【DJI OSMO POCKET】パリの穴場観光【採石場跡地】ビュット・ショーモン公園〜ベルビル〜サンマルタン運河 Belvédère des Buttes Chaumont &Rue mouzaïa
【DJI OSMO POCKET】パリの穴場観光【採石場跡地】ビュット・ショーモン公園〜ベルビル〜サンマルタン運河 Belvédère des Buttes Chaumont &Rue mouzaïa
パリにありながら在仏日本人でも知らない穴場な場所に行ってきました。聞くとフランス人でも知らない人がたくさんいるそうです。それからベルビル、サンマルタン運河まで徒歩で行ってきました。下にそれぞれの場所の説明をつけています。 " 『ベルヴェデール・デ・ビュット・ショーモン(Belvédère des Buttes Chaumont)』 (危険度⭐️☆☆☆☆ )
パリ北東部、19区の南部にある公園。ビュット・ショーモン公園は、24.73haの面積を持ち、ヴァンセンヌの森、ブーローニュの森、ラ・ヴィレット公園及びテュイルリー庭園に次ぐ、パリで5番目に大きな緑地である。 採石場の跡に作られた公園であり、30メートル以上の高低差がある(概ね北側中央部が低く、周辺が高い 。)。 公園は、逆さにした凹型で、北東のクリメ通り沿いのみが直線である。 南側に2箇所の突端部があり、両者の間がこの公園の最長辺(820メートル)である。 公園の最大幅は450メートルで、周囲は2475メートルである。 公園北側の低部に約1.5ヘクタールの湖があり、その中央部には険しく切り立った30メートル程の高さの島がある。 公園には、12ヘクタールの芝生、6ヘクタールの植栽、1ヘクタールの岩石群と4.5ヘクタールに及ぶ庭園道路(道路が5.5キロメートル、小道が2.2キロメートル。)があるビュット・ショーモン公園(当時は"Butte Saint Chaumont ビュット・サン・ショーモン"と名付けられていた)の地下は、フランス革命後に開発され、パリ中心部の建物建築のための石膏や石臼の採掘場となった。また、この場所は、浄化槽やゴミ捨て場としても機能した。 当時ベルヴィルというコミューンにあった採石場は、このコミューンがパリに併合されたパリ再編の年である1860年まで運営されていた。石膏の採掘のため禿山になったことから Chaumont(Chauve-mont=裸の山)の名がつき、採石場閉鎖後は、処刑場、場、汚物処理場などに使われてゴミ捨て場と化して荒れ果てていたものを、セーヌ県知事だったジョルジュ・オスマンが公園として整備することを計画した。
『ムザイア通り(Rue de Mouzaïa)』 (危険度⭐️⭐️☆☆☆)
19区はパリの端に位置し、高層アパートなどが建ち並ぶ所もあり、20区と並んで地価が比較的安いので、移民の多い区です。その高層ビルのすぐ横のrue de la Mouzaïaムザイア通り周辺は、高くても4-5階止まりの、パリ市の平均よりずっと低い建物が並び、静かで、所どころにアールデコなどの建物も混じり、100年前にタイムスリップしたような地区です。1870年まで採石場として縦横に地下道が掘られていたため、高層ビルを建てる地盤が無かったからだそうです。何とラッキーな!そのため全部の家が2階建てとミニチュアサイズ。どの家の前にも、文字通り猫の額ほどの庭があり、パリ市内はみなアパート住まいなので、羨ましい限りです。パリの中心から外れ、何の宣伝もされないので、パリジャンでも知らない人が多く、もちろん観光客も来ません。
『ベルビル( Belleville)』
かつてのベルヴィルは採石労働者やワイン生産者が暮らす土地だった。ブルボン朝の王政復古後、ダンスホール、ギャンゲット、飲食店が丘のふもとにでき、パリからやってくる人々に人気の場所となった。現在は中国人や外国人がたくさん住み、娼婦などがいたり治安はあまり良くないので女性の一人歩きは十分注意が必要です。ただ、ここは13区のチャイナタウンと同様、安くて美味しい中華料理がいただける場所として有名です。
『サンマルタン運河(Canal Saint-Martin)』(危険度⭐️⭐️☆☆☆)
映画「アメリ」で石切りをするシーンに登場。ウルク運河(フランス語版)から続くラ・ヴィレット貯水池(フランス語版)と、セーヌ川へ続くアルスナル港とを結んでいる。開通したのは1825年である。25mの高低差があるために9つの閘門がある。幅が狭いため当初はパリに飲料水を導くために使われたが、現在はレジャー用になっている。運河の一部は地下水路になっている。地下化でパリ11区内で交差する北側レピュビュリック大通りから南側バスティーユ広場南端にかけて、リシャール・ルノワール大通りが1862年に、11区北側でリシャール・ルノワールに接続するジュール・フェリー大通りが1907年にできた。 運河が地上に出ているところはパリ10区になり、ヴァルミー(河岸)通りとジュマペ(河岸)通りが運河両岸に沿って走り、ジュマペ側に有名な北ホテルがある(マルセル・カルネ監督の1938年の映画『北ホテル Hôtel du Nord 』に登場した)。また、シスレーの絵画の題材にもなっている。
サン・マルタン運河は1970年代の初め、4車線の都市高速道路を造るために無くなりそうになったが、すぐにこの計画は中止された。現在では河岸が整備されている。このエピソードについては映画『L'An 01(フランス語版)』でふれられている。 (Wikipedia転載)
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