時間が経過するということは、その前の出来事を客観的に俯瞰することができる、ということかもしれません。
個人的にも年齢を重ね、様々なリアルタイムで起こった出来事が、当時感じたこととは映像や文章で振り返ることで、異なった感じ方で見えてくるような気が致します。
現在われわれが仏教として捉えているものは、時代も宗派も地域もごっちゃになってしまっているのは事実です。毘沙門天だけとっても、インド~西域~中国~日本、チベットそれぞれで多様な存在であり、時代によっても部派仏教~大乗仏教~密教。更に日本では仏教伝来の飛鳥時代から、奈良時代、平安も空海・最澄の時代から後期の浄土思想興隆期。更に現代に通じる新たな仏教が成立した鎌倉期、戦国を経て庶民が文化の担い手となってきた江戸時代と、毘沙門天に人々が託したことは大きく変化しているようです。
中国では仏教の神々は道教に取り入れられたり、仏教自体が東南アジア各地や日本、更に密教の隆盛しているチベットなどに比べて、継続して重要であった宗教とは言い難いイメージがございます。
そんな状況で明の時代にほぼ現在の形になった、「西遊記」と「封神演義」という奇書があり、両書共に毘沙門天の一族が活躍致します。
西遊記は唐代(618~907年)に実在の玄奘三蔵の「大唐西域記」をモチーフとした、斉天大聖孫悟空が大活躍する日本でも幾度も映像化されている、お馴染みの10回10巻の長編物語であります。かたや、封神演義は殷(商)周革命(易姓革命BC1,046年頃)を背景に、太公望(姜子牙)をメインの主人公に仙界の縄張り争いをテーマにした、道教の世界観を舞台とした荒唐無稽の物語でございます。
毘沙門天はいずれも唐代初期に軍神と讃えられた李靖と習合し、托塔李天王という尊格として物語に出て参ります。時代的には殷周時代の封神演義の方が当然前ではありますが、こちらでは地方の軍官(陳唐関総司令)にて、金託、木託、哪託(いずれも託は口編)三兄弟の父として、4人ともどもに崑崙7人衆の主要メンバーとなっています。他の神仙、武人連中はことごとくといってよいほど現世からは亡くなり、天井の神々として始末されますが、一族生き残るまれな例ではございます。
托塔とは宝塔を釈尊から托された(預けられた)という意味ですが、毘沙門天像の持ち物の特徴となっております。封神演義ではこの塔の道教的な由来が示されています。
但しこちらは釈尊ではなく燃燈道人(元始天尊の筆頭弟子)から托されており、使い道は悪ガキである三男哪託への牽制武器としてでございます。この辺りの詳細は是非「封神演義」をお読みになって、お楽しみ戴ければと思います。
数年前にアニメで有名になりましたが、それまでは殆ど日本では知られていない物語で、現在は文庫で入手可能です。
さて、もう一方の西遊記では当初に斉天大聖孫悟空が西王母の桃園で、桃を食い散らかし宴会をひっくり返して脱出し、天界と大戦争を勃発させたときに、天界軍の総司令官として托塔李天王が登場。その先鋒として哪託が三面六臂となって、同様の姿の悟空と大激戦を行います。
その後も天界の軍司令官として、悟空の助太刀をしたりと、それなりの活躍を致します。
因みに哪託の兄2人は、封神演義では金託が文殊広法天(後に仏教の文殊菩薩)、木託が普賢真人(後に普賢菩薩)のそれぞれの弟子でありますが、西遊記では金託は釈迦の弟子前部護法。木託が観音菩薩の弟子の恵岸行者(俗名:木叉)としてたびたび活躍致します。
もともとがバラモン教の財宝神である神格が、中国の道教では軍神となる訳ですが、日本でも最初は軍神として崇拝されていたようです。
前回当初の聖徳太子の四天王の時代から下がり、太平記の大スター大楠公こと、楠正成は幼名を多聞丸といったとの伝説があります。
それに因み、自刃したとされる神戸市中央区には多聞通りと(明治になってではありますが)称される通りがございます。湊川神社(明治になってから創建)からJR神戸駅、旧福原遊郭が近く昭和初期までは神戸随一の歓楽街であったとか。
毘沙門天の「毘」一文字を旗印とした有名な戦国武将といえば、上杉謙信であります。長尾景虎時代に関東管領上杉氏の家督を譲られ、関東管領をも引き継ぎ、更に後に室町将軍足利義輝から「輝」の偏諱を受け上杉輝虎を名乗り、入道して法号謙信となりました。
川中島での数次の合戦相手である、武田信玄の「風林火山」の旗印と並び、「毘」一文字の本陣旗印は、余りにも有名です。
熱心な毘沙門天信仰は春日山城内に毘沙門堂を建立し、戦の前後にお籠りしたことで有名です。この毘沙門堂に謙信が戦から帰城した折に、泥の足跡が残されていたのを発見し、戦場を見守ってくれたとの感動も伝えられており、同毘沙門像は後に上杉家の領地となった米沢まで伝えられたそうです。
国内の庶民の毘沙門天信仰発祥は、京の鞍馬寺から始まるようです。のちに牛若丸こと義経伝説で有名になりますが、平安時代の都の北方を守護するとした、若狭、丹波へのルートの要衝に当たります。
前述のように四天王の一尊としての多聞天像のほかに、妻もしくは妹とされる吉祥天と子息の一人とされる善膩童子との三尊像の中心尊(信貴山奥ノ院)。更に独尊として国宝、重文級の像は日本国内に随分あるようです。
国内にある著名な毘沙門天像を2枚掲げます。左から平安前期(延暦10年)、興福寺北円堂多聞天。当時流行のヒノキの木心乾漆技法の像です。重要文化財指定。
右これは国宝、中国(北宋時代)西域渡来の東寺(教王護国寺)の毘沙門天でございます。所謂「兜跋毘沙門天」と呼ばれる、地天(女)の差し出す両手に立つ、特殊な像であり、中央アジア、コータンの毘沙門天祖先伝説によったものです。玄奘三蔵の大唐西域記にも記述がございます。本像はかって平安京羅城門楼上に安置されたとも。
七福神信仰は江戸時代にほぼ現在の形に定まったようですが、元々の順番は、大黒天(最澄が比叡山で始めた)、恵比寿(一説では、蛭子)、鞍馬の毘沙門天の順で平安まで。鎌倉期に琵琶湖竹生島の弁財天が、室町期に仏教の布袋、中国の福禄寿(西遊記ではそれぞれ福星、禄星、寿星の三星として現れる)、寿老人(南極)が参加となるようです。
お江戸というか、都内には深川、谷中、新宿山の手、浅草、亀戸などなど、七福神めぐりの寺社仏閣が多数ございます。
さて、個人的には毘沙門天よりは、弁財天の方が好きなのですが、大黒天(マハカーラ:Great Black)という神様も気になっています。
やはり民間信仰の先にある尊格というのは、奥深いものでございます。
奈良国立博物館提供画像
東寺展示会絵葉書より
ところで、ちはら台付近にも毘沙門天のお堂がございます。千葉市緑区茂呂町に御霊神社の裏参道に密かにたっています。また、弁財天も既に大宮神社の項でご紹介しておりますが、草刈公民館奥の草刈の堰の守り神として。いずれも神社風になっているところが、七福神風で宜しいと思います。