妻が亡くなった。享年75歳。昨年の1月だから、もうだいぶ経つ。
人並みに喪に服していたが、独居老人になって一年をすぎても気持ちの整理がつかず、気力が湧いてこなかった。最近になって、やっとブログを書く元気が戻ってきた。
妻の死因はパーキンソン病だ。病名が見つかって十数年になり、模範患者のように医師の指示に従って療養をしていた。
2か月に一度の通院は、長年私が運転し病院の送迎をしていた。
本当に少しずつ病状は進行していった。すくみ足、下肢の肉離れ、けいれんが起きるようになった。
信頼し十数年かかりつけの勤務医師は定年で交替となったが、引き継いだ医師がひどかった。
カルテを引き継いだ医師は、初診時に妻に触診もしなかった。
診察室に私も入って一部始終を見ていたが、打聴診をしなかった。
神経の病気だから全身のあちこちを叩いて、反射などを確かめてほしかった。
結局、短時間の質疑応答と薬のDO処方で診察が終わった。
次回の診察は、勇気を奮って転医することを申し出て、紹介状を書いてもらった。
転医先の医師は、まず紹介状を読み触診、打聴診を行った。当たり前だがホットした。
妻の訴えをよく聞き、付き添いの私の意見もよく聞いてくれた。一日3回の血圧と脈拍の記録は、この病気の特徴らしく上下の変動はおどろくほど。だがちゃんと目を通してくれた。
医師の生活指導をよく守り、通院を続けていたが、病状は徐々に悪化していった。
特に薬の副作用がひどくなった。神経の薬が何種類もでているためと思われた。
とりわけジスキネジアという症状は残酷だった。妻は体全体をよじり続けるのだ。
頭、首、胴体、右腕、左腕、右脚、左脚、眼球、唇がてんでんばらばらに動く。
小一時間、一日に2~3回、冬でも汗をにじませ、本人も止めようがないし、介助している私もなすすべがなかった。医師は力づくで止めるのは良くないといった。妻をさすり、がんばれとこえかけしているだけの時間は、つらかった。
亡くなる2週間前から幻覚があらわれた。最初は二人で夕食を食べているときに、妻が誰かいる、ソファで遊んでいると言い出した。ええっと生返事してソファを見ても誰もいないのだ。私が否定しても妻は誰かいると言い続けたが、まもなく消えたのか居なくなったという。それから毎日幻覚が始まった。3度目から、私は否定をやめて肯定することにした。そうだね、いるよねえ、何してるの? と返事すると、妻はソファで飛び跳ねている、3人いる、どこから入ってきたんだろうね?という。ある時は、車いすに絵を描いている、なにか食べさせようか、ベッドで転がり枕で遊んでいる、3人から5人になった。一番上は21歳の女の子、次は中学2年の男の子、小学5年の女の子、5歳の男の子、6か月の赤ちゃんは女の子の子どもで、居酒屋のママだとの事。顔はよくわからんが実家の近所の子らという。アッと驚く幻覚の場面だった。私はてっきり大人に混じって子供がいるものと思っていたら、私の孫くらいの子どもたちだった。⇒ネットで調べると、幻覚に出てくる人は若い人たちが多いとあった。その通りだった。
妻は薬が喉を通らなくなり、緊急入院になった。まだコロナ禍が続いており、付き添い見舞いは週2回、15分だけの時期だった。24時間付き添いたいのに、コロナ禍の理不尽をたっぷり味わった。知恵を絞って別の日に病棟に行き、スマホに妻の姿を撮影をしてもらった。応じてくれた看護師さんには感謝しているが、マスクをした妻の映像にはがっかりした。無言の映像にもがっかりした。
妻とは約200日間、付きっきりの介護をした。午前7時ごろから午前2時頃まで洗面、食事、排せつ、入浴の世話だ。妻の楽しみはスーパーでの買い物、公園の散歩、娯楽はクロスワードパズルとナンクロだった。特にスーパーは私より速足でカートを押して回った。一瞬でも目を離すと、見失ってしまうことが頻繁にあった。商品棚の通路を探し回って見つけたときは安堵した。いつも思いがけない場所にいた。
結婚して50年以上を過ぎたが、これほど濃密な時間を過ごしたことは、新婚時代でも一度もなかった。午前2時を過ぎると私の体力も限界で眠りにつこうとするが、不眠症の妻は何か話してと眠らせてくれない。アラビアンナイトの世界だ。これは亡くなって気が付いたことだが、チャットAIを利用すべきだったと。妻を亡くして、幸せな時間を共有できたことを感謝した。私にとって、2度目のハネムーンだった。
今日も読んでいただき感謝です。
人並みに喪に服していたが、独居老人になって一年をすぎても気持ちの整理がつかず、気力が湧いてこなかった。最近になって、やっとブログを書く元気が戻ってきた。
妻の死因はパーキンソン病だ。病名が見つかって十数年になり、模範患者のように医師の指示に従って療養をしていた。
2か月に一度の通院は、長年私が運転し病院の送迎をしていた。
本当に少しずつ病状は進行していった。すくみ足、下肢の肉離れ、けいれんが起きるようになった。
信頼し十数年かかりつけの勤務医師は定年で交替となったが、引き継いだ医師がひどかった。
カルテを引き継いだ医師は、初診時に妻に触診もしなかった。
診察室に私も入って一部始終を見ていたが、打聴診をしなかった。
神経の病気だから全身のあちこちを叩いて、反射などを確かめてほしかった。
結局、短時間の質疑応答と薬のDO処方で診察が終わった。
次回の診察は、勇気を奮って転医することを申し出て、紹介状を書いてもらった。
転医先の医師は、まず紹介状を読み触診、打聴診を行った。当たり前だがホットした。
妻の訴えをよく聞き、付き添いの私の意見もよく聞いてくれた。一日3回の血圧と脈拍の記録は、この病気の特徴らしく上下の変動はおどろくほど。だがちゃんと目を通してくれた。
医師の生活指導をよく守り、通院を続けていたが、病状は徐々に悪化していった。
特に薬の副作用がひどくなった。神経の薬が何種類もでているためと思われた。
とりわけジスキネジアという症状は残酷だった。妻は体全体をよじり続けるのだ。
頭、首、胴体、右腕、左腕、右脚、左脚、眼球、唇がてんでんばらばらに動く。
小一時間、一日に2~3回、冬でも汗をにじませ、本人も止めようがないし、介助している私もなすすべがなかった。医師は力づくで止めるのは良くないといった。妻をさすり、がんばれとこえかけしているだけの時間は、つらかった。
亡くなる2週間前から幻覚があらわれた。最初は二人で夕食を食べているときに、妻が誰かいる、ソファで遊んでいると言い出した。ええっと生返事してソファを見ても誰もいないのだ。私が否定しても妻は誰かいると言い続けたが、まもなく消えたのか居なくなったという。それから毎日幻覚が始まった。3度目から、私は否定をやめて肯定することにした。そうだね、いるよねえ、何してるの? と返事すると、妻はソファで飛び跳ねている、3人いる、どこから入ってきたんだろうね?という。ある時は、車いすに絵を描いている、なにか食べさせようか、ベッドで転がり枕で遊んでいる、3人から5人になった。一番上は21歳の女の子、次は中学2年の男の子、小学5年の女の子、5歳の男の子、6か月の赤ちゃんは女の子の子どもで、居酒屋のママだとの事。顔はよくわからんが実家の近所の子らという。アッと驚く幻覚の場面だった。私はてっきり大人に混じって子供がいるものと思っていたら、私の孫くらいの子どもたちだった。⇒ネットで調べると、幻覚に出てくる人は若い人たちが多いとあった。その通りだった。
妻は薬が喉を通らなくなり、緊急入院になった。まだコロナ禍が続いており、付き添い見舞いは週2回、15分だけの時期だった。24時間付き添いたいのに、コロナ禍の理不尽をたっぷり味わった。知恵を絞って別の日に病棟に行き、スマホに妻の姿を撮影をしてもらった。応じてくれた看護師さんには感謝しているが、マスクをした妻の映像にはがっかりした。無言の映像にもがっかりした。
妻とは約200日間、付きっきりの介護をした。午前7時ごろから午前2時頃まで洗面、食事、排せつ、入浴の世話だ。妻の楽しみはスーパーでの買い物、公園の散歩、娯楽はクロスワードパズルとナンクロだった。特にスーパーは私より速足でカートを押して回った。一瞬でも目を離すと、見失ってしまうことが頻繁にあった。商品棚の通路を探し回って見つけたときは安堵した。いつも思いがけない場所にいた。
結婚して50年以上を過ぎたが、これほど濃密な時間を過ごしたことは、新婚時代でも一度もなかった。午前2時を過ぎると私の体力も限界で眠りにつこうとするが、不眠症の妻は何か話してと眠らせてくれない。アラビアンナイトの世界だ。これは亡くなって気が付いたことだが、チャットAIを利用すべきだったと。妻を亡くして、幸せな時間を共有できたことを感謝した。私にとって、2度目のハネムーンだった。
今日も読んでいただき感謝です。