近江聖徳太子霊跡御朱印が「聖徳太子1400年記念事業として開催されました。
東近江地域に何故聖徳太子ゆかりの寺院が多いのか?
歴史的探訪に御朱印をいただきながら巡りました。
第1回目は、5か所の紹介です 御朱印授与期間は2023年12月までとなっていて終了近くでの駆け込み巡りとなりました
(紹介文は、東近江市観光協会パンフレット、聖徳太子1400年悠久の近江魅力再発見委員会パンフレットからの引用が多いです)
11月14日(火) 1.長命寺
母の告別式を一昨日に済ませ、母の永久の長命と私達夫婦、リリー、家族、親戚の長命の願いに尋ねました。(カメラ忘れて写真なし)
2000年ほど前に武内 宿ヤさんがこの山で長寿を祈り300年の齢を得られた。聖徳太子さんがこの地に来た際に武内宿ヤさんのお告げを感じ観音様を彫ったのが長命寺の始まりとされているとのこと。
本堂、三重塔と風格ある建物があり琵琶湖を一望できる。
聖徳太子がなぜこんな辺鄙な高い山まで来られたのかは謎?
11月23日(木) 2.願成就寺(写真なし)
仏教布教の為、近江に48カ寺建立の誓願をたてられた聖徳太子さんが、最後にこの寺を建て誓願が成就したと言われているとか。その折にこの地域に数珠作りを伝授したそうです。
聖徳大使は何故、近江の地に48ケ寺を建てようとしたのか?なぜこの寺が建立最後のお寺になったのか?
お寺は、小高い丘みたいなところにひっそりと建っていた。人の気配は全くなかった。御朱印授与は、家屋を訪ねそこでいただいた。
3.長光寺(写真なし)
聖徳太子の妃が難産に苦しまれていた時に、拝むと仏違いの童子現れ安産されました。童子が去った方向にあった霊木で観音様を彫られたのが長光寺の始まりと言われているんだとか
お妃が出産された地は近江の地?聖徳太子が出産の時にこの地にいた?
日本最南限に生息する「ハナノキ」高さ15m、周囲3m巨木あり近江八幡市の天然記念物に指定されている
4.石馬寺
聖徳太子さんがこの山の麓まで来たら、乗ってきた馬が動こうとしないので木につないで山を登ると、ただならぬ霊異を感じ礼拝された。戻ってくるとその馬が石に変わり池に沈んでいたために、ここに寺を建てたと言われている。
石段を上がっていきます お母さんはリリーを抱いて、緩やかな石段だけどかなり疲れる
本堂には平安・鎌倉時代の国指定重要文化財の仏像が並んでいて圧巻らしいが、残念ながら時間の関係で見逃した。
石馬寺の説明文 臨済宗 妙心寺派である(瓦屋禅寺と同じだ)
リリーも熱心に見ている
この秋は紅葉が遅く、やっと色付き始めている状態
帰りも石段をリリーを抱きながら一歩、一歩慎重に下りました
石馬の池
木につないだ馬が石に変じたと言われる「馬形の石」があった
この日のおしまいは八日市の「市神神社」
5.市神神社
「推古天皇元年に聖徳太子が四天王寺を造立された時、白鹿山の麓で幾千万の瓦を焼き、琵琶湖を使って難波津に運ばれた。この時、筏川の北に民屋数百戸を置き、太子自ら事大主命の像を刻み、祠を作り安置した。そして、この地に市を開いた。その後、平安時代に阿部清明が太子の遺志を繋ぎ、市店鎮護の行を行い、正月12日に初市を開くこと等を広められ、現在に至っている。
この縁起で聖徳太子は、商工業という俗的な生業にも積極的に関与し、人々を豊かにしたことが語られている。
訪れたのは夕方 夕陽に紅葉が輝いていた
聖徳太子が四天王寺の建立のために瓦を焼き、そこに集まった人で商売をさせる。この話は、なんとなく分かるような気がする。しかし、聖徳太子は、なぜ、どうしてこの地の土のことを知って、瓦を焼くことに結びついたのだろうか?
「八日市」の地名もこの市から決まったとのこと。安倍晴明との関係も歴史上事実だろう。
聖徳太子の足跡巡り 何故?の疑問は残り、うまく解明できない状態。残り、6寺に解明のヒントがあるだろうか?
次回、6寺目から(その2)を投稿します
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