六歳になった私は小学校入学と相成りまして
港区立氷川小学校に通う事になりました
その頃の日本は戦後復興から高度成長へと向かう時代
小学校の低学年の頃の記憶は殆どありませんが
家の物干しから見える建設中の東京タワーが
小学校の二年の時に完成した事
そして三年生の時にテレビが家にやって来た事位ですか
ちょっと覚えているのは
まあその頃はもうテレビに夢中でして
「少年ジェット」だの「月光仮面」や「隠密剣士」
そしてプロ野球やプロレスにうつつを抜かしていた訳です
TV V 少年ジェット 1959
最後のJET!が時空を超えておりますな
後年ベイシテイローラーズが似たようなテンションで
チャントしておりましたが
SATURDAY NIGHT!よりこちらの方がシンプルで
強力だったと今でもそう思っております
更にアメリカからのコンバット、スーパーマン
ララミー牧場やローハイドといった西部劇
まだ画面は白黒の状況でしたが
それはもう憧れるに十分な色彩に溢れておりました
話はそれましたが
その頃同時に音楽番組等から流れる
日本の演歌であるとか歌謡曲
ポピュラーミュージック
そしてちょっぴり外国の臭いのするロカビリーや
ハワイアン、ウエスタン等にも影響は大分受けて
毎日の事ある毎に目耳に触れておりました
まあ、小学校の高学年になるにつれて
中学進学に向けて「四谷大塚進学教室」にも通っておりましたので
わりと遅い時間まで自分の部屋で勉強したり
テレビも見る時間は減って参りましたが
息抜きにラジオを付けて
ポピュラーミュージックもよく聞いておりました
その当時どんな曲をきいていたかと問われましても
当時の記憶が前後しておりまして
ずっと後に聞いた曲でもその頃に聞いたと
錯覚している事もありますので
ハッキリは申せませんが
当時は割とラテンの曲が多く流れていたと思いますが
この曲だけははっきりとその頃聞いたと言えます
チェリーピンクマンボ、又の名をセレサローサ
このトランペットの主題のなんとも言えないポルタメントと申しますか
スライド、グリッサンド全てを足したような「溜め」
独特の長い引き延ばしからのウー!が印象に残りまして
教室で友達等とふざけて叫んだ記憶が確かにあるからです
しかしこのフレーズ考えた人は天才ですな
どうやったらこういう発想が思いつくんだろう
もうまさに音楽の授業とは違う、もっとなにか楽しい音楽が
この世界にはあるなと思えた事もありますし
いうなれば音楽というものに初めて興味を持った
最初の曲というべきかもしれません
THIS IS MY BAGの根底にある最も私のコアな曲かもしれません
ペレスプラードですか...
PEREZ PRADO - CHERRY PINK AND APPLE BLOSSOM WHITE 1955
小学校6年生の卒業が目前に迫った頃
担任の先生といわゆる「お別れ会」がクラスで開かれまして
赤い夕陽が校舎を染める頃ですな
一緒に過ごしたクラスメートもそれぞれ
区立、私立と別々の道に進むわけで
そんな時に突然クラスの男子4,5名が
黒板前に飛び出しまして
この歌の替え歌を自分たちで作って歌い始めたのです
「史上最大の作戦マーチ」
ポール・アンカ 史上最大の作戦
The Longest Day
替え歌の歌詞はもう覚えておりませんが
例え落ちたとて~くよくよするなよ♪
赤坂中学(公立)があるじゃないか~♪
そんな内容だったような記憶があります
つまり私立等の受験に向かって
みんなストレスと親からのプレッシャーで
ナーバスになっている時期でしたので
クラス中の受験生たちは大盛り上がり
初めから公立に進む級友達も
心から応援してくれてるような気も致しました
なによりクラスの女子達が何故か盛り上がりまして
それを見ていた私達はよし頑張るぞという気持ち以上に
そいつらに「チッ...女子に受けやがって」というような
嫉妬の心が起こったのを今でも覚えておりますな
そうして1964年に私立の立教中学校に進学していく訳ですが
入学と同時に放送研究部に入部しまして
そこら辺から音楽に対する興味も大分深まってまいりました
1964年には東京オリンピック
そしてビートルズのEP盤からハーデイズナイト
中学三年の1966年には武道館来日コンサートという事で
リヴァプールサウンドというか
ビートルズ、ストーンズ
そしてエレキ!エレキ!エレキ!と、どっぷりと嵌っていく次第で
で1966年立教高校進学と共にバンド活動も始まっていく訳ですが
実は最初からドラム担当であったかと申しますと
実はその前にほんの一時期ギターをやろうと思った事がありまして
高校に進学した最初の頃にエレキギターを弾こうと思いました
それを東芝のデイレクターの叔父に伝えたところ
それじゃという事で
紹介して貰ったのが古賀政男先生の一番弟子という
阿部先生と申すお方で
代々木上原の古賀邸にレッスンを受けに一、二度通いました
でも本当に申し訳ない話ですが
そんな...贅沢な話でなくとも
よくありますでしょ、なんかもっと普通で良いっていうか
ま、完全に器にそぐわない話でもある訳です
もともと好きな音楽で聞こえるギターの音や
ハードデイズナイトのジョージのギターの写真から
かっこいいなこれと、そう思ったわけですが
なんか....
レッスンのギターはなにか写真のイメージとは大分違いまして
まずつまみと言うかボリュームを調節するものもないですし
弦の太さもボデイのスタイルも違いますし
なにより課題曲が「禁じられた遊び」というような...
早速叔父にギターはどうも合わないからドラムやりたいと申しまして
「それじゃ、使わなくなったドラムセット持ってきてやる」という話になり
めでたくドラマーとしての道が開かれて行った訳です
まあ、そうですよね
当時ギターといえばこんな感じでしたもの
Los Indios Tabajaras - María Elena (1958)
ロスインデイオスタバハラスには当時伝説のような話もありまして
なんでもある日森を散歩していたところ
古びたギターを発見して
拾って帰ったところ
何故かその時からギターがすぐ演奏できてしまったという...
まあ、後にそれは信用できないという話でしたが
それはともあれ
きっと叔父は親戚の中で自分の後を継いでくれるのは
この子だけかもと思ってくれたのかなとも思います
本当に色々と気を掛けて貰いました
同時に中学高校と過ごさせて頂いた立教の校風と申しますか
音楽に対する思いを育んでもらえたのも
今となっては良い思い出になっております
という事で今日は遠い遠い昔の頃に戻りまして
この時期池袋の中学、志木の高校のキャンパス
今はどうなんでしょうな
当時はチャペルにクリスマスの雰囲気も溢れ
傍を通う通学の途中に大学の庭に大きなクリスマスツリーが飾られる時期
何か柄にもなく神妙な面持ちになる
そんな季節でもありました
立教応援歌ではセントポールシャインナイ!セントポールシャイン
が有名ですが
その裏校歌とも言うべき古の歌を聴きながら 乙
ザ • ピーナッツ, すずかけの道