墓参りにいった。
卒業式もある。
その合間に家をつつきたいのに
今日は、雨。
ところで、馬屋と書いて「まや」と読む。
かつては駅屋とか厩などと書いていた。
『日本後紀』(840年)や『延喜式』(927年)に
そのような記述があるらしい。
以前から気になっていた。
今日は、おとなしく本でも読もう。
宇垣匡雅著『両宮山古墳―二重濠をもつ吉備の首長墓』には、次のように書いてある。
「奈良時代には両宮山古墳の西側に備前国分寺、その南側に備前国分尼寺の造営がなされる。また、両宮山古墳の西1.1キロには『古代山陽道高月駅屋推定地』が所在する。」
それが今、「馬屋」と呼ばれている地区だ。
この地図の左下に「高月駅家跡」と記されている、
まさにそこに、わが古民家2CVはある。
(2CVは「2頭立て馬車」を意味するフランス語 Deux Chevaux。
シトロエン2CVはそこからきている。
この家を「2CV」と呼ぶ理由は後日詳述する)
厩跡の看板は馬屋バス停の近くに建てられているが、
この地図に拠れば、
ワシの家が、駅屋跡に立っとるんじゃ!
じゃが、その発掘調査は、しゃんとやられとりゃせん。
山陽自動車道建設時に「馬屋遺跡の発掘調査がなされ、集落および墓が検出されている」とあるにしても、
現存している家屋の下まで調査されていないので、
駅屋の全貌は「推定」の段階にとどまっとるんじゃ。
古代山陽道は「現在の県道とほぼ重複する位置」にあった。
そこには「公用の伝馬連絡や国司の赴任などのため、二〇頭の馬を擁する駅が約七~一〇㌔の距離で設置された。備前国には東から阪長、藤野、高月、津高の四駅が設置されていたことが『延喜式』に記されている。備前国の東から三つ目の駅、高月駅が両宮山古墳の西側馬屋地区に比定される。駅家の実体については長らく不明であった」が、「瓦葺粉壁(かわらぶきしらかべ)」と史書にある。「一辺八〇㍍前後の規模」だったらしい。
なお、岸本道昭著『山陽道駅家跡―西日本の古代社会を支えた道と駅』に、
「山陽道は令の規定で唯一の大路」で、駅屋は朝鮮からの外交使節や大宰府に行き来する高官が宿泊する「瓦葺きの豪壮華麗な施設」で「単に馬の乗り継ぎ駅という素朴なものではなく、厳重な防衛や迎賓機能を備えた」ものだったとある。
はようはっきりさせにゃいけんが。
播磨国の「布勢駅家」に負けんように。
といっても、
家を崩されちゃたまらんけぇ~、
「推定」で我慢、我慢・・・。
最新の画像もっと見る
最近の「日記」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事