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近江犬神郡散歩①

以前私が所属していた会社の、兄弟会社で自動車部品を製造している古河ASという会社がございます。割と頻繁に行き来をしておりました。

同社は1946年といいますから、戦後すぐに滋賀県犬上郡豊郷村大字八目に、古河電気工業の協力会社として発足し、1950年に近江電線株式会社と改組されました。

紆余曲折を経て、犬上郡甲良町尼子の現本社工場を1985設立し、1966年に本社機能を移転し、2007年に現社名に改めて現在に至っております。最寄駅は近江電鉄尼子駅。こちらからは徒歩数分。旧中山道は北西に数十メートルの距離で、国道8号線を通り越して更に一本道を北に進むと、左にJR東海道本線の河瀬駅となります。

さて、同社の所在地犬上郡についてです。

琵琶湖の東に位置する旧国名近江の犬上郡は現彦根市の大部分、豊郷町の一部と、甲良町、多賀町の全域となり、山地の多賀町と芹川を挟んで南側の甲良、豊郷は湖東平野の一部をなしています。

遺跡は古墳時代、飛鳥時代の集落が発掘されています。古代には此の辺り大和の有力豪族である葛城氏の支配地であったようで、桂城神社の名や尼子の甲良神社の祭神が武内の宿禰(葛城氏、蘇我氏、平郡氏などの祖先とされる)であることから推測されます。

その後一帯を領地化したのが犬上氏。横溝正史の小説は犬神家でこちらとは関係ありません。

小学校で習った、遣唐使で有名な犬上御田鍬(みたすき)が、この一族となります。第8回の遣隋使と第一回の遣唐使であります。手塚治虫さんの代表作「火の鳥・太陽編」はこの犬上君をモデルとしています。

犬上の君(犬上郡の県主)は、日本書紀ではかの日本武尊と最初の妻である両道入姫(ふたぢのいりひめ)の皇女との間に生まれた、稲依別王の子孫とされており、郡名もこの一族に由来しています。

しかし実際には新羅の皇子とされる天日槍(あめのひぼこ)とともに半島から渡来し、この辺りに入植して開拓した帰化人であるとも伝えられており、こちらの伝承が事実に近いと思います。

豊郷町にある犬上神社、多賀町の大滝神社、多賀大社はおそらくこの犬上氏の祖先を祀っていると思われます。

大滝神社と、犬上神社には類似の伝説が残っており、犬上氏の祖先が連れていた犬が激しく吠えかかり、怒った飼い主が首を刎ねたところ、首は飛んで隠れていた大蛇の喉を食い破ったというもの。いずれも犬飼としての犬上氏を現す逸話だと推定されます。

犬上氏は前述の犬上御田鍬の如く、推古~天智期には中央貴族として遣唐使などにも活躍し、白村江の戦いでは戦狼を船で運んだとの記述もあり、有力古代豪族だったようですが、壬申の乱以降に、次第に振るわなくなります。まあ、他の古代豪族も結局不比等以降の藤原氏の台頭の前に萎んでしまいますので、同様ですが。

この地方に残った犬上一族は多賀神社の神主として河瀬氏を名乗り、戦国時代にそこそこの勢力化しています。河瀬はJRの駅にその名を残してもいます。

中世には多賀神社、広隆寺、興福寺、東大寺などの荘園となり、南北朝時代には、太平記にてバサラ大名で御馴染み、佐々木道誉(京極高氏)が甲良荘に勝楽寺城を築き本拠地としています。応仁の乱の頃には京極高数が下之郷城を築城し、その次男多賀高忠が活躍。

住所の尼子でピンときた方もいらっしゃるとは思いますが、尼子氏は京極氏の一族でございます。尼子詮久の時代に次男持久が出雲に下向して、出雲守護代から戦国大名化し、大内氏、毛利氏と中国地方の覇権を争います。最終的には滅亡しますが、一族の一人で「我に七難八苦を与えたまえ」と新月に祈る武士、山中鹿之助が最後まで毛利氏に対抗。その子孫は鴻池氏として、江戸期の豪商として残ります。

戦国期にこの地の出身者で高名なのは、現甲良町在士である犬上郡藤堂村の土豪藤堂虎高の二男として生まれ、浅井長政の足軽を振り出しに、伊勢、伊賀2国の太守として徳川家康に外様大名としては最大級の処遇を得た、藤堂高虎であります。

因みに私事ではありますが、尼崎のバーでたまに一緒になり楽しい時間を過ごさせて戴く藤堂さんは、この高虎直系の子孫の奥様です。

豊臣時代は佐和山(現彦根市、駅前には通りの名前として現在も残る)の石田治部少輔三成。関ケ原後の江戸時代は徳川家の先鋒であり、大老を輩出した井伊家の彦根藩領として明治を迎えました。

近江といえば近江商人ですが(江戸時代は江州商人と呼ばれたのは、以前のブログで紹介の通り)、近江八幡から日野周辺にこの犬神郡も含まれます。明治以降も彦根には旧制高等商業(現滋賀大学経済学部)や、八幡商業という歴代著名な商人を生んだ施設があります。

ローカル線の近江鉄道で彦根から尼子に向かうと、途中で多賀大社前行きと分岐する駅が高宮(彦根市高宮)ですが、この地は草津追分で東海道と別れて4番目、お江戸日本橋からは63番目の中山道の宿場となります。当然皇女和宮下向の際も通っています。

多賀大社の一の鳥居でも有名な、この地の名産が高宮布と称される麻織物。

彦根藩から将軍への献上品でもありますが、近江商人を介して日本各地に流通しております。

領主井伊直弼が攘夷派を弾圧していた頃の安政5年に、犬上郡甲良郷八目村(現豊郷町八目)という奇しくも近江電線発祥の地に、近江麻布類の持ち下り商を開業し、堺や紀州に行商を行ったのが、伊藤忠兵衛。即ち現伊藤忠商事、丸紅の創業者であります。

元々の生家の屋号が紅長(べんちょう)で丸紅の社名はこちらからの発祥のようです。

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