核時代39年(1984年)5月初版発行
釘うち拷問
残忍極まりない取り調べ
原田左中(はらださちゅう)
憲兵軍曹
〈旧部隊名〉
元関東軍第一特別警備隊第五大隊第一中隊
その弾みを食った中隊長は軍刀を持ったままひょろひょろと2,3歩前によろめき、男の体にどっと突き当たった。
大尉の肩章が男の血でべっとり染まった。きゅっと顔を歪めたと思うと、「この野郎ッ」破(わ)れ鐘のような声で怒鳴った次の瞬間、軍刀は鞘ぐるみ男の肩先に唸りを生じて飛んだ。「ウウーン・・・」男は低いうめき声をあげ、がっくりと首を垂れた。男の肩先は肉が破れ、真っ赤な血がドクッドクッと噴き出した。
「うん、こいつ図太い野郎だ。原田兵長、もっと叩きのめせ、打ち殺して構わん」怒鳴る様にこう言うと、中隊長は震える足取りで軍刀をガタガタ土間に叩きつけながら表に出て行ってしまった。
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
●『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
イ 米国
(イ)次の如き兵力の展開を行なった。
b 海軍
(a)7F麾下の空母攻撃部隊のうち一群を東南ア海域に、一群を比島海域に進出。他の一群はハワイにおいて整備、臨戦準備実施中。
(b)7Fの両用戦部隊(海兵隊約1000名搭載)を東南ア海域に進出、沖縄及び日本に所在する海兵隊及び海兵航空団を現在地において待機
(c)対潜掃討部隊のうち、一群を南支那海に進出。
(d)7F司令長官は東南ア海域に進出、作戦指揮に当たっている。
*F=艦隊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。