アジア映画巡礼

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TIFF:『テセウスの船』アーナンド・ガーンディー監督インタビュー<上>

2012-11-03 | インド映画

遅くなりましたが、第25回東京国際映画祭(TIFF)の期間中にさせていただいた、インド映画のゲスト・インタビューをアップします。「コンペディション」部門『テセウスの船』のアーナンド・ガーンディー監督と女優アイーダ・エル・カーシフさん、そして「アジアの風」部門『火の道』のカラン・マルホートラー監督と奥様でありスタッフの1人でもあるエクターさんです。3回の連載となります。

作品をご覧になっていない方のために粗筋を付け、また、『テセウスの船』はインタビューの前段階として、上映時のQ&Aの一部を付けてあります(写真がピンボケですみません)。ご覧になった方は、映画を思い出しながらお読み下さいね。なお、(※)を付けた写真は、10月21日(日)の『テセウスの船』記者会見@ムービーカフェの時のものです。

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「コンペティション」部門

『テセウスの船』 (Ship of Theseus)
 2012/英語・ヒンディー語/インド
 監督:アーナンド・ガーンディー/主演:アイーダ・エル・カーシフ、ニーラジ・カビ

[ストーリー]
『テセウスの船』は3つの部分に分かれています。(ネタばれがありますので、ご注意下さい)

<第1話>
主人公は、エジプト人女性でムンバイに住んでいるアーリヤ(アイーダ・エル・カーシフ)。アーリヤは目が不自由なのですが、カメラマンとして活躍しています。音声が出るカメラを使って撮影し、やはり音声が出るパソコンを使って自分の写真を取り込んだ上、同居しているインド人のボーイフレンドの助言や、処理をして一部の線が立体化したプリントアウト画像に触りながら、自分が撮りたい物が表現されているかを確認していくのです。ボーイフレンドが「とてもいい写真だ」と言うのに、「イヤだ、削除して」と気に入らない写真を消してしまう頑固な一面もある彼女ですが、ムンバイに生きる人々を切り取った彼女の写真は絶賛されます。そんな時に突然、角膜移植の話が伝えられ、彼女の目は光を取り戻すことに。ところが目が見えるようになった彼女は、自分の撮る写真がどれも気に入らなくなり、だんだんと自信を失っていきます....。

<第2話>
主人公は、とある宗教団体に属するマイトレーヤ(ニーラジ・カビ)。小さな虫の命さえ愛おしむ彼は、製薬会社や化粧品会社の動物実験に反対し、その禁止を求めて起こされた訴訟に関与していました。裁判所で若い弁護士のチャールワカ(ヴィナイ・シュクラー)と知り合ったマイトレーヤは、「人の体は共同体だ。人間の体の中にはバクテリアがいて、人間が死んでもバクテリアは生き続ける。人の命の終焉って、一体何だろう?」というような問答をしては、認識を深めていきます。その一方で、マイトレーヤは重い肝臓病を抱えており、西洋医学を拒否する彼は伝統医薬だけに頼っていたため、病状は日に日に重篤化していくのでした。そしてギリギリの段階になった時、彼は「私はまだ死ねない」とつぶやき、親しい医師からの肝臓移植の提案を受け入れるのです....。

<第3話>
最後の主人公は、株ディーラーのナヴィーン(ソーハム・シャー)。彼は腎臓移植手術を受けたばかりで、元気になって退院してきたのですが、今度は高齢の祖母が倒れてしまい入院することに。ナヴィーンは祖母に付き添って病院にいる時に、盲腸の手術だと言われて密かに腎臓を取られてしまった男、シャンカルの話を聞きます。手術日が1日違いだし、もしかして自分の腎臓はシャンカルのものでは? 幸い彼の腎臓は別人が提供したものと判りますが、貧しいシャンカルとその家族の嘆きと怒りを目の当たりにしたナヴィーンは、彼の腎臓を買って移植した男を突き止め、その男に会いにスウェーデンまで行ってしまいます。そのスウェーデン人男性を追求し、「腎臓をシャンカルに返せ」と迫ったナヴィーンでしたが、帰国すると意外な結末が待ち受けていました。スウェーデン人男性から多額の金がシャンカルに届き、シャンカルは大喜びして、さらなる追求を求めるナヴィーンを邪魔者扱いし始めたのです....。

<エピローグ>
ムンバイのある博物館で、若い青年の遺作映像が上映されます。彼は亡くなった時に臓器を8人に提供したのですが、提供された人々が招待され、体調が思わしくない心臓移植者以外はその場に集まって、青年が撮った洞窟の映像に見入りました。その中には、アーリヤ、マイトレーヤ、ナヴィーンの姿も見えます....。

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[Q&A:10月20日(土)上映後]
この時の主要な質問とその答えは次の通り。21日(日)のインタビューではこの時出た質問を割愛したため、ここに採録するものです。Q&A全体の報告は、TIFF公式サイトのこちらをご覧下さい。

矢田部吉彦プログラミング・ディレクター(以下「矢田部」):
不思議な魅力に満ちた物語、ありがとうごさいます。とても物語が面白いですね。どこからこのストーリーの着想を得られたのでしょうか? 「テセウスの船」というたとえ話から広げていったのか、それとも臓器移植の物語を作りたかったのか、創作の源のところを教えていただけますか?

アーナンド・ガーンディー(以下アーナンド):
今、”モノガタリ”という言葉を聞いて、おお、と思ってしまいました。というのも私の日本への関心は『雨月物語』や『東京物語』といった映画から始まってますから。
ストーリーはいろんな要素から成っていますが、どれも主に哲学的なものを含んでいます。私にとっての主要テーマは、アイデンティティに関する問いかけです。自分は誰なのか、何で出来ているのか、自分を取り囲む世界はどうやってできてきて、自分はどうやって生まれ、どう終わるのか、ということですね。
次に、我々の体は数年ごとに変わっていきます。7年ごとに体の細胞は置き換えられていくのです。体のどの部分であっても、以前のものとは違ってくる。我々は、心理的にも思考的にも哲学的にも変わっていく。同じ人間なのにね。そういったパラダイムにもすごく興味があります。
他にも興味のあるテーマはいろいろあって、非暴力に関してもそうです。暴力と非暴力の違いは何か、その境界はどこにあるのか、自分なら誰に対して暴力的になってしまうのか、といったことを考えます。また、芸術家が自分の仕事を客観的に評価することができるのか、というようなことにも関心があります。
我々は今、複雑な世界に生きています。世の中のモラルでも、白黒はっきりつけられるかどうかわからないのが今の世界です。映画の中でも、生きるためには腎臓を買う以外の選択肢がないレシピエントが出てきます。その腎臓は、金が必要な貧しい男のものだった。こういう場合、モラルはどうなるのか。こういった哲学的な疑問が、私を惹きつけたのです。
映画のタイトルは、ギリシア哲学のたとえ話が元になっています。テセウスが船を建造した。その後長い間に少しずつ船は改修されていき、最後にはどのパーツも以前の船とは違ってしまった。そこで出てくる疑問は、そうなった船は以前の船と同じと言えるだろうか、それともまったく新しい船なのだろうか、ということです。
これは有機生物、我々人間についても同じことが言えます。細胞が変わった場合、同じ人間と言えるのか。顔も変わっているのにアイデンティティは同じなのか。同じ人間としての責任はあるのか。そういったことですね。

質問者A:
2つめのお坊さんの話ですが、エピローグで出てきた時はお坊さんの格好ではないですよね? あれはお坊さんをやめてしまった、ということでしょうか。

アーナンド:
その通りです。あれは主人公にとって重要な意味を持っていて、彼が最後に一線を越えてしまった、自分の持っていた信念を捨て去った、ということを表しています。

質問者A:
お坊さんが「魂があるのか」と聞かれて「わからない」と答えたことや、「私はまだ死にたくない」と言っていたことから勝手に解釈していたのですが、今監督が答えて下さったことでよく理解できました。

質問者B:
映像に関してですが、直線が印象的というか、直線の建物によって切り取られている映像がとても美しいなと思いました。直線で切り取るフォルムというのに何かこだわりがあるのでしょうか?

(※)

アーナンド:
撮影監督のパンカジ・クマールとは仲良しで、彼は製作の早い段階からいろいろアイディアを出してくれました。主人公たちの考え方をいかに表現していくかとか、彼らが置かれている状況を見せるやり方等にアイディアを出してくれて、最初から一緒に考えました。それを舞台となっているムンバイでそれぞれの主人公や状況を動かしてみて、どうやって撮っていくのかという問題を解決していきました。
建物ももちろん重要な要素の一つでしたが、もっと重要視したのは季節です。ムンバイは1年を通じて暑くて湿度も高いのですが、2週間だけ冬があります。その時にはすごく涼しくなり、24度くらいになるのです。その時に第1話、アイーダのカメラマンのパートを撮ろうと思いました。第2話は雨期のまとわりつくような蒸し暑さの中で撮り、感情の葛藤を出すようにしました。第3話は一番暑い時に撮って、ムンバイのとんでもなく苛酷な季節の中で主人公の感情を映そうとしたのです。いわば映像の言語を使った、ということですね。

矢田部:
アイーダさんも役作りについて、監督と相当今のような哲学的なディスカッションをなさったのでしょうか? どのように役にアプローチしたのか教えていただけますか?

(※)

アイーダ・エル・カーシフ:
最初は、こんな役柄ってあるの? と疑問に思いました。それで監督が、盲目のカメラマンが本当にいることを教えてくれ、彼らの作品をいろいろ見せてくれたのです。その後盲学校に行き、目の見えない子供たちの写真作品を見たりして、自分でもリサーチしました。目の見えない人でも人それぞれに体の動きが違ったりしますので、それを真似たりして、キャラクターを作り上げました。

<下>のインタビューに続く


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