◆この文章は、2021年の年末、5回に分けて書いたものをまとめたものです。今回ひとつにまとめるにあたり、少し手を加えました。
イエス・キリストの地上の「父」ヨセフには信ずることがあり、守るべきものがありました。神と家族、です。地味だけれど鋼(はがね)のつよさを感じる人、それがヨセフだと思います。
この連作を始めたころ、ロシアのウクライナ侵略は起こっていませんでした。けれど、ミャンマーの軍事クーデターはすでに勃発(ぼっぱつ)していました。アフガニスタン、香港、ウイグル自治区などなど、心のいたむ争い・暴虐は、それより前からあらわになっていました。
いま、聖書の登場人物である「ヨセフ」にふたたび目を向けるのはなぜか。―それは、「家族」という小さな「世界」に目を注ぎ、それを愛し、守ることの困難さ・尊さ・喜びをもう一度確かめたいと思ったからです。そして、侵略・暴虐・戦争がどれほどむごたらしいことか、どれほど大事な家族を・個人を・いのちそのものを、自由や平和とともに奪い取ってしまうものかを、わたしなりに言葉にしようと思ったからです。
その時々に読んでくださった方々に感謝するとともに、あらためてご一読していただければうれしいです。
私の聖書物語
イエスの「父」・ヨセフ
序 聖書の導き
2021年のクリスマスが近い。この頃になると、毎年、新約聖書の「マタイの福音書(ふくいんしょ)」の記事を読み返す。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。
母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。」(1章18節~20節)
ヨセフは眠りから覚めると、主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。(1章24節~25節)
このときのヨセフの気持ちはどのようなものであったか。
妻のマリアは、聖母マリアとして信仰の対象となっている。けれど、「父」ヨセフは、聖書の中に埋もれているようだ。ほとんど記事がないのである。
だから、というのでもないが、わたしはイエス・キリストを「子」として育てたヨセフに何かしら惹(ひ)かれる。
ヨセフは、葛藤しながらも、神の言葉に従った。妻マリアを守り、子イエスを守り、自分の役目を果たしきったのである。その姿は潔(いさぎよ)いものと私には映る。ひとびとの非難・圧力を受けながら、さらには為政者から命さえねわれながら、信ずべきものを信じ、愛すべきものを愛し、守るべきものを守りとおした生涯、それをひっそりと、けれど熱く・たくましく生きた人、それがヨセフだと思うからである。
バイブルの預言ヨセフのクリスマス
ばいぶるの よげんよせふの くりすます
聖赤子ちちはヨセフといふ大工
せいあかご ちちはよせふと いうだいく
これから少し、イエス・キリストの「地上の父」ヨセフをめぐって考えていきたい。
Ⅰ 「父」ヨセフ
夢をみた
たびたびみた
意味は解(わか)らなかった
けれどそのつど その夢にしたがった
従って
いのちを懸けて
妻と子ふたりを守った
守り抜いた
大工ヨセフ
妻マリアの夫
子イエスの育ての父
新約聖書「マタイの福音書(ふくいんしょ)」には、次のような記事もある。
主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた。(2章13節~15節)
家族を守るとはどういうことか、親とはー父親とは何か、ということを、この記事は考えさせる。「父」ヨセフの雄々しい行動をとおして。
ヨセフとマリアの子は赤ん坊である。その子の身が危ういと告げられたのだ。なぜそのような目にあうのか解(わか)らずとも、ためらうことなくヨセフは行動した。まさに命がけで。
ウクライナやミャンマーなどから避難するひとびとの姿が重なる。
省みて、わたしは子どものために命がけで行動したようなことがあったか。
離婚家庭で育ったわたしは、「父」というモデルを知らない。そんなわたしは、しっちゃかめっちゃかの父親であったと思う。子を守ろうという意識はあったが、空回りすることが多かった。父に愛されたという体験に乏しく、後から得た父親像の知識も貧しく、ヨセフのように果断に富んだ父親ではなかった。溺愛(できあい)もせず、突き放しもせず、どっしりと構えもできず、結構オロオロしていた。迷える未熟な父親であった。
赤子と幼い妻(マリアは十代前半だったと言われている)とを連れて、異国への逃避行をした「父」ヨセフ。肩に背負ったものの重さを想像せずにはいられない。
Ⅱ 義父ヨセフ
1
ヨセフは逃げた
荒れ狂う嵐から
どこが安全かを神に尋ねた
ヨセフは守った
妻と児を
妻と児の命は
ヨセフのいのちだった
義父ヨセフ
家族から逃げなかった男
2
ヨセフはひっそりと死んだ
知る人のない所に埋められた
ヨセフは働いた
働いて働いて運命に耐えた
─長男イエス
「お前」と呼んだか 「主」と呼んだのか
児を産んだ
人間の子どもを
たくさんたくさん産んだ
義父ヨセフ
旧約*の重い鎖につながれながらも
ダビデの血統を生き切った
*旧約……旧約聖書。新約聖書のイエス・キリストを預言している。
3
ヨセフは或る日気づいたのだ
―自分は我が子を守っている
そう思っていた
けれど
じつは我が子が
我が子こそが
自分を守ってくれているのだ と
神の子イエス
ヨセフをいつくしみ
その烈(はげ)しい生涯を
夢の産着(うぶぎ)にくるんで護(まも)った
Ⅲ 天と地
1 聖夜
クリスマスのよる
天国はかなしみにくれる
天使たちもうたわない
今夜神が天からいなくなるのだ
暗黒の地球
こわれた祭壇
真っ赤な火 暴虐(ぼうぎゃく)
泣き叫び
そして 沈黙
いま丸裸にされ
生きたままささげられる
御子(みこ)イエス
2 領主ヘロデの朝
にくしみが時を告げる
おびえが今日をめざめさせる
夜のあいだに溜(た)まった肺のくろい血
おのれの欲にまかせて呪(のろ)う口に
へばりつく毒虫
神の掌にのっているのに ついに
神の指紋がみえなかった
ユダヤの領主ヘロデ*
神の子イエスを敵に回した男
*ヘロデ…… 新約聖書の「マタイの福音書」に、次のような記事がある。
ヘロデは、…… 人を遣わし、…… ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男
の子をみな殺させた。 (2章16節)
イエス・キリストが、自分の地上の権力を脅かすと思いこんだヘロデ。 目先の欲望にとりつかれ、悪の限りを尽くした。その犯した罪が、汚名(おめい)が、永遠に聖書に刻まれてしまった。
Ⅳ 「同志」ヨセフとマリア
父のかなしみがヨセフにあった
ヨセフのかなしみは妻に秘められた
母のかなしみがマリアにあった
マリアのかなしみは夫に秘められた
子イエスの生を引き受けること
それを父ヨセフに
子イエスの死を見とどけること
それを母マリアに
―神がお命じになった
ふたりはだまって従った
従いとおした
そして 秘めたままに支え合った
ふたりのまんなかに
神は
いつもおられた
ヨセフとマリア
ヨセフのことを思う。父と子、という関わり方をめぐって。
ヨセフのことを思う。夫と妻、という関わり方にからめて。
そのどちらにおいても、ヨセフはしっかりなさったなという気持ちになる。畏敬(いけい)の念がわく。
ヨセフは早死にだったと言われている。「子」であるイエス・キリストが宣教を始められたのは三十歳のころ。新約聖書のその時期の記事に、ヨセフはもう登場しない。亡くなったのは、もっと前かもしれない。
濃い人生、というのが、ヨセフの生涯について思うわたしの素直な思いである。
ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた(新約聖書「マタイの福音書(ふくいんしょ)1章24節」)
神の命じるまま、聖霊によって身ごもったマリアを妻として迎え入れたのだ。
*
一方、母マリアのことも思う。神に選ばれた少女、といういいかたで良いだろうか。十代の前半であったといわれるマリアである。
西暦はイエス・キリストのご誕生から数えられるが、生みの母マリアにかかった重圧はいかほどであったろうか。「西暦」をその手に抱いた女性にである。
しかしマリアは、ためらわずに従った。凛々(りり)しい姿を天使に示したのである。
マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」 (新約聖書「ルカの福音書」1章38節)
*
ヨセフとマリア。たいへんな困難を共にした夫婦である。
わたしたち夫婦にも、五年間で三人の家族を介護し、看取(みと)った経験がある。子どもたちはまだ幼かった。介護と子育てと労働。来る日も来る日も緊張だった。ちょっと大げさにいえば、緊張が日常だった。
わたしは、夜、服のまま床につくこともあった。いつ病院から電話が入るかと身構えていた。
妻は、それに加えて、幼い子どもたちの世話をしながらの介護だった。わたしは昼間は職場に逃れられたが、妻はどこにも逃げられなかった。そして逃げなかった。
病院からの帰り道、わたしは、心の中で「おれたちは夫婦というより同志だなあ」と、しみじみ思ったことが幾度かあった。
ヨセフとマリア、まさに「同志の夫婦」であったと、そう思うのである。
●ご訪問ありがとうございます。
2021年の年末、新約聖書に登場するヨセフという人物について思い巡らしました。ヨセフは「聖母マリア」の夫です。地上で、イエス・キリストの「父親」となったひとです。
ヨセフの記事は聖書の中に多くありません。地味な登場人物です。けれど、このヨセフがいなかったら、イエス・キリスト(イエスは人名、キリストは救世主、の意味です)のご誕生はなかったのです。
思いめぐらしていくうちに、このヨセフも、神の光のなかを歩んでいた一人ではなかったろうかと気づきました。苦労の多い、それこそ不思議な一生を送った人だと思いますが、それでもこうして私にもその存在は深く伝えられています。神に祝福されたひとだったにちがいない、そんなふうに思います。
私たちはクリスマスに、地上で神のご降誕を迎えます。 神が人となって地上に来られるのが「降誕」です。 そのとき天上ではどうなのでしょうか。 御子を地に遣わすという、神の愛の深さ・決断の強さを思わないではいられません。エゴのかたまりとなって滅びたヘロデ王と対象的です。
その神は「平和」そのものです。「愛」そのものです。憎しみも怒りも、争いも、差別も、みな神から遠くにあることです。
平和を! 早く!