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ヤマトタケルのお墓と神社のお話①

お約束のヤマトタケルのお墓と神社のお話。

前BLOGにて私の勤めていた会社の三重支社付近にございます能褒野陵が明治になって、正式に教部省通達としてヤマトタケルの陵墓として認められたお話はさせて戴きました。

ヤマトタケルについては、古事記と日本書紀では微妙に異なったキャラクターや物語が展開されています。本名はいずれも小碓尊(おうすのみこと)で書紀では第2子で双子の弟の方。古事記では第3子で双子の記述はありません。

熊襲猛からヤマトタケルと号を献じられた表記からして書紀では日本武尊、古事記では倭健命と異なっております。

最も異なるのが父である景行天皇との人間関係です。古事記では熊襲征伐前に殺してしまった同母兄大碓尊が、書紀では東征前に怖気づいて逃げてしまい、代わりにヤマトタケルが立候補し、景行天応から最大の賛辞と皇位継承の約束を与えられます。

対して古事記では熊襲、出雲に重ねての東征に、悲嘆するヤマトタケルが描写されます。

最期は伊吹の山神により能褒野にて亡くなるのは同様ですが、古事記ではかの有名な国偲び歌 「倭は国のまほろぼ たなづく青垣 山隠れる 倭し 麗し」から4首の歌を辞世として詠じて亡くなるのですが、書紀ではこの歌は父である景行天皇が九州平定の途中で、日向にて詠んだとされております。

その後尊は白鳥となって飛んでいくのですが、古事記では伊勢を出た後河内の志幾に留まり、やがて天に翔り行ってしまうの対し、書紀では能褒野から大和琴弾原(現奈良県御所市)、更に河内古市(大阪府羽曳野市)を経て天に翔ることになります。その後この3か所に陵墓を造り、天皇は武部(建部・健部)を日本武尊の御名代としたと説明しています。

現在宮内庁はこれらの陵墓を能褒野墓と、白鳥2陵の3か所を既述の三重県亀山市。更に奈良県御所市のかっては権現山と称された長方墳と、羽曳野市軽里の5世紀後半築造とされる前方後円墳「軽里大塚古墳(前の山古墳・白鳥陵古墳とも)」を治定しています。

延喜式の諸陵式においては、記述があるのは能褒野墓のみで、所在は伊勢国鈴鹿郡となっており守戸3烟を付す、即ち御陵番として陵の守護、清掃に3戸分の人件費を朝廷が賄うことになっていたということです。元々陵とは天皇、皇后の墓を指す表現であり、ヤマトタケルの実在性はともあれ、大和朝廷として実際には天皇に準ずる位置づけをされていたようです。

まあ、記紀では息子が天皇(第14代仲哀天皇)となっているので、あながち間違いではないのかもしれません。

記紀のヤマトタケルには、いくつかの歴史的な出来事や、それに基づく地名の由来が語られていますが、前後の天皇の事績が特に熊襲征伐についての重複が見受けられます。4世紀から7世紀にかけての大和朝廷側の何人かの英雄談を、ヤマトタケル伝説として創出していきそれに伴い、能褒野墓を造ったと考えるべきかと思います。

持統天皇5年の詔に有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとあり、この頃は古事記、書紀の編纂の時期と重なっていることもあり伝説を史実とするために、墓を特定し守護までも付けたのでしょう。これは10世紀くらいまで継続されていたようです。

白鳥陵のうち大和のそれは明治9年に、河内の方は明治8年にいずれも教部省により指定されましたが、河内の方は明治13年に現在の陵に改定されております。現河内白鳥陵は河内国陵墓図では木梨軽太子の軽之墓と記されています。

さて、神社の件。

ヤマトタケルを主神とする一之宮は2社ございます。

まずヤマトタケルの後裔とされる氏族として挙げられるのは、以前北近江散歩で紹介した犬上氏(君?朝臣?)と建部氏(君・朝臣)、近江建部氏、和気氏(公)等であります。

犬上氏、建部氏ともに、ヤマトタケルの妃、垂仁天皇皇女とされる両道入姫皇女(ふたじいりびめのひめみこ)の子とされる稲依別王(いなよりわけのみこ)の後裔とされます。

同母弟に第14代仲哀天皇があり、同じく同母弟に稚武王(わかたけるのみこ)があって、近江建部氏、宮道氏の祖とされます。

この建部氏の祀るのが近江一の宮の建部大社でございます。

その社伝によれば、ヤマトタケル死後、両道入姫皇女が稲依別王と共に住んでいた(神勅によるとの説も)神埼郡建部郷(現東近江市五個荘付近の箕作山)の地に、ヤマトタケルを建部大神として祀ったのが創建とされるそうです。

天武天皇4年(675年)に近江守護神として、現在地(大津市瀬田)に遷座され元の山麓には建部大明神を経て建部神社が建てられています。      

もう一つが和泉一宮の大鳥神社で、おとりさまの熊手で有名な、全国に展開する鷲神社をふくめた、大鳥神社の本宮であります。

延喜式神名帳に名神大社として記され、本殿の大鳥造は出雲大社造に次ぐ古い形式といわれています。

祭神は日本武尊と大鳥連祖神。実は中臣氏の祖神でもある天児屋根命と同じで、元々は大鳥氏の氏神であったものが、大鳥という名称と日本武尊は死後白鳥となって飛び立ち、河内に降り立ったという神話と結びついたと想像されます。

社伝によっても大和琴引原で留まり、更に飛び立って河内古市郷に降り、最後に大鳥の地に舞い降り、その夜に一夜にして樹木が生い茂り、千草の森と呼ばれたことから、その地に社を建てて祀ったとされています。

この大鳥連は代々本社の神職を継いでいきますが、摂関家の番頭であった程度しか記録が無く、中央豪族としての活躍も明確ではなく、かといって和泉の地は機内にあり、研究対象としては面白いかもしれません。

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