18年ほど前、「カレー味のうんことうんこ味のカレーのどちらなら食べられるか」という話になったことがある。当時すでに古典の域ではあったが、決して意見がまとまることはなかった。それもそのはず、今思えば定義が不明確だったのだ。味以外の要素、においや外見がカレーなのかうんこなのかを明らかにする必要があった。といってもその話をまったくしなかったわけではないのだが、頑としてカレーを譲らなかった者は「いくら味や見た目がカレーでも、それはうんこだぞ」と言った。さすがににおいがうんこだったらたとえカレーといえども現実に食べられたものではないのではないか、という点は、我々の食行動が何を拠にしているかをふまえて想像できる。それが実際にカレーであるかうんこであるかは無関係に、現に見た目やにおいや味で判断して食中毒が起こっているではないか。見た目とにおいと味が揃っていれば食べられるわけだ。
15年ほど前、「なぜ鏡は上下が逆にならないのに左右だけ逆に映るのか」という話になったことがある。これこそ古典の域。当時は「人間の眼が左右に並んでついていることが関係しているのではないか」と単に「左右」の定義上の問題を疑う人も出たが、たとえ横になって見ても状況は変わらない。以来、特に深く考えることはなかったけれど、突然正解にたどり着いた。あれは前提が間違っていた。上下が逆になっていないのと同じように、左右も逆になっていなかったのだ。左のものは左に映っているし、右のものは右に映っている。逆なのは鏡面に平行な前後だけだ。
そんな休日の朝の布団。
15年ほど前、「なぜ鏡は上下が逆にならないのに左右だけ逆に映るのか」という話になったことがある。これこそ古典の域。当時は「人間の眼が左右に並んでついていることが関係しているのではないか」と単に「左右」の定義上の問題を疑う人も出たが、たとえ横になって見ても状況は変わらない。以来、特に深く考えることはなかったけれど、突然正解にたどり着いた。あれは前提が間違っていた。上下が逆になっていないのと同じように、左右も逆になっていなかったのだ。左のものは左に映っているし、右のものは右に映っている。逆なのは鏡面に平行な前後だけだ。
そんな休日の朝の布団。