最期はひとりで②
1
伴(とも)にとか寄り添うとかも岸辺まで
双児にも後先がある死ぬときも
番が来てぼくもあなたも靴を脱ぐ
初めての柩のなかで独りぼち
まあだだよ! これで通じる年賀状
2
母と義母を目の前で看取った。そのとき、「死」の圧倒的な力を思い知らされた。
一時間前、いや十分前、いやつい一分前のことだ。そういっても大げさと思えない。そこに生身の母がいた。そこに息する義母がいた。苦しそうだが、確かにいのちが鼓動していたのだ。
その後とつぜん、「死」が母と義母とに襲いかかった。何がいったい起こったのか分からない。アレアレアレと思ううちに、「死」が「生」をさらってしまう。いのちがストンと落ちてしまったのだ。何も為す術のないわたしの目の前で。とつぜん下りてきた遮断機(しゃだんき)。「あんまりな!」と心で叫びながら受け止めざるを得ない。
わたしには越えられない境界がある。その境界を、母も義母も越えて行ってしまった。
死ぬときはひとり、という実感は、ずっと前に味わっていた。二十歳のとき、自らいのちを断とうと思ったときである。
母の死も、義母の死も、唯(ただ)ひとりの死だった。こんなにも近くにいるのに、すぐそばに生きている者がいるのに。「死なないで!」と必死に願っているのに。
ひとりでこの世に生まれ、しばらくの間人々のなかで生き、そして時が来たとき、ひとりでこの世を去っていく。
看取る者に、哀しいとか、さみしいとか、つらいとか―そういう臓腑が痛む烈しい感情が噴き出てくるのは、もう少し後からではないか。
「死はとつぜんにやってくる」 「最期はひとり」というこの事実を、日常の騒がしさ、あわただしさから一歩下がり二歩下がりして、厳粛な思いで受け止めたい。「生きることは結局は虚しいことだ」などという根の浅い無常観にひたることなく、命に、生きることに、真剣に向き合うそのために。
★たんぽぽの 何とかなるさ 飛んでれば
★いつも読んでくださり、ほんとうに有難うございます。