ダニス・タノヴィッチ監督の映画がお好きな方は多いと思います。旧ユーゴスラビアの出身で、ボスニア紛争をユーモアも交えて描いた初監督作品『ノーマンズランド』(2001)で注目され、ドキュメンタリー的手法で撮った『鉄くず拾いの物語』(2013)では、ボスニア・ヘルツェゴビナのロマ族の一家を主人公にして再び世界の耳目を集める、という、今最も注目されている東欧の監督です。タノヴィッチ監督の最新作は2016年の『サラエヴォの銃声』なのですが、その日本公開の前哨戦のような形で、珍しくパキスタンを舞台にした彼の映画が公開されます。その作品『汚れたミルク あるセールスマンの告発』は、パキスタンで1997年に表面化した事件が描かれるのですが、パキスタンでは撮影できず、インド=フランス=イギリスの国際共同製作作品として、インドで撮影が行われました。そのため、インド人俳優が主人公たちを演じており、皆さんご存じのスターがいろいろ登場します。まずは、基本データからどうぞ。なお、本作の公開に際しては、日本人観客に馴染みやすいよう固有名詞は音引きをほぼ落とした形で表記されているのですが、ご参考までに音引きを付けたものを<>内に入れておきます。
『汚れたミルク あるセールスマンの告発』 公式サイト
2014年/インド=フランス=イギリス/90分/原題:Tigers
監督:ダニス・タノヴィッチ
主演:イムラン・ハシュミ、ギータンジャリ、ダニー・ヒューストン、アディル・フセイン
配給:ビターズエンド
※3月4日(土)より新宿シネマカリテにて2作品連続ロードショー(『サラエヴォの銃声』は3月25日(土)より)
(C) Cinemorphic, Sikhya Entertainment & ASAP Films 2014
物語は、主人公のアヤン(イムラン・ハシュミ)が意を決して、自らのことを西洋のメディアに語り出すシーンから始まります。1994年、アヤンは結婚したその夜、花嫁のザイナブ(ギータンジャリ)と窓越しに隣家のテレビを見つめ、インド映画を楽しんでいました。ラホールはインドとの国境に近いため、テレビ電波が入るのです。アヤンは製薬会社に勤めていましたが、地元の製薬会社は多国籍企業の台頭で業績が悪化していました。アヤンも経済的に苦しくなったものの、父も政府に仕事を奪われて訴訟中で、何とか自力でがんばるしかありません。そんな時、妻が多国籍企業ラスタ社の求人情報を教えてくれ、アヤンは就職試験を受けに行きます。面接の時、上司から「君たちはタイガーだ」とハッパをかけられるアヤンたち。ほかにも自分を試すような質問をされたためアヤンは怒りますが、それがよかったのか、無事採用されました。
(C) Cinemorphic, Sikhya Entertainment & ASAP Films 2014
それからのアヤンは、 上司の指示に従い、懸命にラスタ社の製品である粉ミルクの販路を広げようと仕事に邁進します。上司のビラル(アディル・フセイン)は、「金をばらまき、顧客に与える好感度を上げろ」と命じ、アヤンは病院の医師や看護婦と仲良くなってはプレゼントを繰り返して、自社の粉ミルクを患者たちに使ってもらえるようプッシュします。中でも若いファイズ医師とはすっかり親しくなり、また別の医師とは様々な費用負担で信頼を得るなど、アヤンは病院に食い込んでいきます。そんなアヤンを上司ビラルは賞賛し、バイクを報奨金代わりにプレゼントしてくれました。ところがある日、厳しい表情をしているファイズ医師に伴われてある部屋に入ると、そこにはやせ細った赤ん坊たちが....。ファイズ医師の話では、アヤンが無料提供した粉ミルクを貧困層の人々は清潔でない水で溶くため、病気の赤ん坊が次々と出てきているのだとか。亡くなった赤ん坊もいると聞き、アヤンは胸をつかれるような気持ちを味わいます。しかし、ラスタ社の販売戦略は、貧乏な家の赤ん坊の死ぐらいでは、変更になりませんでした。アヤンは自分は何をすべきかと考え、徐々に決心を固めていきます....。
(C) Cinemorphic, Sikhya Entertainment & ASAP Films 2014
ストーリーはパキスタンで実際に起こった事件を元にしており、 会社を告発したアヤン、実際にはサイード・アーミル・ラザー・フセインさんは、その後数々の脅迫にさらされたため、結局パキスタンを脱出して今はカナダでタクシー運転手をしているのだとか。粉ミルクをすさまじい販売戦略で売り込む多国籍企業のモデルは、皆さんご推察の通りインスタントコーヒーでも有名なあの会社です。この会社の名前と「ボイコット」を入れて検索すると、日本語のサイトでも多くの記事がヒットしてきます。例えばこちらには、粉ミルクの導入を強引に進めることでどんな弊害が出てくるのかが、端的に書かれています。
(C) Cinemorphic, Sikhya Entertainment & ASAP Films 2014
ただ、映画ではこれらの弊害が絵としては描きにくいためか、やせ細った赤ちゃんが複数、一部屋に集められているという描写のもと、医師が怒りを込めた声で説明する、というシーンになっています。こういった、少し不自然なシーンが2、3あるものの、タノヴィッチ監督の観察眼ならではの描写が続き、彼の押さえ切れない静かな怒りが伝わってくるようです。企業名を架空のものとしたのは、本作に出資しようとする会社や人が二の足を踏まないように、という配慮と、この企業以外にも強引な販売をしている企業があるからで、なるべく公平な視点からこの事件を描こうとしたからのようです。そういった配慮がなされているにもかかわらず、やはり公開に関してはどこの国でもスムーズには行かなかったのか、チラシの画像にもあるように、「幻の問題作、世界初公開」となりました。
(C) Cinemorphic, Sikhya Entertainment & ASAP Films 2014
パキスタンではもちろん撮影できなかったため、パキスタンに隣接するインドのパンジャーブ州で撮影が行われたそうですが、インドの名優たちが数多く出演しています。主人公を演じたイムラン・ハシュミ(上写真右)はご存じだと思いますが、日本での一般公開作はこれが初めてとなります。映画祭上映では、2013年のアジアフォーカス・福岡国際映画祭で上映された『シャンハイ』(2012)が、字幕を担当したこともあって印象深く記憶に残っています。妻を演じたのは、なら国際映画祭上映作『Liar's Dice』(2013)のこれまた妻役を演じたギータンジャリ(上写真中)。『汚れたミルク』ではとてもきれいになっていて、びっくりしました。また、主人公の母親役はスプリヤー・パータク(上写真左)で、ほかに上司役に『マダム・イン・ニューヨーク』(2012)や『エージェント・ヴィノッド 最強のスパイ』(2012)のアディル・フセイン。おっと、アディル・フセインは『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(2012)にも出演していましたので、もうすっかり国際派ボリウッド俳優ですね。
(C) Cinemorphic, Sikhya Entertainment & ASAP Films 2014
また、本作の製作が可能になったのは、インド側が出資を決めたからだそうで、出資しているのはグニート・モーンガーとアヌラーグ・カシャプという『血の抗争』シリーズなどを製作した2人と、プラシター・チョウドリーという若い女性に、クシティジ・チョウドリーという若い男性。2人のチョウドリーさんは、数年前から低予算映画に出資を始めたようで、どういう関係なのかは不明ですが、国際共同製作にも参画するとはなかなかのもの。製作資金を回収させてあげたいですね。タノヴィッチ監督ファンの方、イムラン・ハシュミのファンの方、そしてインドやパキスタン好きの方、ぜひ劇場でご覧になってみて下さい。