に入り込んだので、家中で上海路華新巷6号の難民区に入って住まいました。日本軍が南京を占領して3日目に、手に刀や銃や縄を持った日本兵が4人、猛々しく我が家に闖入し、真っ先に私を引っ張り出して行って、戸の外に立たせ、又屋内に取って返したので、私は隙に乗じて逃げ出し近くの厠の中に隠れていました。間もなく、彼らは又上の兄の馬鴻元(23歳)と、2番目の兄の
馬鴻宝(20歳)とを戸の外に引きずり出し、縄で縛り押したり打ったりして連れて行ったのです。私は彼らが行ってしまったのをこっそり見定めて、すぐさま家に走って帰り父に知らせました。ほぼ一時間ほど、遠くで機関銃の掃射する音が聞こえました。それが過ぎてから、私たち父とこと2人で大急ぎで上海路一帯近くの山まで探しに行き、地にあまねく死体が数百体くらいもありましたが、兄たち2人の死体は見当たらず、今に至るも全く音沙汰が無く、行方不明なのです。その時の日本軍の凶悪残忍な殺人の惨状を思い起こすと、ほんとに恨みつらみが胸につかえてたまりません。(井昇安と丁亜慶が記録)
女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!
遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
 1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
化学兵器被害の苦しみ
 事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
遺棄化学兵器被害の解決のために
 旧日本軍が遺棄した化学兵器による被害者は、現在裁判を闘っている原告たちのみではありません。中国にはまだ数多くの被害者がいます。また、日本国内でも被害者が繰り返し発生しており、被害者たちが救済を求めています。
 「もう2度と健康は取り戻せない。でもせめて安心して医療を受けられ、生活できるようにしてほしい。」―被害者たちの共通の願いです。私たちは、裁判で化学兵器を遺棄し放置し続けた日本政府の責任を明らかにするとともに、裁判を契機として、日本政府が、日中両国の被害者の救済のため、医療保障・生活保障の政策を作ることを求めます。
解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします 
 早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
 第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい 
 このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3  学習会・パネル展示を開きませんか? 
 中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください 
 2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
 被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
化学兵器被害解決ネットワーク
TEL 03-5379-2607 FAX 03-5379-2608e-mail suopei@tky.3web.ne.jp
http://cweapon.sakura.ne.jp/mt/youcan/
カンパ振込口座
郵便振替口座:00170-0-650194加入者名:チチハル8・4被害者を支援する会(通信欄に「ネットワークカンパ」とお書き下さい)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-13 06:42:40 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆天皇は知っていたのか
  梅津は関東軍での要職を歴任した後、陸軍参謀長となった。かくして梅津は太平洋戦争を終結させた降伏文書の調印者となったのである。山田は関東軍の司令官になる前から、石井の仕事について知っていた。1939(昭和14)年10月に就任した日本軍教育総監として、山田は細菌兵器による破壊工作要領などを含む、謀略隊戦闘教範作りの責任者でもあった。
 一時期、首相、陸軍大臣、陸軍参謀総長という3つを兼務した東条は、関東軍時代には、石井の人体実験のフィルムを見ていた。東条は1935年から37年の間、関東軍憲兵隊司令官であり、後に関東軍参謀長となった。
首相となったその月のうちに、東条は石井に陸軍技術有功章を手ずから渡している。731部隊の活動について知っていたその他の関東軍首脳には、もちろん1940年10月から41年4月まで参謀長だった、木村兵太郎も含まれているだろう。木村はのちに、陸軍省次官となり(1941年4月から43年3月まで)、それからビルマ方面軍司令官となった。1934年から36年まで関東軍司令官だった南次郎大将は、当時関東軍司令部において人体実験のフィルムが上映されていたというのであれば、間違いなく人体実験については承知していたことであろう。そのような認識は、1932年から34年まで関東軍参謀長であった小磯国昭大将にも及んでいたかもしれない。陸軍大臣だったこともある小磯は、1944(昭和19)年東条が失脚した後、日本国首相となった。
※陸軍のお偉方のほとんどが満州の地で関東軍の要職につき、731部隊の内部で行われていることを知っていた。もちろん陸軍中央というか日本軍の首脳及び天皇もこのことを知っていた可能性は大である!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
黄文奎(男)の証言
 私と2番目の兄とが神学院にいた時、日本軍がでたらめに、お前たちは生活が苦しい、今やれる仕事がある、夜送り返してやる、などと言いふらし、そうやってトラック3台の人をだまして連れ去りました。しかし夜になってもその人たちは帰って来ず、今に至るも音信は杳としてありませんし、毎晩日本兵がいろんな所へ行ってホアクーニャン(=若い娘)を探し、アメリカ人のやっている難民区の金陵女子大学の中にすら、入り込み勝手に婦女を捕まえ強姦し、侮辱しました。
 私たち神学院の中に住まっていて、昼間から晩までずうっとあちこちに火災が起きるのが見え、丸まる一ケ月焼けていたのですが、城南の家屋がたくさん焼かれ、無辜の平民がたくさん殺害されました。日本の帝国主義が南京で犯した殺人、放火、姦淫、略奪のとてつもない犯罪行為は、中国人民が永遠に忘れられないものなのです。(段月萍が黄文奎の自ら述べたのに基づいて整理)
女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!
遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
 1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
化学兵器被害の苦しみ
 事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
遺棄化学兵器被害の解決のために
 旧日本軍が遺棄した化学兵器による被害者は、現在裁判を闘っている原告たちのみではありません。中国にはまだ数多くの被害者がいます。また、日本国内でも被害者が繰り返し発生しており、被害者たちが救済を求めています。
 「もう2度と健康は取り戻せない。でもせめて安心して医療を受けられ、生活できるようにしてほしい。」―被害者たちの共通の願いです。私たちは、裁判で化学兵器を遺棄し放置し続けた日本政府の責任を明らかにするとともに、裁判を契機として、日本政府が、日中両国の被害者の救済のため、医療保障・生活保障の政策を作ることを求めます。
解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします 
 早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
 第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい 
 このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3  学習会・パネル展示を開きませんか? 
 中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください 
 2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
 被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
化学兵器被害解決ネットワーク
TEL 03-5379-2607 FAX 03-5379-2608e-mail suopei@tky.3web.ne.jp
http://cweapon.sakura.ne.jp/mt/youcan/
カンパ振込口座
郵便振替口座:00170-0-650194加入者名:チチハル8・4被害者を支援する会(通信欄に「ネットワークカンパ」とお書き下さい)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-12 08:10:14 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆天皇は知っていたのか
 小泉親彦中将は、最初から石井の仕事を支持していた。
小泉は後に医務局長になった。1941(昭和16)年7月から1944年7月までは厚生大臣であり、石井の仕事を直接東条内閣に結び付ける結果となった。また早い時期から、石井は陸軍統制派のリーダーで、陸軍省軍務局長でもあり、日本帝国軍人の中で最も強力な1人であった、永田鉄山からも支持を受けていた。
 石井はここでも皇道派と統制派という陸軍内部の相対立する派閥の狭間で、皇道派のリーダーであり、陸軍大臣でもあった荒木貞夫からさえも支持を取り付けた。
 したがって、ごく初期の段階から、軍最上層部が石井の仕事を認知していた。その上、関東軍首脳部の多くが認知していたに違いない。満州占領直後、満州事変の主要な扇動者の1人である石原莞爾中佐がじかに石井に対して、資金と実験用の人間を送り届けている。記録によれば、関東軍の3代の最高司令官が石井の仕事に関わっている。植田謙吉大将(1936年3月から39年9月まで)は、人体実験用の人間を「特別移送扱」とする命令を最初に下した。この仕組みは植田の後任の梅津美治郎大将(1939年9月から1944年7月まで)や山田乙三大将(1944年7月から1945年8月まで)によって引き継がれた。梅津は石井の中国における細菌兵器による攻撃を認可した。また植田はおそらく、ノモンハンにおける細菌戦を同様に認可した。
※以上のような重要人物が支持していたのだから、731部隊等の細菌兵器部隊は軍の最重要の機関ではなかったのか?もちろん天皇もこれに承認を与えていた。
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
黄文奎(男)の証言
上の兄を探すのに、父は様々な苦労を重ねました。引きずって行った人たちの一群を放ち帰らせたと言うのを聞いて、父と他に年寄り3人(みんな子女を探している人)とが、探しに下関へ行きました。けれども上海路まで行ったら日本軍に捕まって行き一輪車を押させられ、押せなくて車をひっくり返してしまい、それでげん骨でなぐられ脚で蹴られ、上新河まで来て彼らをほったらかしてやりました。父は大急ぎで家の方へすっ飛んで来、くたびれ果て、水西門外まできたら又日本兵にぶつかり、捕まらないように厠(かわや)の中に隠れたら、厠の中にも死体が幾つかあって、父はその中で眠り、日本軍が去って行くのを待って城内へと突っ走り、腹ぺこでもあり、恐ろしくもありで、家に着いてから大病して起きられぬこと、2か月余りでした。母もこのために血を吐いて床に伏し起きられませんでした。 (明日に続く)(段月萍が黄文奎の自ら述べたのに基づいて整理)
女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!
遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
 1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
化学兵器被害の苦しみ
 事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
遺棄化学兵器被害の解決のために
 旧日本軍が遺棄した化学兵器による被害者は、現在裁判を闘っている原告たちのみではありません。中国にはまだ数多くの被害者がいます。また、日本国内でも被害者が繰り返し発生しており、被害者たちが救済を求めています。
 「もう2度と健康は取り戻せない。でもせめて安心して医療を受けられ、生活できるようにしてほしい。」―被害者たちの共通の願いです。私たちは、裁判で化学兵器を遺棄し放置し続けた日本政府の責任を明らかにするとともに、裁判を契機として、日本政府が、日中両国の被害者の救済のため、医療保障・生活保障の政策を作ることを求めます。
解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします 
 早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
 第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい 
 このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3  学習会・パネル展示を開きませんか? 
 中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください 
 2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
 被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
化学兵器被害解決ネットワーク
TEL 03-5379-2607 FAX 03-5379-2608e-mail suopei@tky.3web.ne.jp
http://cweapon.sakura.ne.jp/mt/youcan/
カンパ振込口座
郵便振替口座:00170-0-650194加入者名:チチハル8・4被害者を支援する会(通信欄に「ネットワークカンパ」とお書き下さい)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-11 12:07:35 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆天皇は知っていたのか
 これを理解する1つの手がかりは、部隊の資金源にある。731部隊の資金源は3つあったと言われている。全体的な意味では関東軍の指揮下にあった。攻撃的生物戦の研究に関しては、直接陸軍参謀第2部の指揮系統に入っていた。そして、第3に、陸軍省がある程度コントロールしていた。全体的な政策決定の指示は、陸軍省軍務局から来ていたが、研究の細部に関わる方針の決定権は、陸軍省医務局の衛生課が握っていた。100部隊には関東軍を経由して、陸軍省から人件費60万円の予算が出ていた。100万円が関東軍の情報部第2課から、攻撃的生物戦の研究のために支出されていた。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万円が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも、731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦研究の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。
※この国家プロジェクトの資金源を見ても、陸軍中央や天皇の関与がなくては成り立たないのではないか。
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
黄文奎(男)の証言
 12月13日に南京が陥落し、鼓楼の上は日章旗に換わってしまいましたが、1日、2日、3日と何の動きも無く過ぎて行き、年を取った人たちは2、3日で民心は安定すると思いました。けれども4日目になって大捜索が始まり、家の近くで18人連れて行かれてしまい、みんなで24人日本軍に引っ張って行かれました。その時家屋の後ろに沼が3つあり、日本軍何人かが機関銃で300人余りを掃射したのが窓から見えました。門の所でも婦女が4人日本軍に強姦されました。それからは、みんな家から出られず、わなわな震えて、いつ何時不測の事態に遭うやも知れず、命の保証はありませんでした。
 叔父が神学院に住まっていて、私と2番目の兄とで錦の掛け布団を1つ担いで神学院へ行きましたが、途中五条巷やら上海路やら五台山やらに、死体がずうっと数十体もあり、男も女も老いたのも幼いのもみんないて、素っ裸の婦女で、陰部に油の瓶が突き刺さっているのもあり、血がいっぱい大地に流れ、見るに忍びないすさまじさでした。掛け布団は道の途中で日本軍にかっぱらわれました。(明日に続く)(段月萍が黄文奎の自ら述べたのに基づいて整理)
女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!
遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
 1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
化学兵器被害の苦しみ
 事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
遺棄化学兵器被害の解決のために
 旧日本軍が遺棄した化学兵器による被害者は、現在裁判を闘っている原告たちのみではありません。中国にはまだ数多くの被害者がいます。また、日本国内でも被害者が繰り返し発生しており、被害者たちが救済を求めています。
 「もう2度と健康は取り戻せない。でもせめて安心して医療を受けられ、生活できるようにしてほしい。」―被害者たちの共通の願いです。私たちは、裁判で化学兵器を遺棄し放置し続けた日本政府の責任を明らかにするとともに、裁判を契機として、日本政府が、日中両国の被害者の救済のため、医療保障・生活保障の政策を作ることを求めます。
解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします 
 早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
 第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい 
 このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3  学習会・パネル展示を開きませんか? 
 中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください 
 2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
 被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
化学兵器被害解決ネットワーク
TEL 03-5379-2607 FAX 03-5379-2608e-mail suopei@tky.3web.ne.jp
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郵便振替口座:00170-0-650194加入者名:チチハル8・4被害者を支援する会(通信欄に「ネットワークカンパ」とお書き下さい)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-10 08:12:23 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもかわ出版)
◆天皇は知っていたのか
 石井が生物戦研究の主導役であるのははっきりしていた。彼は1945(昭和20)年までに生物化学兵器の大量生産を可能にした。しかし、協力、許可、実行、予算などの当事者がだれであったのかはまだ充分に解明されていない。生物戦は日本国の最高レベルの軍事作戦の一部となっていたことははっきりしている。したがって、この国の軍部の最高指導者の何人かが間違いなく関わっていた。それは誰だろう?そして天皇は知っていたのだろうか?後にこれらの疑問に対する答をあいまいにするために、人々は恐ろしく長い時間を費やすことになる。
 今の時点からすると、日本軍組織内部の命令系統は複雑に見える。誰が関わっていたのか、性格に見分けることは難しい。しかし、おおよその全体像を再現することはできる。
※陸軍の防疫研究室を中核として、731部隊をはじめとするその他の細菌戦・生物戦研究の部隊・支部はアジア全域に展開していた。この石井のプロジェクトは正に大日本帝国が全力で取り組んだものだった。もちろん陸軍中央・天皇が、それらを承認していた!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
黄文奎(男)の証言
 私の家は昔から南京で、日本の帝国主義が南京を占領する前夜に、お金のある人たちは次々に奥地の重慶へと逃げましたが、私たち前から南京に居着いている有象無象の細民は、南京に留まるしかありませんでした。命を全うするために、父は家中の者何十人かを連れて江北へ難を逃れに行くつもりで、老いを支え幼い手を引いて、上新河の綿花堤の渡し場まで行きましたが、渡し場には船が一隻しかなく、みんな遅れてはならじと先を争って乗り込もうとしました。船が小さく人が多く、人が又絶え間なく這い上がり、船の許容量を超えてしまい、そこで船が沈んでしまって、目も当てられない惨状だったので、父は家中の年寄り子供を引き連れて城南の我が家に戻って来るしかありませんでした。
 国際委員会の難民収容所というのがあって、所は金陵大学や金陵女子大や金陵神学院や近い所だという話でした。我が家は行くのが遅くて入れずに、お隣の陳人楽から鼓楼の五条巷怡華里6号を借りて住まいましたが、まあ安全そうに思えました。(明日に続く)(段月萍が黄文奎の自ら述べたのに基づいて整理)
女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!
遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
 1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
化学兵器被害の苦しみ
 事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
遺棄化学兵器被害の解決のために
 旧日本軍が遺棄した化学兵器による被害者は、現在裁判を闘っている原告たちのみではありません。中国にはまだ数多くの被害者がいます。また、日本国内でも被害者が繰り返し発生しており、被害者たちが救済を求めています。
 「もう2度と健康は取り戻せない。でもせめて安心して医療を受けられ、生活できるようにしてほしい。」―被害者たちの共通の願いです。私たちは、裁判で化学兵器を遺棄し放置し続けた日本政府の責任を明らかにするとともに、裁判を契機として、日本政府が、日中両国の被害者の救済のため、医療保障・生活保障の政策を作ることを求めます。
解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします 
 早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
 第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい 
 このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3  学習会・パネル展示を開きませんか? 
 中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください 
 2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
 被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
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●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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民意に則って鳩山政権は対米交渉を継続することである。(転載)

2010-05-09 17:15:07 | Weblog

                          2010.5.8

民意に則って鳩山政権は

対米交渉を継続することである。

                                                                            

                  石垣敏夫。

 鳩山首相のブレは、米政府と日本の前支配者層からの圧力によって生じている、

と容易に推定できる。

現在、テレビのコメンテーターやエセインテリは鳩山批判に終始し、

自分たちの見解を述べていない。

民主党のマニフェスト「対等な日米関係を築く」

「在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」

等についても意図的に触れようとしていない。

また「安保条約」の破棄もどちらかの国が通告すれば一年後に解消できる

(安保条約10条)についても発言を控えている。

「安保」を「日米平和友好条約」に変更すべきである、

という問題提起もしていない。

「64年間基地被害を受け続け、屈辱に耐えてきた沖縄の人々に対し」

「気の毒」と言いながら、日本政府に何を望むか、と言うことを示していない。

日本人の評論家、マスコミ経営者は沖縄県民を日本人と思っていないのか。

沖縄の人々を同胞と思っていないのか。

 周知の通り、米軍基地は初期の目的を離れ日本を守る為ではなく

米国による日本支配を実質的なものとし、米国への利益を優先するためにある。

また基地の存在はそれに関わる権益を巡って国民の分断を招き不毛な対立を引き起こしている。

戦争が起これば日本の各基地は核を含む攻撃の的となる。

日本<不沈空母・中曽根発言>は核も基地もない平和な日本にすべきである。

沖縄の基地がベトナム・中東戦争等アメリカの侵略の為に使われてきたことは事実であり、

沖縄の基地撤去は世界平和に繋がることは明らかである。

また世界一多額な「思いやり予算を」いまだに打ち切れず、

国内では非正規雇用等無権利状態に置かれている低賃金労働者が少なくない。

これが安保体制の実態である。

 マスコミはいまだに「中国や北朝鮮の危険性を繰り返し指摘し」国民に不安を与え、

<o:p> </o:p>

沖縄の米軍基地の必要性を説いている。

米ソ冷戦構造の終結後、自衛隊も中国軍との交流をしており、

日本は東アジア共同体を目指し、今こそその一歩を沖縄の人々と共に踏み出すときである。

<o:p> </o:p>

民意を無視した政治は国民・市民が許さない

 国民が政治の主人公(主権者)とは民意を政治に反映させることである。

対米従属、金とコンクリート支配に対してNOと選挙で主権を行使した、沖縄の人々。

<o:p> </o:p>

この意思表示に対し、それを否定する言動は民主主義の破壊であり、

どんなことがあっても許されることではない。

この闘いは日本の民主主義守る闘いであり、

米国国民・世界の人々からも支持される闘いである。

<o:p> </o:p>

<o:p> </o:p>

<o:p> </o:p>

<o:p> </o:p>

・・南京への道・史実を守る会・・・・・・・

URL:http://www.jijitu.com

ML_URLhttp://www.egroups.co.jp/group/honda_sien/

mail:honda_sien-owner@egroups.co.jp

FAX:020-4624-2381

 

<o:p> </o:p>

・モバイル: http://rd.yahoo.co.jp/egroups/050616info/1.html

・移行手続: http://rd.yahoo.co.jp/egroups/050616info/2.html

・ガイドライン: http://rd.yahoo.co.jp/egroups/050616info/3.html 

 

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-05-09 06:19:30 | Weblog

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
8章 南京の細菌戦・死の工場
                             Ⅳ

 1945年8月、日本の敗戦が差し迫る中、支那派遣軍総司令部は、満州の関東軍指導者によって出されたものと同様の命令を中国の細菌戦部隊に発令した。麾下(きか)のすべての細菌戦施設が破壊されることとなった。南京の栄1644部隊は、それまでの幸福な研究時代にも発揮していた機敏さで命令に従った。手持ちのすべての「材木」は殺害され、中山東路の施設は発破によって根こそぎ破壊されて、器材と細菌戦研究のデータはすべて破棄されたと言われている。
 南京の部隊の主な科学者と技師は、中国軍が南京へ進出してくる前に何とか日本へ帰国した。当時平房に配属されていた増田は、ソ連軍に捕まる前に本国へ逃げ帰った。大田とその他の高級将校連中も逮捕を免れた。しかし、灰燼と化した細菌戦犠牲者の遺骨は廃墟となった施設跡にそのまま残った。それまでの6年間にそこで起こったことを偲ばせる、物言わぬよすがとして。
※南京の施設もことごとく破壊され、「材木」は殺された。大日本帝国の細菌戦研究の跡がばれないように証拠隠滅は周到に行われたようだ!!細菌戦研究のために生体実験を繰り返し、実際に細菌戦を実戦していたことが、戦後おおっぴらになるともちろん天皇の責任問題にも発展すると軍部は見ていたからだろう!!日本政府は戦後もずっとこのことを必死に隠し続けている!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
子女ないしはその他族の被害
韓愚(男、56歳)の証言
 1937年の暮れに、中国侵略日本軍が南京を占領した時、私たちは家中で難を逃れ江寧県の秣陵関へ行きました。ある日、日本兵4人がシェパードを連れて、至る所でホアクーニャン(=若い娘)を探し、頭に帽子のあとのある若い男の人たちを捕まえていました。2番目の兄の韓伝&#37995;と2番目の姉の夫の施為亮との2人が恐がって林に隠れていました。日本兵4人がシェパードを連れて家に来てホアクーニャンと若い男を出せと迫りましたが、父がいないと答えると、日本兵の1人がかかってきて父に2つびんたをなぐり、もう1人の日本兵が父のズボンのまちの部分に猛然と一太刀刺し、睾丸を刺し貫いて終生障害の身とさせられました。母が父をまもろうと跳びかかって行きましたが、やはり日本軍に銃床で胸をぶたれ、途端に口からどっと血を吐きました。日本兵はホアクーニャンも若い男も見つからず、シェパードを連れて林まで来て、韓伝鑫と施為亮とを捕まえ、老江口まで連れて行って銃殺したのです。(胡啓芳と王振中と劉昇孝が記録)
女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
化学兵器被害解決ネットワークからのお知らせ!
遺棄化学兵器問題とは?
化学兵器の製造と遺棄
 1929(昭和4)年に日本軍により製造が開始された化学兵器(マスタードガスなどの毒ガス)は、日中戦争の際、中国各地で使用されました。敗戦時、日本軍は国際法違反の化学兵器を隠ぺいするために、各部隊にそれらの遺棄隠匿(いきいんとく)を命じました。日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が認めただけでも40万発あります。化学兵器禁止条約に基づき、日本政府は2012年までに廃棄事業を終了させることが義務付けられていますが、10年以上経過した今も遅々として進んでいません。
化学兵器被害の苦しみ
 事故直後、皮膚がただれ、目は腫れ上がり、嘔吐、頭痛、激しい咳に襲われます。急性期症状が治まってからも気管支炎が治らず、一晩中続く咳に苦しむ人もいます。異常発汗や頻尿、性機能障害、免疫力低下の多くの被害者に見られます。また、「力が入らない」・「集中力が続かない」・「疲れやすい」など、他人には理解されにくい症状が彼らの社会復帰を阻んでおり、民間団体が行った検診の結果、自律神経・短期記憶・高次脳機能などの障害が指摘されました。
遺棄化学兵器被害の解決のために
 旧日本軍が遺棄した化学兵器による被害者は、現在裁判を闘っている原告たちのみではありません。中国にはまだ数多くの被害者がいます。また、日本国内でも被害者が繰り返し発生しており、被害者たちが救済を求めています。
 「もう2度と健康は取り戻せない。でもせめて安心して医療を受けられ、生活できるようにしてほしい。」―被害者たちの共通の願いです。私たちは、裁判で化学兵器を遺棄し放置し続けた日本政府の責任を明らかにするとともに、裁判を契機として、日本政府が、日中両国の被害者の救済のため、医療保障・生活保障の政策を作ることを求めます。
解決のためのアクション!
ACTION 1 5万人署名へのご協力をお願いします 
 早期解決を求め、5万人を目標として、内閣総理大臣宛の署名に取り組んでいます。ぜひご協力を下さい!(署名用紙の請求は下記の連絡先まで。HPからもダウンロードできます。)
 第1次集約 4月3日(土) 第2次集約 5月24日(月)
ACTION 2 リーフレットの配布にご協力下さい 
 このリーフレットを置かせて頂けるお店・配布してくださる集会をぜひご紹介ください。
ACTION 3  学習会・パネル展示を開きませんか? 
 中国の被害者は、「戦争が終わって65年経った今も被害者がいることを、日本の皆さんに知らせて欲しい」と言います。まずはご家族やお友達に話してください。ミニ学習会、講師派遣、ミニパネル展示なども出来ます。お気軽にお問い合わせください。チチハルやハルビンへ行くスタディー・ツアーの企画にもご協力いたします。
ACTION 4 遺棄化学兵器被害者の裁判を支援してください 
 2010年5月24日13時10分 チチハル遺棄毒ガス被害事件の判決が、東京地方裁判所103号法廷で言い渡されます。裁判所に公正な判決を求める声を寄せて下さい。ハガキや手紙の書き方は、チチハル裁判支援ブログに載っています。
ACTION 5 カンパのお願い
 被害者来日や署名活動、集会などに取り組みますが、運営・渡航・滞在費用は全て皆さんからのカンパで賄います。少額でも結構です。よろしくお願いいたします。
●連絡先●
東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3階
化学兵器被害解決ネットワーク
TEL 03-5379-2607 FAX 03-5379-2608e-mail suopei@tky.3web.ne.jp
http://cweapon.sakura.ne.jp/mt/youcan/
カンパ振込口座
郵便振替口座:00170-0-650194加入者名:チチハル8・4被害者を支援する会(通信欄に「ネットワークカンパ」とお書き下さい)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 ※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。 また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
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「米軍に普天間基地の代替施設は必要ない。日本は結束して無条件の閉鎖を求めよ」

2010-05-08 09:05:04 | Weblog

転送します。(石垣)
■ 「米軍に普天間基地の代替施設は必要ない。日本は結束して無条件の閉鎖を求めよ」
チャルマーズ・ジョンソン日本政策研究所(JPRI)所長
「普天間基地問題」で東アジア研究の大家でCIAの顧問を務めたチャルマーズ・ジョンソン元カリフォルニア大学政治学教授にインタビューしたものです。この中でチャルマーズ・ジョンソン日本政策研究所(JPRI)所長は次のような重要な発言をしています。

1.米軍に普天間基地の代替施設は必要ない。日本は結束して無条件の閉鎖を求めよ。

2. 橋本首相は普天間飛行場の移設ではなく無条件の基地閉鎖を求めるべきだった。

3.沖縄では少女暴行事件の後も米兵による犯罪が繰り返されているが米国はこの問題に本気で取り組もうとしていない。

4.普天間基地が長い間存在している最大の理由は米軍の内輪の事情つまり普天間の海兵隊航空団と嘉手納の空軍航空団の縄張り争いだ。すべては米国の膨大な防衛予算を正当化し軍需産業に利益をもたらすためなのだ。

5. 米軍基地は世界中に存在するがこういう状況を容認しているのは日本だけであろう。もし他国でたとえばフランスなどで米国が同じことをしたら、暴動が起こるだろう。日本は常に受身的で日米間に波風を立てることを恐れ基地問題でも積極的に発言しようとしない。民主党政権下で米国に対して強く言えるようになることを期待する。

6.米国政府はグアム住民の生活や環境などへの影響を十分に調査せず海兵隊の移転計画を発表した。そのためグアムの住民はいま暴動を起こしかねないぐらい怒っている。グアムには8千人の海兵隊とその家族を受け入れる能力はなく最初から実行可能な計画ではなかったのだ。

7.中国に関するあらゆる情報を分析すれば中国は自ら戦争を起こす意思はないことがわかる。中国の脅威などは存在しない。それは国防総省や軍関係者などが年間1兆ドル以上の安全保障関連予算を正当化するために作り出したプロパガンダである。過去60年間をみても中国の脅威などは現実に存在しなかった。

8. 北朝鮮は攻撃の意思はあるかもしれないがそれは「自殺行為」になることもわかっていると思うので懸念の必要はない。確かに北朝鮮の戦闘的で挑発的な行動がよく報道されるがこれはメディアが冷戦時代の古い発想から抜け出せずにうまく利用されている側面もある。

9.海外の米軍基地は縮小されているのか。残念ながらその動きはない。米国は世界800カ所に軍事基地を持つがこんなに必要ない。世界のパワーバランス(勢 力均衡)を維持するためならせいぜい35~40の基地で十分だ。米国政府は巨額の財政赤字を抱え世界中に不必要な軍事基地を維持する余裕はないはずだ。

10. 普天間問題で日米関係がぎくしゃくするのはまったく問題ではない。日本政府はどんどん主張して米国政府をもっと困らせるべきだ。 これまで日本は米国に対して何も言わず従順すぎた。日本政府は米国の軍需産業のためではなく沖縄の住民を守るために主張すべきなのだ。日本人が結束して主張すれば米国政府も飲まざるを得ない。

11. 日本にはすでに世界最大の米海軍基地(横須賀)があり各地に空軍基地も存在する。これ以上の基地は必要ない。東アジアのどの国も日本を攻撃しようなどとは考えないだろう。日本政府は巨額の「思いやり予算」を負担している。自国の外交・防衛費をすべて負担できない米国のために、日本が同情して払っているのだ。

12. 一般の米国人は日本を守るために米国がどんな軍事力を持つべきかなどほとんど関心がないし、そもそも米国がなぜ日本を守らなければならない のか疑問に思っている。世界で2番目に豊かな国がなぜこれほど米国に頼らなければならないのか理解できない。それは日本人があまりに米国に従順で、イージーゴーイング(困難を避けて安易な方法を取る)だからではないか。

以下に全文を転載しますのでぜひお読みください。

*■「米軍に普天間基地の代替施設は必要ない!日本は結束して無条件の閉鎖を求めよ」
* 元CIA顧問の大物政治学者が緊急提言

2010年5月7日 Diamond On Line

http://diamond.jp/articles/-/8060

独占インタビュー チャルマーズ・ジョンソン 日本政策研究所(JPRI)所長

普天間基地問題の決着期限が迫るなか、鳩山政権は辺野古沿岸につくる桟橋滑走路と、徳之島の既存の空港を併用する移設案を提案した。しかし、地元や米国側の同意を得られる見通しは立っておらず、日本国内は鳩山政権批判一色に染まっている。しかし批判するだけでは何も変わらない。そもそも同基地の代替施設の不要論は米国内にもある。東アジア研究の大家で、CIAの顧問を務めた経験もあるチャルマーズ・ジョンソン元カリフォルニア大学政治 学教授は、日本国内にはすでに十分すぎる米軍基地があり、日本国民は結束して普天間基地の無条件閉鎖を求めるべきだと提言する。

(聞き手/ジャーナリスト・矢部武)

著名な国際政治・東アジア研究者。米国の覇権主義、軍事優先主義を厳しく批判した著書が多く、東アジアにおける米国の帝国主義的政策は必ず報復を受けると分析した”Blowback”(邦題「アメリカ帝国への報復」(2000年、集英社)はベストセラーに。カリフォルニア大学で政治学博士号を取得し、同大学で教授、政治学部長、中国研究センター所長などを歴任。その後、日本および環太平洋地域の国際関係を研究する民間シンクタンク“日本政策研究所”(JPRI)を設立。

(インタビュー開始)

―鳩山政権は普天間問題で窮地に立たされているが、これまでの日米両政府の対応をどう見るか。

まったく悲劇的だ。両政府は1995年の米兵少女暴行事件以来ずっと交渉を続けてきたが、いまだに解決していない。実を言えば、米国には普天間飛行場は必要なく、無条件で閉鎖すべきだ。在日米軍はすでに嘉手納、岩国、横須賀など広大な基地を多く持ち、これで十分である。

そもそもこの問題は少女暴行事件の後、日本の橋本首相(当時)がクリントン大統領(当時)に「普天間基地をなんとかしてほしい」ということで始まった。この時、橋本首相は普天間飛行場の移設ではなく、無条件の基地閉鎖を求めるべきだったと思う。

―普天間を閉鎖し、代替施設もつくらないとすれば海兵隊ヘリ部隊の訓練はどうするのか。

それは余った広大な敷地をもつ嘉手納基地でもできるし、あるいは米国内の施設で行うことも可能だ。少なくとも地元住民の強い反対を押し切ってまでして代替施設をつくる必要はない。このような傲慢さが世界で嫌われる原因になっていることを米国は認識すべきである。

沖縄では少女暴行事件の後も米兵による犯罪が繰り返されているが、米国はこの問題に本気で取り組もうとしていない。日本の政府や国民はなぜそれを容認し、米国側に寛大な態度を取り続けているのか理解できない。おそらく日本に
とってもそれが最も簡単な方法だと考えているからであろう。フランスならば暴 動が起きている

―岡田外相は嘉手納統合案を提案したが、米国側は軍事運用上の問題を理由に拒否した。

米軍制服組のトップは当然そう答えるだろう。しかし、普天間基地が長い間存在している最大の理由は米軍の内輪の事情、つまり普天間の海兵隊航空団と嘉手納の空軍航空団の縄張り争いだ。すべては米国の膨大な防衛予算を正当化し、軍需産業に利益をもたらすためなのだ。

米軍基地は世界中に存在するが、こういう状況を容認しているのは日本だけであろう。もし他国で、たとえばフランスなどで米国が同じことをしたら、暴動が起こるだろう。日本は常に受身的で日米間に波風を立てることを恐れ、基地問題でも積極的に発言しようとしない。

民主党政権下で、米国に対して強く言えるようになることを期待する。

―海外の米軍基地は縮小されているのか。

残念ながら、その動きはない。米国は世界800カ所に軍事基地を持つが、こんなに必要ない。世界のパワーバランス(勢力均衡)を維持するためなら、 せいぜい35~40の基地で十分だ。米国政府は巨額の財政赤字を抱え、世界中に不 必要な軍事基地を維持する余裕はないはずだ。

―日本では中国や北朝鮮の脅威が高まっているが。

日本にはすでに十分すぎる米軍基地があり、他国から攻撃を受ける恐れはない。もし中国が日本を攻撃すれば、それは中国にこれ以上ない悲劇的結果をもたらすだろう。

中国に関するあらゆる情報を分析すれば、中国は自ら戦争を起こす意思はないことがわかる。中国の脅威などは存在しない。それは国防総省や軍関係者などが年間1兆ドル以上の安全保障関連予算を正当化するために作り出したプロパガンダである。過去60年間をみても、中国の脅威などは現実に存在しなかった。

北朝鮮は攻撃の意思はあるかもしれないが、それは「自殺行為」になることもわかっていると思うので、懸念の必要はない。確かに北朝鮮の戦闘的で挑発的な行動がよく報道されるが、これはメディアが冷戦時代の古い発想から抜け出せずにうまく利用されている側面もある。

―米軍再編計画では普天間の辺野古移設と海兵隊のグアム移転がセットになっているが、辺野古に移設しない場合、グアム移転はどうなるのか?

米国政府はグアム住民の生活や環境などへの影響を十分に調査せず、海兵隊の移転計画を発表した。そのため、グアムの住民はいま暴動を起こしかねないぐらい怒っている。グアムには8千人の海兵隊とその家族を受け入れる能力はなく、最初から実行可能な計画ではなかったのだ。

―それでは米国政府が「普天間を移設できなければ議会が海兵隊のグアム移転の予算を執行できない」と強く迫っていたのは何だったのか。

自らの目的を遂げるために相手国に強く迫ったり、脅したりするのは米国の常套手段である。

―海兵隊をグアムに移転できない場合、米国政府はどうするか。

おそらく米国内に移転することになろう。それでも海兵隊部隊の運用上、問題はないはずだ。

―日本では普天間問題で日米関係が悪化しているとして鳩山政権の支持率が急降下しているが。

普天間問題で日米関係がぎくしゃくするのはまったく問題ではない。日本政府はどんどん主張して、米国政府をもっと困らせるべきだ。これまで日本は米国に対して何も言わず、従順すぎた。日本政府は米国の軍需産業のためではなく、沖縄の住民を守るために主張すべきなのだ。日本人が結束して主張すれば米国政府も飲まざるを得ない

―米軍基地の大半が沖縄に集中している状況をどう見るか。

歴史的に沖縄住民は本土の人々からずっと差別され、今も続いている。それは、米軍基地の負担を沖縄に押しつけて済まそうとする日本の政府や国民の態度と無関係ではないのではないか。同じ日本人である沖縄住民が米軍からひどい扱いを受けているのに他の日本人はなぜ立ち上がろうとしないのか、私には理解できない。もし日本国民が結束して米国側に強く主張すれば、米国政府はそれを飲まざるを得ないだろう。

―今年は日米安保50周年だが。

日本にはすでに世界最大の米海軍基地(横須賀)があり、各地に空軍基地も存在する。これ以上の基地は必要ない。東アジアのどの国も日本を攻撃しようなどとは考えないだろう。日本政府は巨額の「思いやり予算」を負担している。自国の外交・防衛費をすべて負担できない米国のために、日本が同情して払っているのだ。 

―普天間問題を解決できなければ両政府がどんなに同盟の深化を強調してもあまり意味がない、との指摘もあるが。

それは米国が軍事力優先の外交を展開しようとしているからである。一般の米国人は日本を守るために米国がどんな軍事力を持つべきかなどほとんど関心がないし、そもそも米国がなぜ日本を守らなければならないのか疑問に思っている。世界で2番目に豊かな国がなぜこれほど米国に頼らなければならないのか理解できない。それは日本人があまりに米国に従順で、イージーゴーイング(困難を避けて安易な方法を取る)だからではないか。

(インタビュー終わり)

(終わり)

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