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じっと我慢の子であった。滅びの断薬6ヶ月完結篇 ブロムペリドール6㎜ コントミン12.5㎜ トリフェジノン2㎜

2016年09月24日 21時32分54秒 | ドキュメント断薬2016
じっと我慢の子であった。滅びの断薬6ヶ月完結篇 ブロムペリドール6㎜ コントミン12.5㎜ トリフェジノン2㎜


緒言

 (本文中には、はなはだしく個人の尊厳と両性の平等を危うくし、人権とプライバシー権あるいは名誉を傷つける表現が基底に存在します。けれども現在の人間の置かれた現実のステージをリアルに鑑み、家庭問題、行政医療福祉制度あるいは薬事医療における先鋭な社会的現実問題を江湖に提起する意図をもって断薬という極限の状況表現をあえてここに掲載するしだいです。統合失調症などの精神病の問題はおおかた家族関係、職場関係、地域学園などの人間関係の中にあるのであり、人間という在り方と思想、政治、社会、日本の現実と人間の差別ひいては幸福追求における日本語と民族的断罪の問題であると訴える立場から、私権が個の相克であり統合失調症患者の人権の攻防の圏域として家族親族の個人がそれぞれに独自にその責任と問題を負うとの立場で、一個の現在進行形の表現、深く文学的営為として縷々寛容を乞いここに強く訴えるものです。ご理解をたまわり周囲の個々人の肉体的精神的な責のきわめて重い負担を忖度くださり重大さ故の緊急刻々たる一人の人間の公言(長い人生が負った社会に向けた一つの悲鳴)として受け止め願えれば幸いです。犠牲を強いることを望みませんがそれぞれが責任と判断において引き受けるべく人の生の闘いに身を投げ出し、伸るか反るかみなが断崖絶壁を登る厳しい人生の途上と覚悟するほかありません。それ以外においてあり得ない生のその責めは各人において負うものと考えます。)


1。序章


 二月十三日から完全断薬を決行。妻がタバコ代をいきなり減らしておれに耐乏を強いる。泥棒するか禁煙するか。これまで何度も禁煙したが、精神薬を断薬する以外にタバコを完全にやめることなどできないとわかっていた。ピース一日二箱からパイプタバコにいったん切り替えて遅れて二月十八日から偶然にも完全禁煙に突入。孫に切迫したようにそして冗談のように告げた。じいちゃんはおまえの誕生日までは生きているからな。じいちゃんはおまえが小学校に入学するまでは生きてるからな。それを聞いた妻と長女はその時何の疑いも不審もなく反射的に笑った。

 それから異変が起きる五月二日に向かってただ水の中を息を止めて進む勢いで突っ走った。周りを見ている余裕はない。

 7時起床
 9時要介護の父親を家の前の坂口で人工透析の乗り合いバスに乗せる。月水金。

 散歩に出る。山の中を通って 5㎞。一時間四十分。まったく眠っていない不眠状態が連日続く中、歩いてみると案外心地よい快感。眠っていなくても元気に歩けるのだ。耕作放棄地のこのあたりに家を持ちたいとか自分が億万長者になったらとか孫が次々成長し二十歳に近づいたらいっしょにこのコースを散歩して語り合うんだ。

 おれは八十歳になっても九十歳になってもまだ若く二十代三十代のつもりで孫たちとこの道を仲良く散歩する。

 あり得もしない幻影をすがりつくように脳裏に思い浮かべながら一心に歩みを進める。出会った村人には「こんにちは」。真冬の厳冬の中で働く労働者には深い敬意を抱きながら。

 ひっそりと誰に言うでもなく息を止めて潜んだ禁欲の岸。その静かに迫る危険と危機の身の上に家族の誰もが気づかないのをよそ目に、炬燵に寝転んでひそかにふと取り上げたのが60年代を風靡した作家高橋和巳の小説群だった。ああ埴谷雄高が先導した制度的職業的ヘゲモニーとその権威の申し子。

 生きていれば85歳。おれの父親の世代の圧倒的知識人だが。彼らはすでに三度か二度目か知らないがはっきりと敗北した世代だった。そして彼らだけが一人その責めを負うわけではないのだがその彼らの幻影が幻のベース音になって70年代のそら明るい絶望の時代の空気を用意したのだった。その時代の空気をたっぷり吸い込んでしまったのが当時中学生から高校生だったおれたちだ。高校の国語教師は教壇で語った。今後君たちが読むとしたら高橋和巳あたりでしょう。おれはすでに中学生で精神的に挫折していた。

 その人生の端緒での精神的な決定的敗北から熱烈な蘇りを求めて、党派の内部の矛盾の中に身を投げ出して青春のすべてを捧げ尽くし、突き抜け、本来はありえもしない道を妻を引き込んで利用し無謀にも幼い子供たちを抱えて家族もろとも駆け抜けた。それがおれの半生と家族の歴史だった。フランスの構造主義マルクス主義者のルイ・アルチュセールは正気を失って妻を殺してしまったが、60年代70年代に周囲の学生たちに向かって語ったという。「君たちはなぜ自ら党内に加わり闘わないのか」と。

 すでに端緒からが誤っているのだ。高橋和巳や埴谷雄高だろうと羽仁五郎だろうと丸山真男だろうと竹内好だろうと花田清輝だろうとついでに詩人黒田喜夫だろうと共産党代々木派正統主義者であろうとすべてが誤ってインチキなのだ。


 そのことを証明せずに死ねるものか。

 そしてその上で最後の力を振り絞って遺したい。四百枚の出世作を最後に死力を尽くして書き上げたい。そう一人ひそかに思い詰めたのだった。



2。三月


 
 三月。好天が続く。孫は保育園を嬉嬉として卒園。春が来る。

 すでにおれは知らずして命を脅かすような断薬の無謀を何の予備の考えもなく突き進み。ここまで鈍感で平然と無思慮に厳しい苦悩を強いる妻の正体を見極めよ。さらに長男の嫁と孫には論理を尽くせばおれに愛すべき理由もない。愛さないのであれば壊すこともない。あなたたちにいくらでもなんでもして差し上げよう。そのかわり無慈悲だ。無き縁ならば断然と断つ。堅く心に期す。おれは生涯を定めて闘い抜くつもりだ。党内のスパイを相手に全身全霊若い力で十年かかって刺し違えた経緯と力をなめるなよ。

 そして三月の後半にはすでに断薬によるストレスが身体の状態に表れる。粘液便。血便。過敏性の下痢。歯肉炎ほか。

 まだその時おれは先の出来事を甘く甘く考えていた。断薬という無謀を自身が自覚しないまま余裕を見せて、サメを入れた水槽では魚たちの生命力は活性するなどとストレスと脅威を玩具のごとくおもちゃにして敵の力を見誤った。父親が死んだときおれは慌てふためくのか。無様な姿が敵の前にさらされるのだ。

 母親は自分の金をはたいて大工を頼み、母屋の古い廊下を新しく完全修理した。春先の和みに大工はタバコを吹かした。この世の幸せを集めたような我が家に乳飲み子の笑いがあった。

 そしておれはその春に落ち着いて桜の枝の花を見に訪れる余裕をどうしてか失っていたのだ。それは破綻の前兆だった。この世界にありもしない自分勝手な都合だけの無理が通るはずもなかった。それは誰にしても同じだ。痛烈な冷酷な事実を見て目を覚まし胸に刻め。それだけのものでしかない自分の卑小を知れ。誰もおまえを見向きもしないだろう。金銭的評価マイナスの現実だ。誰もがおまえを知らない。何者でも無い。誰よりも寂しい思いをするのはおまえだ。


 おまえを見て人はざまあみろともとも言わないのだ。黙って素通りする。かってに断薬しておきながら泣き言を吠えるまえに消え失せろ。


3。四月の荒天

 
 
 四月に入ったとたんに周囲がざわついて興奮状態。異様な高温の気象にみな心が休まらない。長男の子が一歳誕生日をむかえ、長女の子 6歳がたのしいたのしい小学校へはちきれんばかりの期待に胸をふくらませて入学する。泣きつくように孫の姿がいとおしい。母さんがウルトラマンのおもちゃのお金をくれないんだと泣き顔をする。泣くなあすじいちゃんと店に買いに行こう。なぜだ。なぜこのいとおしさを時は奪っていくのか。

 要介護で動けない父親が家族の目を盗んで突然に田でトラクターを乗り回す。気が動転しておれはあわてて父親をトラクターから引きずり下ろす。

 父親を介護するはずの母親が81歳。若い頃からの出ずっぱりで父の介護を尻目になにやら村の食事会を催し興奮する。長女に仕事を休ませてまで手伝わせる。いつも自分が大将の家付きのくそババアなのだ。父親の世話をせよ、目を離すなと母親をきつく叱り飛ばす。

 いっこうに気象は安定せず高温、あるいは低温降雨。一日のリズムは、散歩、風呂、夕食準備。小学校へ入ったばかりで興奮している孫の世話。父親の容態への配慮。

 父親は一週間ごとに体調を崩した。歩けないという。母親を説得して父親を病院に連れて行って検査。看護婦の妹は覚悟を決めろと迫る。

 稲作の種まきの準備。家族総出の種まき。気象は異変したままだった。熊本で地震があるなどとはもはや気にすることもできない。誰が突然の災難にこれ以上口出しも手出しもできようか。みな精一杯だ。めちゃくちゃな現実にみな必至で耐えているだけだろう。次の番は自分なのだ。他人事だと油断していたのは誰でもないバカなおれのことだった。

 天候の異常に興奮して孫は乾いた田のなかを裸足で駆け回って暴れた。長男が結婚してから思いもよらぬ大家族にみな暮らし。喜んではいたのだがほんとうはすでに誰もが疲れ切っていた。

 田おこしに妹の旦那がトラクターに乗る。5月の田植えの準備がはじまる。

 孫が二人そばにいる。長男の子は保育園へ入園。はいはいや入浴や発達成長に気を配ってやらなければ。もうすぐに立って歩くのだ。

 長男夫婦は母屋で父親と母親と住んでいるのだがまったくのすれ違い同じ屋根の下でたがいに関与しない。父親の世話は母親。長男夫婦は孫夫婦だから父親の面倒を見るはずもない。長男の嫁は名前も年齢も伏せて周囲の奇妙な寛容の中にまんまと住み着き居座った御方。長男を産婆にしてこの家で自然分娩をと出産予定日直前に家族に対して無体に迫り、いくらでも要求を突きつけるズーズーしい傲然たる女。驚き桃の木山椒の木。家族中が大騒ぎして父親は「そんなことを言うならあんた出ていけ」。子は帝王切開で産まれ。一週間後に父親が二度目の大動脈解離で倒れた。血管が裂けたのだ。

 おれの妻は零細な自動車修理の会社で経理をひとりでになって切り盛り。ただただ倒産を免れて稼ぎのないおれを養い。すべては家族のため会社の同僚を守るため。自分の家庭のことはつねにそれどころじゃない。自分の健康もそれどころじゃない。何十年の仕事中毒に働きづめ、稼ぎのない統合失調症のキチガイのおれをぎゅうぎゅうに締め上げて馬鹿にし、ついにタバコの金を傲然と渡さなくなった。

 妻は豆腐一丁、ノート一冊の金をおれにはわたさなくなった。自分は夢中で働いてめまいがするだのと言っている。孫と小学校のグラウンドで遊んでいて妻はうんていから気を失って倒れた。孫はおもしろげに笑って見ていたという。幸い意識を取り戻したがおれは気が動転して気が狂いそうだ。

 歯肉炎が激発。そこへ孫が「じいちゃんがばあちゃんに食べ物を残せとと言うからぼくが食べられんがな」と泣き叫ぶ。好きなだけお食べ。じいちゃんを踏み台に飛び立ってくれよ。切々たる思い。すべてがみなあてもなく夢中で過ぎ去っていく。

 肝心の長女は未婚の母で孫を育てるどころか周囲にまかせ一時は男を作って孫の寝ている部屋にこっそり引き入れたりした。孫がかあさんかあさんとか細い声でおれにしがみつく。泣きたくなるような寒い夜に孫を抱いてどこに行くか告げないで出たままのかあさんを探して歩いた。孫はおれのジャンパーで眠り。帰宅して布団のなかで眠った。帰って来ないかあさんを夢に。

 長女は晩飯の用意も風呂の用意も毎日おれにやらせるのが当たり前で、こたつを独り占領してほかの家族を休ませない。仕事の帰りに漫画を読んで憂さ晴らし。この「幸せな暮らし」がいつまで続くかと疑うことすら全く知らない。腹の立つ思いをおれはただじっと黙って耐えた。

 妻は「わたしまだしあわせよ」と孫に恵まれて、押しつぶされそうなおれの心をまったく顧みず圧政をしいた暴君然。支配か服従か、女の方がついにいつもかならず強いのだと傲然と言い放つ。平等や対等など知ったことか。口癖に「理屈じゃあない」となにかに取り憑かれたような目で気味悪く独り言をつぶやいた。

 長男夫婦と孫は変にへそ曲がりに群れを離れた別行動。はじめから気に入らないのだ。まるで自分たちになにかの意味の端くれでもあるかのように児戯に等しく反抗を演じてみる。嫁は姑の妻に遠慮したが、妻と長女と6歳の孫とそして嫁の子と仲良く風呂に入ったのに鋭く感づいて、部屋にドスンと居座り子の髪を洗うのに石けんを使ったなと腹を膨らせて不平を言った。石けんも洗剤もタブーなのだ。つまり姑のにおいのする場所は生理的に受け付けないのが女たちの免れない生き物としての習性。指一本わが子に触ってもらっては困る。誰にも我が子を奪われては困るのだ。嫁は子が自分以外の者に気を許しただけでぞっとしてそれを嫌い相手から取り返す。そういう独り占めと所有の女なのだ。嫁はじっと子を抱いて離さない。腹の中にいた子をさらに離れがたく手なずけた。

 それでも妻は長男の連れてきた嫁を支えたいのだ。嫁がかわいい。そして孫がかわいい。そばに居て欲しい。みなが産まれた子をかわいく思って抱いてやりたいのだ。それを頑として拒絶した嫁の姿が家族に寒々しい思いをさせるのは必至だった。みなが耐えて我慢を重ねた。長女の6歳の孫が自分に父親もなく兄弟もなくいとこの誕生をどんなに心から喜びいとおしんだか。母親の兄おいちゃん夫婦の婚姻をどんなに喜び誇りにして慕ったか。無垢な孫の魂がいかにまぶしいか。当然のごとくおれの父親と母親は孫の長男夫婦との同居を心から喜んだはずだ。そして長男夫婦はその保護を頼りにした。しかし誰のはからいでもなかったが限界は確実に訪れていたのだ。

 そうして誰がハンドルを切るでもなく誰がブレーキをかけるわけでもなく。ただてんでにそれぞれが思い上がりすべては自分の力で勝ち得たものだと傲然と傲り高ぶり、それぞれが都合のいい勝手な打算と期待を抱き、それぞれが虫の良いことを思い、みながもたれかかり合い自分は荷を負わず、それぞれが周囲に荷を預けたまま突進していく。確かに限界だった。孫は幸せに有頂天になってなんでも思い叶うように甘えついて周囲の大人を振り回した。いかにかわいい孫にしてもやりすぎだったのだ。


 それでもなおおれはひそかに奇妙な達成感に痴れていたのだ。入門書を読みながら簡単な高校から大学の課程の数学の大系を見通せるような気がしたのだ。念願だった数学をやればもう思い残すことはない。もうすこしだ。あともう少しで軌道に乗るんだ。この幸せをなんとか守ってあと一歩。なんとか前へ。前進を。どうにかして暮らしのリズムを打ち立てよう。



4。ついに異変


 
 そして五月二日。ついにすべての根底を揺るがすように事態が反転しておれの体調が激変し身体が悲鳴を上げた。右眼の突然の違和感と目の中のゴミ(飛蚊症)。過敏性腸症候群の下痢が一ヶ月続いて治まらない。ストレスと心労による舌痛症も同時に。

 長女が気を利かせてゴールデンウイークに溫泉にすぐつれて行ってくれた。サウナに入る。なんでこんな家族になったんだ。長女が孫を産んで6年。幸せいっぱいみんなで育て上げてまるで天国のようなこの世にありえない幸せな家庭がどうして。

 孫にまた溫泉に行こうなと別れの予感に震えて泣くようにすがりつくように語りかける。

 五月十日。妻に診療代を用意してもらって眼科へ。「網膜が裂けていますな。孔が開いています。」
即刻レーザー凝固の施術。頭の中はまさかと受け入れられない現実にパニック。

 家に帰って報告「じいちゃん病院に行ったん」と孫がうれしげに話す。母親に田植えは参加できないと話すが自分の息子の目がどうなろうと自分の余生には関わりが無い。いきなりの思いもよらない事実と言明に当惑するのでもなくわかったようなわからないようなあやふやなふらふらした所在ない姿の母親。

 所詮女は自分の産んだ子を出汁に生きる戦略のほか道を知らないのだ。

 十二日に田植え。孫が玄関で長女の気をひいてじゃれつく。小学校登校の集団列はすでに家の前で待っている。長女は妻に仕事のアドバイスを尋ねて孫のことは見向きもしない。

 その瞬間おれの怒りが爆発。孫の世話を放棄するなと長女の頭に殴りかかる。そばにあった杉の棒で長女の頭をたたきつける。棒が折れて長女の抱き上げた孫の顔に触れる。泣き叫ぶ声。

 坂口に出てみると長女が鬼のような顔をして涙をふたつぶ流している。

 「じいちゃんたたかいをやめてーやー」「じいちゃんがかあさんを殺したらぼくが生きられんが-」と泣き叫ぶ孫の声。「死んでもええ。人はいつでも死ぬことができるんじゃ」「みな大馬鹿たれらがガソリン撒いて火を放つぞ。」「じいちゃんをなめるな」。 わーっと叫びあげて嗚咽する孫。



5。一家離散と病臥

 

 それから一ヶ月床に伏して寝込んだ。妻に「長男の嫁に家を出て行ってもらう。本気だ」と話す。翌日長女と孫。長男と嫁と一歳の孫は家から帰らなくなった。一家離散した。

 おれは一日中窓のカーテンを閉め切ってすべてを投げ出したまま寝込んでしまった。だがあすは立ち上がる。あすは立ち上がると気を引き立てるのだがかなわない。ひたすら考えてなんとか家族の現状を回復したい。と妻を相手に泣いたり抱いたり叫んだり。ところが妻はかってにおれにしゃべらせて自分は疲れ切ってしまった身体の休息のタイミング。聞いたふりだけの芝居。仕事がそれどころじゃないのよ。

 エイ。ここに至っておれは悟った。長男はすべての会話を拒絶する。婚姻を一方的に周囲を無視して認めさせた。パートナーの名前も年齢も知らずに。長女はあの通り。産んだ子を捨てる。妻はおれの一切を尻に敷いて支配し服従させ、おれをないがしろにしてすべての判断と決定は妻の頭の中で。一切が除外されたおれはキチガイで稼ぎのない男。「黙っていなさい善政を敷くから」と妻はまるで他民族を手なずけるテンノーのごとくある。

 何もかも隠したまま心を開いて語り合うことがないのであればすでに話にならないというもの。話し合うことが成立しないのだから解決の手段など皆無。もういいあの長男も長女も孫も見捨て去る。おれは覚悟する。どんなに熱望してももはや性急な問題解決などないだろう。滅ぶこと死滅していくことそれ以外に問題が解決することはなかったんだ。

 自らを見捨て自らを殺していく細胞死。アポトーシスの全的展開こそがすべての救いだと悟った日。寝込んだおれは逆に肩の荷を降ろした気持ちでやっと立ち上がったのだ。追い詰められた事態でまずは心の安寧こそが第一。追い込まれた人間は霊的な癒やしさえ見出すのだ。肩の力を抜いて心安らかに誰にも頼ることなく。横になって休んでいればいい。あわてない あきらめない あせらない。冷静さこそ力の源。頑張りすぎまじめすぎ我慢のしすぎが病気の元。健康は病気と同時的在り方。常に病気で苦しくつねに苦痛で不快であってもいいのだその方法がある。治らない病には治そうとせずとも共通した別の対応の仕方があるのだ。更年期を過ぎた年老いた女は好きなように気ままに気のすむようにさせておけ。

 妻と中村仁一「大往生をしたければ医療と関わるな」を何度も読み返す。災難を転じるのではない。災難は頭からかぶれ。雨が降ったらびしょ濡れさ。それでもいいなんとなくしあわせさ。お互いに肉体の耐用年数が過ぎていく。滅びを自覚した日それならばそれからが本当の味というものだ。たとえそれが苦くとも。

 精神薬を飲み始めて27年。血を吐く思いで不遇に甘んじて働き。馬鹿にされ。なんとか三人の子どもを育てた。精神薬でラリってタバコでラリってカフェインでラリって気持ちのよい音楽と脳の報酬系に訴えて、すべての苦しみとストレスと病気を乗り越えきた。58歳もう老いを重ねて滅びの日へ歩むのだ。精神薬を断薬し完全禁煙しカフェインもやめた。これからはやり方も意味も変えるのだ。

 歳を重ねる歳月の重みは侮ることはできないが、いくら明日を信じ苦労を重ね子を育てたところで年老いてそれで世の中が報いてくれるはずもなかった。必至で働いて子を育て上げ年老いてなぜこんな目に遭わなければならないのかと思い知るのが老いというものだった。年老いることは甘くない。若き日よりもいっそう苦難がつのるのだ。だれに語っても理解のされようのない苦労が誰にもある。気づいてみれば誰もが滅びの日に向かっていただけなのだ。


 孫たちにあすはない。滅び方があるだけだ。この村の滅びは決定的だ。孫の世代は来年すら不確かなのだ。田に雑草がはびこる日が近い。孫がおれの母親に「ひいばあちゃーん」と叫んで畑に駆け寄った幸福な日はもうすでに消え去って二度と無いのだ。孫たちはこの地を離れていくだろう。

 そしてリハビリをくわだてる日々。田んぼの畦の草刈りと汗と日射のもとでの日々の散歩5㎞を歩き通す。昼間は日光の元で身体を動かし夜は静かに横たわる。不眠が解消できないかとサウナにも行ったみたが万能薬でも特効薬でもない。毎日毎日断薬の孤独な闘い。難病を負う時代だ。最後はみな自分ではどうしようもなく他人の手を借りてだれかのお世話になってから自らが自らを殺していく。報われぬさんざんの労苦を重ねればあの世がよほど楽しみなことだろう。もはやこの世に未練は無いではないか。

 政治活動に青春を捧げ潜入した分子とあざけられ二度発狂するまで闘って党内のスパイをあぶりだし。正統と異端を同様に知りながらこの世にありえない道を歩いた。妻を道連れに利用してこのあり得ない道に引き込んでしまった。

 今また医療と制度のなかでおれは人が生きていることがあり得ないはずの「断薬」を決行している。


6。錯綜する家族の脅威


 長男の嫁を敵にして、悪賢く周到に根を張り巡らし居座った嫁を爆発的に吹き飛ばして追い出したつもりだった。まるで考えられない勝利の凱歌を揚げたつもりだったのだ。誰がそんなエネルギーを爆発させる力を残していただろうかと。誰もまねなどできはしまいに。しかしそれは偽りだった。この家の毒のトゲを抜いたと安堵したつかの間、今度はその隙に居座った者たちが、そして父親と母親が死の間際の毒を吐きはじめたのだ。父親は死を認めずにだれにでもまとわりついてまるですべてを道連れにするけだものの勢いだ。人を見たら卑しく吠えかかる。母親は日に日に痴呆の演舞に自ら悦して酔おうとする。それなら百まで生きてやると。だれが何を言っても通用しない。周囲が諭せばあくまでその逆を言って困らせる。自己の猛愛にひたって壊しつくすつもりだ。その結果はそれでどこが悪い。やれるなら殺してみよ。と迫るつもりだ。自分こそがこの家の主だと。この家は最後まで自分のものだと。すべてを誰にも渡さない。母親の痴呆にコントロールは効かない。

 けだものの住む薄気味悪い過去の名家の名残が気狂いを呼ぶ。競ってみなが自らを滅び招き寄せる。虫けらどもが互いに張り合ってあくまで他人を見下し、あくまで自分の負けを認めないのだ。

 おれたちの前にすでに滅びは用意されていたのだ。いくらおれがもがいてみても、居座った親という権力者たちが初めから餌を手放さず、おれ自身が生まれる前からこの家で醜悪なリズムを刻み続けていたのに気づかなかった。いくら妻とおれが心血注いでもはじめから再興など無理というもの。命の際までまとわりついて汚く甘えつき、情を頼みに振りかざして、汚らわしい血肉を分けたという血縁と生殖の不潔な因縁と輪廻にすがった永遠のつきまといに、人間という種族のありようをもう一度見つめて見るがいい。これが人間という生き物。人間というけだもの。蛆虫。ものをしゃべる赤い目をした野猿の正体だ。

 その汚らわしい虚言に耳をふさぎたい。口を閉じてくれ。嘘だとわかってなお人は語るのだ。嘘とごまかしと秘密と知ったかぶりのための物言い。そのいやらしい猫のような声におれの魂が拒絶するのがわからないか。

 看護婦の妹はすでに遠巻きに母親の痴呆を勘どりおれの断薬行為を計算に入れて寿命を視野に入れた。滅びるがよい。処理のしかたは知っているのよ。自分に邪魔なものはいらないのとばかり。それが本人のためよと自分の都合を当人の意志と断じる身勝手な強弁が口癖だった。すでに決定的に壊れてしまい残骸となった女たちの頭脳。だれが幼き日、若き日の彼女たちの日々を知ることがあろうか。もてあます家族の心配と過酷な更年期と過酷な仕事の夜勤、生活の心労で押しつぶされた頭脳に見さかいはない。それはかわいそうだとおれの妻がつぶやいたところで、周りの者にはすでに恐ろしい脅威だ。申し訳ないのはまったく頼りにならないふがいない兄のおれをもったのが不幸だったのだ。子どもの頃から兄らしいことは何一つしてやれなかった。

 誰もがもはや人の言うことなど耳に入れない。言葉通り受け取らない。自分本位のお前のその声におれは耳をふさぎたいのだ。それは攻撃をあらかじめ抑えこもうとする挑発と牽制の言挙げ。人の神経にわざと触るうるさい電波攻撃だ。すべて人をはじめから敵視したそのありようから発される周到に計算された悪賢い脅しだ。おれの目の前から姿を消して欲しい。


 更年期を経て60歳に近づき60歳を過ぎてしまった女たちが自分の誤りを素直に認めて間違っていたと言うはずはなかった。経験を積んだ自分に思考の誤りがあろうはずもなく、経年と性ホルモンの満ち引きさいなまれ続けいつの間にか自分の頭脳が衰弱し変性していることなど認めるはずもなくまったく思いも及ばない。自分が間違っているわけはなくそっちが狂っているのよ。女の思考はいくらでも言い分けして、自分の都合よくものを考えられる。特有の自己肯定と狡猾。自分が可愛いだけよそうよそれでどこが悪い。年老いた強欲に誰もが居直る。バカな男は引っ込んでいなさい。老いた女たちは悪を経験しないうぶな道理をとことん馬鹿にする。最後までうまくだましてあげるわ。天罰が下る? いくらでも逃げ切ることはできるのよ。最後になっても敵にダメージを与えることはできるわ。愚かでもスパイの心理は終わりまでうまくやれると思い込んでいるものでしょ。


 出て行った者たちはもはやなんの関係もないと涼しい顔で知らぬ顔をする。むしろ気苦労から解放されてこのほうがちょうど楽だわ。我が意を得たり。さばさばと気兼ねなく本来の邪悪さに自足する。だれに遠慮もいらなくなった。バカなあの者たちを黙って笑ってやればいいわ。わたしこそが勝利者なの。勝手に苦しみなさいよ。ほれ見なさい。気持ち悪くて大嫌いだったのまるで幸せなこの家族。関係ないのよ。もう永遠に関わりたくもないしすでに捨て去って終わったのよ。積もり積もった憎悪を隠してこれからも上手くたかってあげるわ。もう誰も知りませんよ。乞食女ほどプライドが邪魔するのよ。



7。一家離散の内実



 健康で幸せな家族という固定化した強迫観念はいびつで奇怪な人間の姿に過ぎなかった。身を焼くほどの幸福のなかで知らぬ間に滅びの日が忍び寄っていたのだ。長男にしても人並みにどうにかして結婚し子をもうけたかったのであり。妻は黙って家計を守ろうとしただけだった。個人の権利と意志に外的強制を加える手段があるとすれば、家族などはじめから近代法の契約関係に過ぎない。


 長男の嫁はこの家の営々と築かれた幸福の砦を憎悪した。そこに払われた献身と犠牲と努力、苦難の歳月を乗り越えるため注がれた血と汗が多ければ多いほど顧みるべき何ほどでもない。住み家と食事と生きる環境と豊かさに当然のごとく寄生してまんまと盗み取れば十分なのだ。自分の夫が幼い頃からどんなに深い寵愛のもとに育まれ、そのためにみなが苦労をしのぎ、恵まれた周囲の厚い好意のなかで育ったか。そんなことは嫁の前では全く無き過去のもの。完全に否定され無視され消え去るものなのだ。なぜなら現在まったくすべては嫁自身が当然にあらゆる寵愛と献身を自分にこそ注がれ向けらるべき中心であるはずなのだから。すべて過去の経緯と謂われは知ったことか。この家のすべてが自分のまえに侍り嫁自身のためになければならない。

 子を愛し育んだ母親から無慈悲に夫を剥ぎ取り、産んだ子を手なずけて自分のために周囲から隠してしまえばそれで十分だ。身を囚われた夫はせっせと自分のために労苦して稼いでくるのだから。夫の実家への敬意や誇りなどまったく無用。

 だがなぜにあれほど長男は結婚したいがために親をだまし討ちにするほどこの家の幸福を根こそぎに転覆してしまう反逆の挙に討ち進んだのか。家族の誰もがかっての長男を信頼し疑わなかったにもかかわらず。ただ人間のゴミを拾ってきたのだと言い分けし周囲に取り返しようもなく押し付ける大迷惑と失策を顧みないだけでなのか。それだけのことだったのだろうか。いや、そんなはずもなかろう。長男は目を据えたようにして魔の呼び声に囚われた。世界をまるで規定の愚かさの範囲に見なして現実を馬鹿にしてなめ腐ったかのようだった。そこに理智はすでに通用しないのだ。自分を全能と見誤るほど何かを知っているはずもなかろうに。気の弱い長男は最後に討ち崩れて「かあさん。助けて」とつぶやいて孤独のなかで寂しくありながら、それをまるで男気と見なすべく強引さで慈悲なく消し去った後、中途の名残をも捨て去って現実を受け入れ、罪業を裁く断頭台に身を横たえるはずだ。ついにまったく誰に知れず世の片隅に一人で消えていく運命。自分のために注ぎ続けられた愛情と苦闘によって懇切に養育された事実と営々として築かれた幸福に挑戦を挑み一挙に破壊した若いオスの気狂いだと言えば納得できるのだろうか。いずれにせよ長男が連れてきた女を無理矢理この家に根付かせようとしたところで、所詮プラスチックの根を生き付かせようとするようなものだった。異物は異物として自分から望んだはずでもなかったのにすべての期待に背を向けた長男もろともに排出される運命だった。

 そしておれの妻は子の行く末を見届けてすでに遠く子どもたちとはお別れを告げ、一人冥界に住むごとく自らの道に没頭した。子どもたちはみなすでにその来世に消え行く母親の姿をそれぞれが心に期していた。別れの儀式はすでに子どもたちの幼少の営みの中で終わっていたのだ。

 
 幸福の源だった最愛の孫にしてもおれの元にはもはや当然のごとく戻りはしないのだ。この期の一家を巻き込んだ危機に瀕して長女は一人抜群のバランス感覚とセンスを示した。長女は持って生まれた運動センスと女子ソフトボールの全国三位の銅メダルを得るほどの激しい努力で勝ち得たピンチへの対応能力をある余裕をもって示した。三人兄弟の中で静かに地道に家計の安定を保ったのは長女だ。その絶妙のセンスを信頼して孫が母親の元を離れるはずがない。かつては長女にとって産んだ子は今後の生活にお荷物でさえあったのだが、もはや産んだ子は周りの寵愛を得て、子は長女にとってその陰で庇護され利用し生きる条件に成り代わった。孫は母親がけっして自分のもとを離れることはないと知ったのだ。

 そこに身を寄せるはずの妻は娘にいくらか譲歩したとしても安らぐはずだ。長男と次男には手強い嫁がついているが、長女は独り身なのだし。長女はすかさず母親を利用する。それが孫を熱愛するおれを余所にした長女の狡猾さであり、妻の狡猾さだった。万事がこの通り哀しく残念なことながら、孫に関しておれの熱烈な思いが入り込む隙はあらかじめ閉じてしまった。いくら可愛いとは言え本来もう孫にだれもつきまとう理由はない。独居のおれはさみしさをひとりかみしめていればいい。もう家族の誰もがそんなに顔を合わせることはなくなってしまったのだ。

 街に住む末っ子の次男は遠く自分の暮らしに専念して口を出さないだろう。営々とした努力の後に力を培ってはじめて姿を現し、もの申すかもしれない。だがそのチャンスはもはやないのかもしれない。世界が崩れつつある今。

 焼け付くように幸福な子ども時代をいたわりあってともに過ごした兄弟の牽制と確執はもはや意味も無く崩れ去るのかも知れない。将来の死に別れと現在の決別はすでにお互いの心を呪縛していた。

 それにしてもなぜだ。おれの子らはなぜにけだもののごとく生き残る戦略において飢えた強欲な修羅なのだ。自らが何ほどの者でもないのはわかったはずなのにそれなのにそれだけいっそう他人を踏みつけ、蔑み、馬鹿にし、世をなめ腐って自己を主張しはじめる。そこに何の反省もなく生のみを肯定するように。あのK.マルクスの理論が当然のごとく生のみを直接肯定したように。罪を何度も繰り返してついにわからないのが人間というものだ。子らも何度も何度もおなじ過ちを繰り返すだろう。

 父であるおれは生を当然のごとくするその思考を捨てていた。いつでも誰でもこの世界から完全に身を引いたってかまわないだろう。おれは詩人だから現実世の利を謀る実力に依らずに、他にあり得るはずの霊験とした目に見えない力を本当に信じ、人間を信じ、身を捨てたように無防備に生きてきたのだ。すでにそこでおれとおまえたちの存在のあり方は交わらなかった。おれは利を求めて思考するのではない。最愛の孫は決別のあの時に「じいちゃんが母さんを殺したらぼくが生きられんがなー」と泣き叫んだのだったが。

 誰もが本意ではなかったのだ。喜び求めて選んだのではなかった。次善の次善の結果としてみな我慢し受け入れたに過ぎない。叶わない現実としてそれぞれが避けようもなく滅んでいく季節なのだ。その試練を哀しくも孤独に一人一人引き受けた。滅びるなら滅びるための覚悟のうえでの滅び方を見いだせば良い。満ち足りようが思い残そうが得心しようが死に切れまいが、それぞれが自分の寿命を生き抜けばそれで十分過ぎて十分だ。他にその責任を転嫁せねば良いのだ。欠けたところがあってこその幸せだと思って。



8。妻が家を出る。一人暮らしが始まる。



 一か月後。妻に長女のところで孫といっしょに気を休めていてくれと申し出る。そのまた一か月後妻はもはや妻も嫁も母親の地位も何もかも捨てて一緒におれと住むことはなくなった。妻の心がついに壊れたのだ。あんたのキチガイには辛抱してさんざん我慢したがもう限界。もう疲れた。あんたがキチガイだからすべてはあんたのせいよ。この先長く生きるわけでなしもう好きなようにさせてもらうわ。水曜と日曜だけ用事を済ませに帰って泊まる。この家は妻の資産で建てた家なのだ。


 要するにキチガイ扱いの差別。利害しか思い描けない人たちばかりなのだ。妻は一切を秘密にし、決定、判断からおれを除け者のように除外して申し訳程度にしか話を伝えない。長男は一切の交渉と話し合いと情報の伝達を拒絶して結論だけを周囲を無視してごり押しした者の勝ちだというやり方。家族の幸福に反旗を翻し挑戦してきた。道理やことわりは存在しないかのように。周囲をまったく無視したそのやり方はみなの不興を呼んだ。だが条件のそろったことだけしかこの世には存立し得ない。おまえたちが誤りを認めそのやり方を改めないのであればもはやおれは決定的断裂だ。どんなになし崩そうとおれは許さない。



 断薬の後遺症は連日の不眠がまったく治まらない。不眠による排尿の異常と過敏性膀胱は自分でコントロールした。市販の漢方薬八味地黄丸が相性良かった。まぶたの激しい充血も始まった。神経が弱ってやっかいな慢性結膜炎になったのだろう。ただ不安感や幻覚や妄想はまったく起こらなかった。それでも不眠の苦しみは変わらない。むしろこの状態に不眠は必要なのだと思い直す。随意ではないのだから眠れるとき眠れることもあるという程度で十分だ。ことさら気にしないほうがむしろ良い。横になって静かに休んでいる。昼も夜も臨機応変にあの手この手で対応するしかない。断薬にはどんなことでも起こりうる。決定的な危険が常態なのだ。その覚悟を迫られるのだが。あくまで自分を甘く見ているおれがバカなのだ。意地を張ったおれだがきっと負けを認めて降参し観念するほかないだろう。もはや禁断症状の苦しみは尋常な段階ではない。長年連れ添った妻が感じ取っていないはずがない。あす倒れても不思議はない。大丈夫よと妻はもはや言わないのだ。勝ち目のないことにこだわるバカなおれを見て妻は見捨てたのだ。幻影にすがって最愛の孫の姿を脳裏に描いて一人想いみる。すべては断薬による禁断症状の現れだ。おれの決定的な敗北だ。


 (長男がおれに言っているかのようだ。おやじあんたが死にかけても最後の最後まで相手にする者など誰一人この世にいないだろ。自分がまるで何者かのように思い上がったあんたはこの世ではまったくなにものでもなかったんだ。すでにわかりきっているのに。金銭的評価はマイナスだろ。決定的に永遠に。なんの痕跡もなく消えるだろ。これ以上誰もなにも言っては来ないのだ。一銭も持たない隷従者が耐えに耐えて爆発しついに怒り散らし開き直ったところで革命でもなんでもない自分の首を絞めただけの一時の反逆。一銭も持たないあんたが負けに決まっていたこと。バカなあんたにはじめから離婚と断絶の切り札を切る余地はなかったのだし今後もない。誰も相手にしていないのは先刻決まったこと。ご愁傷さま。)



 妻と最愛の孫がそばを離れた一人暮らし。奪われた幸福感に奪った者たちへの激しい怒りの発作と焼き付けるような幸福に浸っていた妻とおれたちの家庭への深い思慕。涙が止まらない。感涙の発作の繰り返し。へなへなと崩れいく自律神経。昼も夜も戦場にいるような闘争心。と交感神経のおさまらない興奮。脳内の神経の伝達物質セロトニン、ドーパミン、アドレナリン、メラトニン、内分泌ホルモンの混乱。


 若い妻との出会いからしてからまりついたツタに締め付けられるような思いがおれを苦しめた。あれこれと心をかきむしるように混乱させる若い女の気まぐれと心理に振り回されるたび、耐えて耐えてそれが女の愛なのだと自分に言い聞かせた。早く早くと結婚を迫る妻。革命家としての教師を熱望していたおれにそれをとどまらせようとして横やりを入れた若い妻。妻はおれの臨時教員の職場まで自動車を乗り付けて邪魔をした。狂気に突入するほどおれの心を縛って圧迫していたのは一番近くにいた妻の存在だった。若い妻は容赦なくおれに向けていらだちを平気でぶつけてきた。妻は生殖のため以外のセックスはしない女だ。それだけでも一種異様な女なのだ。相性が悪かったといえばそれまでだが、それをただ若さにまかせておれは無理に耐えた。なぜこの女の存在が終始相容れず何から何までおれに殺人的に作用するのか。それはわからなかった。妻がおれに甘えついてくればそれを受け止めてやればよかったのだ。女の愚かさをあげつらってなんになる。初めっからわかったことだ。


 何代にもわたる労苦で積み上げられた家督や人が一生かけて築いた業績を一瞬にして無きものにする。いま生きていさえすれば妻はそういう無謀を問題にしない女だった。普通そんな女は怖くて近づけないものだが、そばにいて一種異様なこの人が何故自分の人生を台無しにしたりのべつ幕なしに神経を逆なでするのか。きっと妻の先祖に浮かばれない哀しい生を送った者がいて、成仏できない魂や霊が詩人のおれにすがって取り憑いたのではないか。その霊が妻の口を借りてしゃべらせているのか。取り憑いた霊がおれを頼って成仏したがっているのか。


 きっと妻に取り憑いた成仏できない霊がその子どもたちにも取り憑いたのではないか。長女や長男の子どもの頃の時から考えたら考えられないほどの性格の豹変をそんなふうに考えても見た。長男も長女も妻もあまりに下司で粗野な性格に豹変してしまった。妻は昨日のことも今朝言ったことも夜には忘れてまったく逆のことを言ったとして妻の頭の中ではつじつまが合っているような人だ。いつもの穏やかな性格が豹変して鬼のように一変する二重人格三重人格の女だった。



 今回のことのはじまりは妻がタバコ代を一言も相談もなく無慈悲にいきなり減らしておれの精神状態を有無を言わせず窮地に追い詰めたために起こった。はじめがそうだったんだ。だがしかしそれを誰に言ったところでいったいこれ以上誰が妻に忠言できるというのだ。月に二万円のタバコ代を代わりに払ってやる者がいるはずがない。妻の苦労を想いも見ないであぐらの上にあぐらをかいている働かない夫のおれが悪いに決まっていた。しかしそれは妻が夫に対してあまりに強引に我が意を一方的に押し付けた無謀と無配慮に過ぎなかったのではないか。精神障害者でニコチン中毒患者の生身の肉体の苦しみは空気のようにまったくいとも簡単に消えそこになんの考慮もなかった。それ以前に人を遇する思いやりも人に対する敬愛のひとかけらも無かったのだ。夫に対する居丈高で冷酷なまるで犬猫の調教だった。そう言い及んだ時その時に。

 妻の心が折れてしまったのだ。なぜかその時何かを感じ入った妻は心乱れ、放心したようだった。いくら人に隠しても妻の顔は泣き顔だった。妻の頭の中がついに壊れたのだ。連日の激しい仕事の疲れが回復を妨げた。


 あなたはそんなにわたしを責め立てていったいどうして欲しいのよ。必至で働いて家庭を切り盛りするわたしのどこが悪いというの。わたしに黙って従うのが当たり前なのよ。わたしもうそんなに言われて心が持たないわ。限界だから。もう無理なのよ。仕事のことを理解してくれなきゃ生きていけないに決まってるでしょ。当然でしょ。

 おれは立ち止まってくれと言っているんだよ。立ち止まって周りを見て少しだけでいいから考えてくれ。そうすればわかることだ。あんたは抜群の腕前でハンドルを操作してみなを引き連れて導いたが、周りはそのスピードに振り回されて壊れそうなんだから。離婚でも損害賠償でも要求しなけりゃあんたは止まらないじゃないか。そのまますべてみなを遺したまま突っ込んで行くつもりなのか。むちゃだよ。


 あなたにわたしを責め立てるほどの身ははじめからありはしないのよ。逆らったところでそれならそれであくまでわたしは力に居直るわ。勝てるはずないのに。責め立てるのならどうあろうと出て行く。そうならそうであくまで屈服するわけがないじゃない。意地悪だと想っていなさいよ。そんなにわたしは善人かしら。女を甘く見ないでね。心が壊れてでも立っているのよ。どうせもう長く生きようとは思っていないわ。


 放心した妻に、孫があす母親と海に行くと言う。それならみんなで行こう。みんなそろった夏の海は五年ぶりだ。あのしあわせの頂点だった5年前。



9。夏の海と転生


 波のしぶきと光線に焼かれて妻は一人孤独に砂の上に身をさらした。だれも話しかけはしなかった。そして妻は照りつける日射しを浴びながらその時ひそかに自らの半生に別れを告げ今後のすべてを断念したのだった。それは過去を哀惜し処理する妻のいつものやり方だった。そうして人は誰でも次のステージを生きる。秘かに泣いていたのは誰でもない。過ぎ去る時間の中にいて傷む心を手放せないでいたすべての人がそうなのだ。

 孫は嬉嬉として夏の思い出を作った。波に浮かんで喜びの叫びを上げた。おれは若い幸福な家族を見ると涙した。子育ての道はつらく長いが過ぎて見たとなれば二十年三十年あっという間だったのだ。誰でもがいつまでも一緒にはいられない。取り返すこともできなく一時代が終わったのだ。

 脚の弱った年老いた人たちも夏の海の光線に身をさらしていた。自然の中で人生の節々で傷ついた年老いた人たちこそ真っ先に心癒やされてよいのだ。海に行こうよ夏の海に。

 そうだいくら自己保存のために自分の心をだまし嘘をついて自分自身がわからなくしたとしても、もし本当に真実の矢が当たったのだとしたらその心は砂のようにきっと崩れ去るだろう。孫よ大丈夫だ。おれやおまえの切なる願いがあれば天に届くよ。きっとその日が来るだろう。

 思い出の夏の光線が海から山へと反響して静かな我が家へおれたちの記念に導いた。孫はそうして幼い心を脱ぎ捨て凜々しい少年になっていった。みながつらかった日々を抜け出していち早く乗り越えて行ったのは孫だったのかも知れない。弱い人間が一方でどんな困難や難病や神が与えた厳しい試練にも打ち勝ち乗り越えて行く深く強い不思議な力を持っている。人間には目に見えないそういう力が隠されている。孫よその秘められた不思議な力を堅く信じていよう。それは誰でも起こりうることなのだ。

 妻は中学一年生のとき生死をさまよう病を克服した。片脚を切断するかも知れなかったような危機に。そして妻は最愛の母親に十九歳で死別した。試練を乗り越えて行く力が彼女の内部に深く存在するのだ。父親のいない孫にとっても困難は同じだ。乗り越えて行く人間の力を深く信じていようよ。

 そしてその日妻はすでに過去を捨て去っていた。

 幸福のよりどころを失ったおれの怒りが収まることはなかった。妻はそれを悟ったかのようにあんたのすべてが悪いのよと捨て台詞を吐いた。妻は長く闘い続けた暮らしから反対にただただ逃げる、とにかく逃げることにしたのだ。なにかに恐れを抱いたかのように妻の心臓が高鳴っておれのそばにはいられないのだ。もはや他人の言葉など聞いていない。しあわせな過去などもはやいくらでもなかったことにできるし問題にならない。うそはいくらでも言い立てられる。すべてを消し去って自分の残された時間と生活のため。もはや重ね合った苦労と幸福な暮らしを捨て去って見向きもしない。すべてはもう今後のなりわいのことのみ。つまらぬおれの繰り言につきあっていて夜眠れなければほんとうに仕事にいけなくなるから。

 あなたなど一番どうでもよくなったのよ。何か取り返しのない罪を負ってわたしが悪かったと反省と謝罪と償いと和解と出直しを口にしたところでそれは人にとってすべては利害の戦略の上でしかないのよ。反省と謝罪と償いと和解と出直しを知らない日本人に幸福は必要ないのよ。お金の方が欲しいのよ。現実は命よりお金の方が大事な原発事故列島でしょうよ。すべてなし崩していくのが生活というものよ。あなたのように論理などと口にするものは生活に必要ないのよ。

 (反省と謝罪と償いと和解と出直し?そうだったのか。孫は幸福である資格もないはずのおれと同じ日本人だったか。かつても今も他民族の幸福感の種を一切の根底から現実に奪い尽くし害した日本人にとって、はじめから幸福の権利などあろうはずもないではないか。おれはつねに贅沢な悩みのお坊ちゃんなのだ。これくらいのことでと人が聞いたらばかばかしいだろう。犬も食わない。誰を恨んでもなんにも始まらないのだ。この世界を許すも許さないもないのだ。すべては自分が導いたことのはず。)


 あなた覚えておきなさいよ。金の切れ目は縁の切れ目。金の切れ目は命の切れ目。




10。もう誰にも期待しないで




 そうして妻は長い半生でもはや取り返しのつかない自分の誤りと夫の幸福を奪った決定的な自分の失策に思い及んだ先に頭の中でそれを消し去った。もう取り返しのつかない幸福の破壊の責めをそんなことは知ったことかと自分に言いくるめ。自身の敗北をあくまで勝敗のつかない痛み分けに狡猾く持ち込んだ。自分に対する評価などかなぐり捨てて生活を守る自分があくまで正しいのであり、はじめから妻だの嫁だのという規範など問題ではない。まじめな反省など犬にくれてやると居直った。それは男をコントロールする意地の悪い女の狡猾さの表れなのかも知れない。わたしは人のことなど知りません。あなたは自分のことをもっと心配したらどう。何十年の営為をいとも簡単に手放し台無しにした自分の愚かさを耐えがたく感じた妻はそれを覆い隠し、逆に理を以て指弾する夫を標的にしたのだ。夫の命を縮めることになったとしてもそれならいっそう平然と意図的に生爪をはぐように夫を苛む。妻はそれ以外に自分を保てなくなったのだ。若いときからそうやって現実を処理する女だった。不真面目に開き直った恥知らずなそのやり方は自己保存のための妻の常道だった。いくら怒らせても命までこの男が取りに来ることはないのよ。やれるならやって見なさいよとあくまで無意識に笑って挑発し続ける。神経を逆なでしているのは普通ならわかるはずなのだ。


 だが今度は血を見ることになると知ったのは長女と最愛の孫だった。だからもうどんなに幸福だったじいちゃんとの暮らしもこの家の暮らしもけっして忘れない孫だったのだが、もはや近づくのさえ慎重になった。孫はすでに悟ったのだ。孫が生まれた喜びに周りが有頂天になりのぼせあがったが、孫は自分で判断して母親とともに自分が生きる道を見いだそうと考えたのだ。それ以外はあり得なかった。みなが気づかなかったのは孫が生まれた時代が滅びの時代のまっただなかだったということだ。


 一家離散をもたらすほどのばかな断薬などしないで精神薬のお世話になっていればいいのに。けれどもおれはもはや脳の報酬系に訴えて生きようとするやり方を捨てた。孫の存在はもっとも脳の奥深く快感を刺激する毒だった。罪な子だ。おれが孫をどんなに盲愛したか。おれは父親の代わりだと思って孫を育てたのだ。それはれっきとした依存症だろう。

 セックスだって人は依存するのだが、ただで身を任せる女はいないのだ。この世に金の絡まない人間関係など存在しない。


 哀れで可哀想なのは一人やさしい長男だ。父親のおれに実家を無碍に追い出され、もはや嫁いだ先の家のことなど歯牙にもかけない嫁と、生まれたばかりの可愛い子を抱え、生活の確かな見通しもない耐乏生活。そして実の母親は長男の心の内など見当も立たない女で、あんたと違ってもはや子どもではない大人だからと一番必要なときに心を配ってやろうともしない。妻はおよそ人間を理解するということを初めから放棄しているのだ。我が子が抱える心の苦しさなど思い及ばない。そして本人はただ先の見えない現実に精神状態を安定させたいばかりに周りの誰をもかまわず気の向くまま風の吹くまま理解を得られない挙動で人を煙に巻く。そうするほかに落ち着いていられないのだ。自分が勝手にやったこととは言えどうしようもなく誰に助けを求めても、一生の取り返しもつかない婚姻に自分から身を埋めなければならないのだ。人間の汚物のような傲慢な女を連れてきて周囲を無き者にして挑みかかり、大迷惑をかけておいて自覚することもいっこうに悪びれるところもなく開き直っている。とんでもなく甘えきった無茶苦茶な長男だが、父親のおれが不憫に思わないはずがなかろう。飼い犬に手を噛まれるということはよくあることだが、まさか幼いときから心血を注いで育てた可愛い我が子が噛みついてくるなどとは誰も思わないはず。おそらく本当は泣きたくても泣けない修羅場なのだろうが。それでも乞食根性似たもの同士の夫婦で世間に背を向けて二人仲良く自足してのぼせているのか。はじめからこの家に縁無くそうしてくれれば平穏だったと言えばそうなんだが。世間に隔絶されればされるほど、互いに耽溺して、男が女の虜になるということはままあることだ。

 子どもたちに幸せになって欲しい。でもおんぶしてやって幸せとは思わない。自立して欲しい、と妻はつぶやいた。できのいい自慢の子より親を心配させ困らせる手のかかる出来損ないの子の方が親は可愛いのだ。それが本当の親の心だ。

 孫も長男もおれもあの五月の一瞬にして生活を急変させた次元を異にするエネルギーの爆発の反動で、何が何だかわからないまま、いまだに気が動転している。孫は左に長男は右にそれぞれがそれぞれの頭の回転の速さについて行けず脳がロックしたままで、落ちついた冷静さを取り戻せない。互いに打ち解けることも無くなってしまった。とにかく熱を冷まして、落ち着いた心と冷静さと客観性を取り戻したい。



11。日本語は人間的コミュニケーションのためにあるのではない


 だが日本語は人間的な語り合いのためにあるのではない。せいぜいが一方的な通告どまり。話し合う余地などはじめから無いのだ。あとはむきだしの権力闘争と武力と軍事力がぶつかる。人に外交交渉があるのは西洋的な駆け引きの発想と相手を勘取るためのビジネスと商売の心得、そして上下関係へのへつらい。ほかに言葉など必要ないのだ。

 黙って借金を少しずつ返済していくように、現実を済し崩していく力をずるいとか卑怯だとかあいまいだとか言う方が間違っていた。科学が純粋論理に従って生活をやりくりするほど現実はやせ細った浅薄でも貧弱でもない。多様多彩なあり得る様々な人間の生活は泥臭く充満しているのだ。理屈じゃあない。という妻の口癖の真意は難しい理論でも理屈でもなく簡明な人間の条理だという意味ではまったくなく反対に、現実は理屈じゃないのだと抑えつける強者がぶつかり合う力と力の強権の在り様なのだ。人間の言葉と現実はそれ以外存立しえていなかった。何の力も無いにもかかわらずそれに異議をはさむおれは現実には子どものような青臭いただのひも。女に養われているだけの生活無能力者だった。見れば誰だってわかっていること。遊んで暮らしていてそれ以上妻のわたしになにを言うの。これがあり得る現実よ。嫌なら自分の力でやってみなさい。そのほかのやり方ではどうにもならないのだから。

 そうして冷静で理性的な語り合いによって包み隠さず心開いた互いの理解と、人間の温かく親密な共存と共同と共産の理想と願いは、この世界から雲散霧消する。おまえを理解し援助する者などはじめから誰ひとりいなかったのだ。この世界への甘い期待や依頼や依存は、弱者の不潔なもたれあいと甘えに過ぎなかった。揺りかごから墓場まで手取り足取りされたいのであれば、強者は当然のごとく対価を払って愛人でもはべらせて隷属させ使用人を雇う。一から十まで手取り足取りされても困るのだが、親切げに近づいて来る者らが自分の利益を損なってまで身を挺することはない。

 そうだ、家族という不潔が世界を偽装している。血縁という汚物が滔々と流れている。男は一方的に女に理解を求め、女はさらに男の理解にすがる。恋愛だのむつまじい家族だのと言って、最後は同じ屋根の下で暮らす人間という毒を持ったイボガエルのオスやメスたちの生殖と相性の問題に過ぎないのだ。

 徹底しておれをキチガイと見下し尽くした妻は軽やかに笑って水曜の夜と土曜の夜は玄関口に決まって姿を現し、そのにこやかさの陰にあくまで勝利への確信を漂わせ、この世に悪が滅びたことはなし、嘘とごまかしと秘密と知ったかぶりのはびこる俗世の中で児戯に等しいおれの詩人として一生の一切合切をあざけり笑うのだ。もはや若い真摯な熱情と献身と支え合ったお互いの犠牲の一つ一つによって得られた過去の栄光も現在の美しいお涙頂戴の物語も、もはや妻の耳に留めておくことはできない。極悪の道と契りあったかのような者同士がともに交わす秘かな共犯の情のみが孤独な妻の永世を捧ぐ浄土の圏域なのだ。そこに現実世の夫であるおれに立ち入らせる場所などない。

 そして愛することがなければないほどそれだけこの世で相手に対し人は報いることができる。あなた最愛の孫を溺愛することをやめなさいよ。彼を自ら進むところに進ませなさい。きっぱりと手放してすべての者に別れを期しなさい。ほんとうに大事な人との巡り会いは、ほとんど一生に一度だけ。一期一会の出会いにこそゆったりとした余裕をもって備えるべきじゃないの。冷酷であってこそ妻なのよ。妻の存在に胡座をかいたバカは誰。あなたのことでしょ。いつまで甘えてるの。もう誰もあなたなんか気にかけてはいないでしょ。誰もあなたを相手にしている暇はないのよ。あなたが思い通りに勝手に何かを望んだとしてもすべてその相手がいるのよ。あなたの言う通りに従う必要はまったくないの。人には人のそれぞれの意思があるの。どうしても叶わない現実があるってことをあなた以外の誰もがみんな知っているのよ。


(だがそうだとしても、産んだ子まで食らい尽くす山姥の余裕は来世まで永続するのだろう)



12。終局の八月。炎暑。故郷の喪失と滅びの日。



 滅びの日を認める八月がきた。思いに反するのか願いが通じるのか、次男が盆にパートナーと孫をともなって帰省する。長男夫婦にも孫三人の写真を撮って夕食をともにすると妻がメールで連絡。長女と六歳の孫が率先して大喜び。おれの妹の家族と一緒に盆の大宴会。夜は盆踊りと花火大会。六歳の孫が一心に踊って帰宅。じいちゃんよと盆踊りの景品のテイッシュペーパーのケースをおれに手渡す。金を一銭も持たないじいちゃんにゲットしようと一心に踊ったのだ。

 人が生きるのには自然と環境と気象の条件が必要だ。それが急変すればそれだけで暮らしも経営も激変する。その条件の上に、家計、生計、経済的基盤があってこそ人間と人間の関係が成立し生命が維持される。そして社会基盤がライフラインが社会的インフラの基盤が整わなければ不便で生きることはできない。すでに中学校は統合し廃校。小学校は全校生徒40人程度。病院も福祉サービスも役所も消防署も郵便局も警察もエネルギー関係の店舗も電気ガス水道の維持も自動車関係の商売も食品もなにからなにまで急速に衰退をしていく。ここ五年、十年で決着点が見えてくる。人が住めないのだ。少子高齢化人口減少は生活の基盤を奪う。そもそもの現実がこんな辺境の農村に住む者や零細な家計を営む者を制度的に社会の標準とはしていないのだ。誰も救いようがない。

 いとおしい彼ら孫や子たちの流すだろう切ないほどの苦難の涙を誰が知ろうか。人に知れず今つらい涙を拭かずにいるのはおれのそばにいる者たちそれぞれがみんなだったのだ。あの幼い孫たちでさえどうしようもなくみなつらいのだ。滅びの日を認めなさいよ。自らの死滅の日を認めなさいよ。負けは早く認めて残る日を想いなさい。そうだろ孫たち。負けたときこそがチャンス。だれにもみなが思い通りにはならなかった。苦しくてあたりまえ。誰でもみんな涙を流す日々はある。それでも泣いてばかりはいないさ。

 江戸の時代遠くから引き続いた村の名家の家ももはやすでに資産価値など知れたものだ。この家が滅ぶ。妻が結婚した当時「この家の嫁ではありません」と宣言した言動は深く村人に驚かれた。それならなんだ。なんの挑戦なんだと。だが今になって、滅びの先の見える家々。空き家になった家を目にした時、妻が偶然にも正しかったのだと思う。わたしはわたし。家などより生きていること方が大事じゃないの。

 町で身を潜めるように母子家庭に育った妻に家庭の常識など思いもよらないから、それは何の手柄でもないが滅びの村にそれでも生き残る人々が後世代を想うとき。帰ってくるところと帰ってくるところのなくなった孫たちが今後の苦難の中でどう道を見つけ歩き判断するのか。成立した喜びの瞬間に決定的な別れをどうしようもなく涙をこらえて惜しむ子どもたちの姿と重なって、ことさらではなく それなりでいいのよと語りかける妻の孤独と、夫を幸せな家庭からあえて引きはがし自分たちの根拠を見いだそうとする息子の嫁たちの意気地を見て。

 ただただ慟哭して睡眠の足りない頭をもてあますばかりの夏だった。

 おれの父親は今現在も病身に老いさらばえ赤い目をした老猿のごとく生きている。気味悪くやせ細った四肢と心臓の悪いゼーゼーといううめき声を発して、玄関先で横転し、食い物をいやしくねだり、この猛烈な炎暑を生き延びる。生物的な死はあくまでもただそこにあってそれだけのもので、人間に救いがあってはならないのだ。隣人から激しく憎悪され続けたおれの父親はあくまで死にようがないほど人の真心を否み軽んじ彼我の存立の条件を否む差別者だったのか。生みの親の生物的死を見ながら血の連続の呪いの終局を憐れむ。一心に寵愛を受けた者が突如みなを敵に回して反旗を翻す骨肉の諍いは何千年と遠く隔たる旧約の物語に求めずとも現に見いだされる。憑かれたように繰り返される生の衝動としてそれは熱に満ちているのだ。滅び行くにも滅びの形がある。

 もの狂いのような手のひら返す豹変と反逆は、鄙びた貧窮の賤民に見られた。それは血族の活性をもたらす抑えがたいエネルギーの発揚の許されたあり方に相違なかった。家族から一心に浴びた寵愛のなかで育った長男に現出したのはまさにその精神遅滞とも呼ぶべきいとけない心理に突如襲った圧倒的血の迷いと破壊の衝動のエネルギーだった。

 血縁と生殖の呪われた永久運動が生命保存の悪賢い奸計を胎みながら骨肉の憎悪の温床となる。骨肉の憎悪の連鎖が他に向けられるに及べば、滅んでいく民族の日本人として自らの生の一切のよすがを一級国民の優越感に結びつけてみな心安寧なのだ。原子の火に焼かれようが天変地異の叫喚の中にあろうがみなおとなしくすべて受け入れる。日本人として通用する常識の互いの暗黙の共有にもたれあったままに。あくまで仲間はずれと村はずれを嫌う一員でありたい彼ら彼女らは反抗しようが迎合しようがすねて背こうが他人のことはいっさい関知せず冷ややかに無関心で商売相手のみの気を引いていればいいのだ。それが日本人という同族の関わり方だ。他民族の幸福の種を根こそぎ奪い尽くし害した日本人の排外差別の攻撃性の根拠は、同族内の憎悪がいっせいに他民族に向けられた時の盲目的激しさにあった。

 家族において日本人はもはや互いに隠し立てのない親密圏の語り合いを喪失した。

 生まれついて特異でただ優しいだけの男の心をこれ以上苛むな。

 おまえ、断薬の境涯のここに至ってもう一切の何にも誰にも甘えるな。親兄弟も子も孫も誰でも。もはやおまえに味方はなく援助者はなく力になる者はいない。世界は随意ではないのだ。おまえ以外の人間にはそれぞれ個別の意思があって、人間の生老病死すべて決して必ずおまえの思い通りにはならない。意のままに操ろうとして反対に反逆されるのはおまえ自身なのだ。何もかも思い通りにはならないのであれば、世界がもどかしく苦痛として在るのは誰にとっても当然のこと。快楽や安楽にひたって苦痛を緩和したところでいずれ有限な身の滅びを知る。


 どんなに幸せな家族も一度たがが外れ、歯車が狂ってしまえばとことんまでだ。ゆっくりと歯車が噛み合う日を望んで辛抱強く根気強くありたい。避けられない災難や不幸や治らない病気やどうしても思いが叶わない現実があるからこそ遠くにいて近くにいていっそう愛する者が愛おしい。

 断薬の危機が爆発的に照射した滅びの一端をここに開陳し警世とする。あすを保障するものなどこの国にはもはや皆無だ。これがみなわかったような口を利き誰よりも自分を優先し何の根拠も無く他を見下して思い上がった家族の避けがたい報いと滅び行く運命の姿だったのだ。


           2016/09/24   (完)





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