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大宮神社の摂社

第2回目のブログにて、草刈に坐します大宮神社のご由緒などを挙げましたが、本殿に向かって左には合祀令に基づきこの地に遷された8社の摂社がございます。

これらは大宮神社に対して、子宮と呼ばれて付近に点在していた、古墳の跡や、一族の氏神、さらに屋敷内に置かれていたお宮を、明治になって発布された合祀令により、この大宮神社の地にまとめられたもののようです。

本殿に近いほうから、少し小ぶりな「明正神社」から順に「熊野神社」「八坂神社」「御霊神社」「八剱神社」「天満神社」「大日神社」「日枝神社」、最後にま小ぶりな「山神社」が祀られています。それなりに有名な神社の名前のものが見受けられますが、すべての由緒が残されていないのが、残念だと神主の市川先生がおっしゃいます。

 

古来有名な神社(神仏習合時代は仏教色が強い)には、講と呼ばれるいわば宣伝部隊のような、人々がそれぞれの神社の由緒や効力を各地に宣伝して歩いていましたが(有名なのは伊勢講、出雲講、熊野講など)、その霊験や守護力を取り入れて、それぞれの氏神に付け加えたり、置き換えていった部分もあるようです。

 

まず、明正神社。あまり他に見られない社名ですが、元々は付近の大きな森の斜め後ろにあった、疱瘡ババ神の社をこちらに遷したようです。子供の病気の快癒祈願に霊験があったようです。

 

熊野神社は元々出雲の熊野大社からの講により、勧請されたと推測されます。奈良時代には杵築大社(現出雲大社)と並び両大社と呼ばれ、出雲国造家が杵築に移る前から奉斎していた、出雲の根本祭場であります。祭神は櫛御気野命(食物の神)。紀伊の熊野三山はこの熊野神社と同系列の信仰と言われています。前回押沼でのたたら製鉄のお話を致しましたが、熊野神社は元々たたら製鉄の盛んな山陰地方で、たたら製鉄に関わりのある人々の信仰した神社と言われています。

 

八坂神社はご存じ京都の祇園祭で有名な須佐之男命を祭った神社です。もともとは京都東山のふもと八坂郷の古い鎮守神で高句麗系帰化人八坂氏の氏神と推定されますが、社伝では斉明天皇の時代に紀百継(きのももつぐ)がこの地に祭祀を始めたとされます。

八坂神社と呼ばれるようになったのは、実は明治以降であり、それまでは延暦寺の末寺で「観慶寺感神院」もしくは「祇園感神院」と呼ばれる宮寺でした。牛頭天皇を主神として祀る神殿である「祇園天神堂」と牛頭天皇の本地仏である薬師如来を主尊として安置する仏堂が併存していました。明治の廃仏毀釈により、仏教色が払拭されて今日の形になったものです。牛頭天皇と素戔嗚の関係と習合については、蘇民将来伝説により、祇園社が疫病を免れる神社となったということのようです。付近でも氏子さんの多い有力な神社であったらしいとのこと。

 

御霊神社は京都の上京区に上下二社がございます。元々は奈良から平安初期にかけて、冤罪により悶死した人々の怨霊と言われる霊魂を恐れ、そのうち吉備真備、早良親王、伊予親王、橘逸勢、藤原広嗣などを祭った神社です。ちはら台西に隣接する茂呂町の鎮守で、小高い山の上に御霊神社が鎮座しています。そのふもとには毘沙門堂もあります。

 

八剱神社は八本の剣をご神体もしくは祭神としたり、素戔嗚、大国主、日本武尊を祭神とする神社です。三種の神器の一つ草薙の剣を祭る熱田神社の摂社にも見えますが、近くのおゆみ野には日本武尊東征に際し、当地の騒乱を平定して、房の国を上総・下総に分割し、国境を定めたことに感謝して創祀したとの由緒があります。もともと小弓(生実)の総鎮守であったとのことですから、こちらが近しいのかもしれません。

更に有名なのは、木更津の八剱八幡神社です。八幡神社は品陀別命とその父母、祖父である日本武尊がこちらでも祭神となります。木更津の名前の由緒となった、日本武尊にご縁がある千葉に多い神社と考えられます。

 

天満神社はご存じ、菅原道真公を祀る北野天満宮と、太宰府天満宮が有名ですが、北野の方は太平洋戦争後に改称されたもので、それまでは北野神社と呼ばれていたようです。ただし987年の宣命に「北野坐す天満宮天神」とあり、いろいろと呼ばれていたようです。対する太宰府の方は菅原道真の遺骸を葬った安楽寺の境内に905年に神殿を建てて、廟所とされ天原山庿院と称しました。社号の天満宮については990年頃から併用されていたようです。

こちらも天神講がゆかりで、今でも毎年1月25日の天神講には氏子さんたちが、集まってお参りをするそうです。

 

大日神社という神社で有名なのは秋田県大館が有名ですが、密教の大日如来を本尊とする、神仏習合の神社が神仏分離令により、天照大御神の別名である大日霊貴神(オオヒルメムチノミコト)に祭神を変更したものが多いようです。もしくは元々大日女尊(オオヒルメ)を祀った神社もあるようです。

前回も紹介しましたが、ちはら台給食センターに隣接する前方後円墳に坐す川焼不動尊も、もともとは密教の神様ですが、造りは完全に神社形式であります。名前からの連想なのか、火伏りの神として、都内からの参拝もあるそうです。

 

日枝神社は比叡山山ろくの日吉大社に勧請を受けた神社の社号となります。古事記には「近淡海国の日枝山に坐す」大山咋神 との記述があり、もともとは比叡山(日枝山)の地主神から始まっています。東京の永田町の山王日枝神社が、江戸三大祭りの山王祭(天下祭りとも)で有名ですが、もともとこちらは川越の無量寿寺の鎮守である川越日枝神社を、太田道灌が江戸城築城にあたり勧請したことに始まるようです。

 

さて、最後の山神社。読み方として「さんじんじゃ」「やまじんじゃ」「やまのかみしゃ」の三通りがあります。日本各地に散在しているといっても、東北地方の宮城、山形が多いようです。祭神も大山祇命(おおやまずみ)やその娘此花咲耶姫命(このはなさくやひめ)だったりしますが、そのかみを祀る人々により性格は代わります。例えば他を耕す人々にとっては、山の神が交錯のシーズンには田の神になる。それは一種の祖霊信仰と言われています。猟師や木こりにとっては仕事場である山を守る神で、この場合は女神であることが多く、女性は禁忌とされていることが多いようです。山の民にとっては産土神の要素が強いのでしょうか。こちらは付近にあった材木屋さんの屋敷内に祀られていたお社とのことです。

数ある山神社のなかで、唯一式内社(名神大社)である兵庫県豊岡市日高町(旧国名では但馬)では、古事記にも登場する木の神、久久能智神(くくちのみこと)が祭神となっています。

 

簡単に各摂社を紹介致しましたが、すべてが記録として残っているわけでもなく、各社に掲げられた社名についても、あやふやな部分があるかもしれません。

尚、ちはら台を構成する旧地名としては、草刈以外に番場、押沼があります。こちらにも番場神社(山王大権現)と押沼神社、さらに永吉には浅間神社と平野神社、潤井戸には白幡神社などが点在しています。これらは神主さんの常駐していない神社ですが、そのうちに調べてみようと考えています。情報がございましたら是非お知らせくださいませ。

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