〈信仰くねくね〉 「聖書を読もうかな」という時4
初めて聖書を買ったときから実に九年ほど経って、わたしは聖書を読む気になった。
職場で大きな事故にあい、あと数センチのところで命拾いをした。けれど、全身の打撲、特に首と腰の打撲がひどく、痛むことが日々の暮らしであるという状態になっていた。治療の効果はあんまりなく、体も心も頼るものを失った。人生そのものに暗幕がおりてこようとしているのを感じないではいられなくなった。追い詰められて、残った「魂」が「助けて!」という声をあげたのだった。「生きたい、鬱々とでなくいきいきと」。「救ってください、痛みから解放されるだけでなく、この苦しい人生を生き抜いていく意味を教えてください」と。
職場で大きな事故にあい、あと数センチのところで命拾いをした。けれど、全身の打撲、特に首と腰の打撲がひどく、痛むことが日々の暮らしであるという状態になっていた。治療の効果はあんまりなく、体も心も頼るものを失った。人生そのものに暗幕がおりてこようとしているのを感じないではいられなくなった。追い詰められて、残った「魂」が「助けて!」という声をあげたのだった。「生きたい、鬱々とでなくいきいきと」。「救ってください、痛みから解放されるだけでなく、この苦しい人生を生き抜いていく意味を教えてください」と。
わたしは文語訳の分厚い聖書を買った。旧約聖書と新約聖書が一冊に収まっていた。現代語で書かれた聖書でなく、短いセンテンスでキビキビ書かれた文語訳が、前かがみになりがちなわたしの背筋を伸ばしてくれるような気がしたのだと思う。
もうこれしかない、というせっぱつまった気持ちだった。何を求めているのか、救いとは何なのかハッキリと分かっているわけではなかったのだが、この聖書に何かしらの「答え」があると思ったのだ。
毎日毎日、大げさにいえば一日中聖書を読んだ。すっと理解できるところもあれば、ほとんど分からない箇所もあったが、聖書を読み進めることが暮らしとなったのである。
★わが影を 肩車して 青き踏む
★いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。