こたつむり本舗

りうまちゃーなナマケモノのブルーな戯言の綴れ書き

山田方谷とカルスト台地

2015-08-13 21:05:19 | 三日坊主日記
NHKEテレ・知恵泉の山田方谷の回、いくら考えても葉タバコの逸話をすっ飛ばしたのは納得いかないっす。
陽明学とか全くわからない、山田方谷の理財論の抄録も読んだ、解らんかったけど。けど、葉タバコの逸話は方谷の思考の柔軟さと当時の幕藩制の硬直化がよく解るエピソードだと思うんだけど…
NHKがやらなかったのなら自分がやろうやないか!歴史ドど素人が歴史を語る…自爆以外の何者でもないが…やったろうやないか!とうことで、興味のあるお方は話1/4でお付き合いくださいませ。
つかこれ、当地の土地勘のある人じゃないと解りづらいお話です(´◇`;)ゞ

まずは押さえておいて欲しいこと…今の高梁市と新見市の境界と幕末の備中松山藩と新見藩の境界とは大きく違ってます。大まかですが、今の高梁市津川町から新見市正田の間は、高梁川の東は備中松山藩領で西は新見藩だったようです。
津川・川面・中井は備中松山藩領ですが、高倉はなんと新見藩、井倉・石蟹・長屋は新見藩ですが足見・唐松・正田は備中松山藩領、そして草間・豊永・土橋も備中松山藩領だったようです。
草間・豊永・土橋に北房を足して…このあたりがどんなところかというと…こーんな崖の上ですミ[゜▽゜]ミ

石灰岩の岸壁の上が台地になってて、そこの地名が草間・豊永・土橋・北房、日本でも有数のカルスト台地です。いきなりドリーネという穴ぼこが空いてたり、鍾乳洞がボコボコあったり、石灰岩がゴロゴロ転がってる、大変水はけの良くて・良くて・良すぎて昼夜の寒暖さの大きなところです。
以前、実家は豊永の農家という人ににお米作りの事を聞いたら「お米?水がたまらないから稲作は無理~ガハハハハハ」と笑い飛ばされました≧[゜▽゜]≦

現代なら稲作不向きなところで稲作なんてしなくていいから笑い飛ばしても大丈夫なんですが、昔はそうじゃない。幕藩時代の租税は米で納める決まり、無理してため池作って無理やり開墾して稲作に励んでたけど、たいした収量は見込めず…な痩せた土地。娘は年頃になれば売られるのが当たり前…
ぶっちゃけ、どんなに灌漑等の手を加えても収穫量の上がらないカルスト台地地域は備中松山藩にとってもお荷物、でもこの土地の百姓も備中松山藩も、米を作るのが決まりだから、しきたりだから、で稲作にしがみついてきたのが、
「そんなところならお米を作らず、他のものを作ればいいんじゃなーい( ´θ`)ノ♪」
と、提案したのが備中松山藩末期に現れた農民出身(といっても室町まで遡れる郷士の末だけど)の藩儒の山田方谷。
「土地で作れるものを作って売って銭を儲けて、その銭を年貢として納めればいいよ、儲けた銭で食う米も買えばいいよ、まかせなさーい(^O^)/」
土地の事情も農業のこともよく知る藩のお偉いさんが、幕藩制の根幹を覆すようなどえらいことを提案したきたわけですね。

方谷が推薦した作物は葉タバコ。葉タバコは水はけの良い乾いた土壌を好む作物で寒暖の差が大きければ味が深くなるものらしく、カルスト台地は葉タバコの栽培にうってつけ。
とはいえ、やせた土地で米が無理なら麦や蕎麦の栽培はある話だけど、葉タバコは農産物といえ嗜好品、これをメインで作れというのは当時では相当の暴論…と一見は見られてもおかしくない訳ですね。
しかしながら、戦国時代にポルトガル人がタバコを持ち込んで以降、日本にタバコ文化がどっしりと根を張って老若男女・貴賎を問わずプカプカしてた一大喫煙ブームの真っ只中、今のようにタバコが健康に害するものと知られてなかった時代なのでタバコはおしゃれなアイテムだった時代だったのです。
だけど、当時は年貢米は藩が売るけど、それ以外の作物は庄屋や名主が世話して売りに行くもの、良いタバコを作って大阪なり江戸なりに持っていけば売れる…のは判るけど…都会に売りにいくなんて、田舎の庄屋に出るわけねーでしょ┗(-_-;)┛としり込みするのは当たり前の反応です。
そこで方谷先生は言いました、
「タバコは藩の専売にするよ、出来た葉タバコはぜーんぶ藩が買い取るよ、藩が葉タバコをキセル用の刻みタバコに加工して江戸に売りに行くよ、儲けが予定以上出たら一定割合を生産者にキャッシュバックするよ(^◇^)ノ」
生産物の最低価格保障があれば、そら当地には難しい米作りに固執はしませんわ、あっという間にカルスト台地は葉タバコの一大生産拠点になりましたとさ。

カルスト台地の葉タバコは備中松山のご城下で加工され、藩所有の専売船に乗せられ、「松山刻み」のブランドで江戸で大々的に売り出され、愛煙家の間で大評判となり大ヒットとなったのです。
貧しかったカルスト台地の百姓たちも、葉タバコ買取だけじゃなくて利益キャッシュバックも受け取れるようになり、娘の身売りも止みました。
明治になって体制が変わって、利益キャッシュバックはなくなりましたが、葉タバコの専売は続き、生産分の買い取りは継続となりました。それは大正になっても、戦前の昭和になっても、戦中・戦後も変わらず、今も続いています。
山田方谷の施策は今も生きているわけですが、もっとも平成になるちょっと前あたりから禁煙の流れが強くなって、転作する葉タバコ農家が続出して、この辺りが一大葉タバコ生産地ではなくなっています。
今はぶどう・巨峰の改良品種「ニューピオーネ」他の一大生産地、方谷せんせーの「その土地で作れる売れる物を作って儲ける」を、葉タバコからぶどうに転作することで実践してるわけですね。