雑貨屋さんをはじめた私の家系は、果物屋さんだったのです。
母方の祖母、照子の祖父は大阪の中央卸売市場で青果業を営み、当時は高級品だった
バナナの輸入卸などをしていました。
そして照子の父は家業を継ぎ、兄弟で阿倍野と上本町六丁目の近鉄百貨店で青果店を
まかせれることになりました。
今でも中央卸売市場と上六の近鉄百貨店の青果店はそれぞれ家業を継いでがんばって
おられます。
照子の旦那である鼎は亡くなってから10年経ちますが、鼎の祖父は水道屋でした。
鼎の父、徳三郎は大阪の天満で鉄工所を経営し、1人息子の鼎の別荘として購入した
茨木の地でも鉄鋼所を始めましたが終戦後しばらくして閉業し、貸ビル及び借家業を
営みました。可愛がっていた息子が戦争に駆り出されることになったため、
淋しい想いをよく家族にぶつけていたそうです。
しかし、徳三郎は仕事熱心で先見の目があったらしく、そのおかげで私たちはこの地に
住むことができ、お店を開くことができたのです。
ちなみに私の父方の先祖は長州藩主で毛利藩家老だった國司信濃守で武士でした。
山口県の萩市にお墓があります。
父の祖父は宣真学園を創立し、その息子は音楽と油絵が好きな小学校の先生でした。
父が5歳の時に結核で亡くなってしまいました。
私も2歳と5歳の息子がいますが、この時期に一家の主を無くした子供と奥さんの
胸中ははかりしれません。
父の実家は725年から伝わる池田の
久安寺です。家業がたいへんできっと幼少時代に
親に遊んでもらっていなかったと思うのに、父は私が幼い頃よく遊んでくれました。
私も子供たちに淋しい想いをさせないよう心がけたいと思います。
昔のことを調べてみると色んな発見があっておもしろいですね。
色やデザイン、音楽が好きなことやお店をしたいと思うことは遺伝なのかもしれません。
この次はお店の紹介をさせていただきます。