□本日落語一席。
◆二代目桂南天「あみだ池」(NHK大阪放送局『とっておき!朝から笑タイム』)。
NHK大阪ホール、令和5(2023)年12月7日収録(第441回「NHK上方落語の会」)。
落語の演目というのは、噺そのものを鑑賞するうえであまり意味がないものだろうか。ただ、何かネタを聞いたときに、今日聞いたのは新聞の記事をネタにしているものだったという内容で記憶するよりは、今日聞いたのは「○○○」だとしておぼえておいたほうが便利ではある。また、演者のがわからすれば、楽屋のネタ帳という実務上の問題として必要なものだろう。
なので、演目にこだわってもあまり意味がないと思いつつ、これまで記されたものと異なる場合は、あれ?どうしてだろう、何か意味があるのかと考えてしまうのも言葉で生きている人間の性というものか。
というのも、今回「阿弥陀池」でなく「あみだ池」だったことに何か意味があったのかなと考えてしまったからだった。高座が紹介されるときに、進行役を務めていた桂源太が、南天のこの落語は独自の要素が含まれていて、若手でも南天に稽古をつけてもらう者が大勢いると言っていた。
落語の内容を改変したり、落げを新たに創ったりということは、しばしば行われている。そして、落語家によっては、従来型との相違を気にかけてか、演目をちょっとかえることがある。たとえば、桂文珍は「七度狐」の内容をかなりオリジナリティ豊かに演じたときは「新・七度狐」としてネタ出しをしていたことがあった。
今回の南天もその類かなとちょっと思ったのだけれど、実際聞いてみると、いくつかの独自のクスグリを加えていた以外は、ふつうの「阿弥陀池」だった(と思う)。
ちなみに、南天はこごろうを名のっていた時代から、これを何度も演じていて自分の知る(記録している)限りでは、すべて「阿弥陀池」だった。それだけに、今回なぜ「あみだ」だったのかは謎のままである。何もないのかもしらんけど。
◆二代目桂南天「あみだ池」(NHK大阪放送局『とっておき!朝から笑タイム』)。
NHK大阪ホール、令和5(2023)年12月7日収録(第441回「NHK上方落語の会」)。
落語の演目というのは、噺そのものを鑑賞するうえであまり意味がないものだろうか。ただ、何かネタを聞いたときに、今日聞いたのは新聞の記事をネタにしているものだったという内容で記憶するよりは、今日聞いたのは「○○○」だとしておぼえておいたほうが便利ではある。また、演者のがわからすれば、楽屋のネタ帳という実務上の問題として必要なものだろう。
なので、演目にこだわってもあまり意味がないと思いつつ、これまで記されたものと異なる場合は、あれ?どうしてだろう、何か意味があるのかと考えてしまうのも言葉で生きている人間の性というものか。
というのも、今回「阿弥陀池」でなく「あみだ池」だったことに何か意味があったのかなと考えてしまったからだった。高座が紹介されるときに、進行役を務めていた桂源太が、南天のこの落語は独自の要素が含まれていて、若手でも南天に稽古をつけてもらう者が大勢いると言っていた。
落語の内容を改変したり、落げを新たに創ったりということは、しばしば行われている。そして、落語家によっては、従来型との相違を気にかけてか、演目をちょっとかえることがある。たとえば、桂文珍は「七度狐」の内容をかなりオリジナリティ豊かに演じたときは「新・七度狐」としてネタ出しをしていたことがあった。
今回の南天もその類かなとちょっと思ったのだけれど、実際聞いてみると、いくつかの独自のクスグリを加えていた以外は、ふつうの「阿弥陀池」だった(と思う)。
ちなみに、南天はこごろうを名のっていた時代から、これを何度も演じていて自分の知る(記録している)限りでは、すべて「阿弥陀池」だった。それだけに、今回なぜ「あみだ」だったのかは謎のままである。何もないのかもしらんけど。