黒幕は英商人のトーマス・グラバー氏か
「 薩長同盟提案書 」は、もうしばし待たれよ。(^O^;)
今回のパクリ企画、「 薩長同盟提案書 」をオフィスソフトで
作成する上でググって調べていくと、ここの部分とは関係ないが
今だに謎とされる「 坂本龍馬暗殺事件 」の刺客が誰なのか
分かって居ないという「 闇 」が浮かび上がってきた。
坂本龍馬 氏( 享年33 )が、暗殺されてしまった
「 近江屋( おうみや )事件 」は、その名の通り幕末の
慶応3年11月15日( 1867年12月10日で奇しくも
龍馬氏の誕生日 )の夜9時頃に京都河原町の醤油商、
近江屋の2階で火鉢を囲んでいた同じ土佐藩士である
中岡慎太郎氏( 享年30 )と共に何者かに拠って殺された。
龍馬氏は、刺客の急襲によって額、背中、再び額と
3個所を斬られて、ほぼ即死状態だったという。
暗殺の実行犯は4人の刺客が襲ったか
色々ググって調べていく中で、この情報が一番
「 確度 」が高そうだと感じたのでシェア。↓
( 以下、国立国会図書館「 月報596号 」から引用 )↓
“ 現在となっては実行グループの特定は困難だが、
近江屋の2階に上がった直接の実行犯が、
佐々木只三郎( ささきたださぶろう )
今井信郎( いまいのぶお )
渡辺篤( わたなべあつし )
世良敏郎( せらとしろう、世良家の相続前は「 小林甚七重幸 」
の4人で有ったとする事に問題は無い。”
( 引用ココまで )↑
引用元URLリンク ⇒ http://bit.ly/2hk3WKq
ブラウザでも閲覧O.KのPDF( ダウンロードも可 )P26~P36まで。
後に、他の実行犯仲間が捕らわれる事を危惧してなのか
自身の売名の為なのか定かではないにせよ今井氏が2度に渡って、
「 嘘の供述 」を繰り返した事とは異なり、渡辺氏には
もともと公表するつもりの無かった「 渡辺家履歴書 」に
「 真犯人以外には知る由の無い真実の暴露 」を書いているのだ。
瀕死の重傷を負った中岡慎太郎氏は、2日後に
息を引き取ったが事件当時、襲われた時に「 こなくそ! 」
( もしくは「 こげなくそ! 」 )と言う刺客の声を聞いている。
ちなみに「 こなくそ! 」は愛媛の方言で「 コンチクショウ! 」で
「 こげなくそ! 」は薩摩弁で「 このやろう! 」を意味する。
1階にいて刺客とは知らずに客の取次をした用心棒で
元十両力士の「 山田藤吉 」( 雲井龍 )氏( 享年19 )も斬られ
1日後に死亡している。
この暗殺が実行される前に龍馬氏から
「 軍鶏( シャモ )を買うて来てくれぬか 」
と、お使いを頼まれて外出していた
土佐藩御用達の書店「 菊屋 」( 中京区 )の長男、
「 鹿野峰吉 」氏( かのみねきち、16 )は無事だった。
ちなみにこの龍馬氏や慎太郎氏に「 峯やん♪ 」と呼ばれ
可愛がられていた用使いの峰吉氏は
明治10年(1877年)の西南戦争で
熊本鎮台司令長官( 元土佐藩士 )谷干城( たにちかげ )氏
の采配で会計方軍夫として従軍している。
ちなみに峰吉氏の、お墓は今も京都市
左京区田中門前町の「 了蓮寺 」( 知恩寺境内 )
に有る。( 1918年没 )
京都見廻組の今井信郎氏の供述は的外れ?
事件後の1870年( 明治3年 )に、ある事件で捉えられた
見回り組の今井信郎氏が供述し、さらにその後の
明治42年( 1909年2月3日 )の大阪時事新報でも
「 拙者が坂本を斬った 」と告白しているが、これは直後に
当時現場に駆けつけた土佐藩士の中の1人、谷干城氏に拠って
「 現場の状況や受傷の状態が供述と違いすぎる 」として、
矛盾点を挙げた上で、こちらも言下に否定された。
ただし今井氏は実行犯の中の1人では有るようだ。
今井氏の供述では近江屋の2階に上がった4人の実行犯の他に
1階では見張り役の「 桜井大三郎 」氏と「 土肥仲蔵 」氏の
2人が担当したと言うが、これも定かではない。
ちなみに、1回目の供述後は薩長同盟の盟友でも有った
西郷隆盛氏の計らいに拠って釈放された、と言うのだ。
それでは、今井信郎氏は己の功名心や自己顕示欲の為と、
仲間をかばう為だけにデタラメを言い続けたのであろうか?
ここで、ぜひともあなたに共有させて頂きたい投稿記事を、
ご紹介させて頂く。( 同じgooブログであるが故に、
今回はトラックバックも併用する。 )↓
( 以下、gooブログから引用 )↓
“今井信郎は生涯、外部の人に対しては本当の事を話していない
( 中略 )生涯一度真実に近いことを身内に語っている
( 中略 )この手紙で今井省三は龍馬殺害を命じたのは
「 大目付・永井尚志 」玄蕃頭で有る事を明確に述べている”
( 引用ココまで )↑
あまり長い文章をコピペすると、< blockquote >タグで括っても
「 重複コンテンツ扱い 」になってGoogleから
「 ペナルティ 」を受ける恐れが有るので、本当に重要な部分のみを
引用させて頂いた。
元記事はコチラから ⇒ http://bit.ly/2g680jV
龍馬氏は江戸幕府のNo.2の若年寄格でもある
「 永井尚志 」玄蕃頭のもとへ11日と14日に訪れている事が
「 龍馬書簡 」と「 丁卯日記 」に綴られている。
この他にも「 肥後藩国事史料 」には
「 坂本を害し候茂『 薩( 摩 )人 』
なるへ( べ )く候事 」と書かれているし、イギリス人通訳の
「 アーネスト・サトウ 」氏は薩摩藩の「 吉井幸輔 」氏から
「 3人の名も無き男から殺された。 」と聞かされている。
この他にもYouTube にアップされているTV番組
( カトパンが司会 )録画からのアップロード
( ↑のリンクした記事にも書かれていたが )
コンテンツも拝見させて頂いたが、事件現場には
新撰組が出入りしている料亭の下駄と、そこの隊士の
「 原田左之助 」氏の刀の鞘が残されていた証言からも
新撰組が疑われ、事件後に局長の「 近藤勇 」氏が
幕府から取り調べを受けて居るが、いずれも不明である。
だが、秘密の暴露を行った暗殺実行犯の内の1人、
剣豪渡辺篤氏の回顧録、「 渡辺家履歴書 」には
「 刀のサヤを取り忘れて帰ってしまったのは
世良敏郎( 小林甚七重幸 )といふひと 」と書かれてあるのだ!
しかし....「 薩長同盟 」を成立させた立役者の
坂本龍馬氏が、後から薩摩藩に刺客を放たれるって、
世知辛い関西地方だなぁ、と思う。
太平の世なのは江戸の街だけだったのか。
薩摩藩が京都見廻組に接触していた
今度はNHKのTV番組録画からのアップロードコンテンツである。
一般的に坂本龍馬氏を殺害せしめるは幕府御用達の
「 京都見廻組 」が真犯人だとの説が有力だが、その中でも
与頭( くみがしら )を務める佐々木只三郎氏に目を付けて
接近したのが「 薩摩藩 」であった。
和歌の名手でも有った佐々木氏に接触を試みたのが
薩摩藩士で和歌の達人と言われた「 高崎正風 」氏。
高崎氏は佐々木氏の故郷である会津の詩会に忍び込んで
佐々木氏との接触を図る一方で、見廻組きっての剣の達人
「 渡辺 篤 」氏には武道に秀でた薩摩藩士、
「 海江田 信義 」氏が接近。
渡辺氏が京都に作った道場に海江田氏が来て、
そこで「 三本勝負 」をするなどして近づいている。
実はこの2人こそが、暗殺実行犯の中で
最も重要な面々だと言われているが、薩摩藩は
この2人との密かな繋がりを、ここで持ったのである。
さらに薩摩藩は龍馬氏が潜伏している場所、時間帯などは
全て把握しており、この情報を
京都見廻組に提供していたのだった。
そして翌年、慶応4年( 明治元年 )の1月に起きた
「 鳥羽・伏見の戦い 」で京都見回り組は
先に挙げた今井信郎氏と渡辺篤氏以外は
全員戦死しているか行方不明にと言うのが定説に。
だが、これも事実は違う。
実は実行犯の中でもう1人、鳥羽伏見の戦いを
生き残っている人間がいた。
それが「 小林甚七重幸 」こと「 世良敏郎 」氏である。
( 詳細は↑のリンクから )
その後大正4年( 1915年 )8月5日の大阪朝日新聞には
死の直前の渡辺氏が坂本龍馬暗殺を告白した記事が
掲載されたが、これも今井信郎氏と同様に現場での状況や
暗殺に関わった人数構成の違いなどから、こちらは
元土佐藩士の谷干城氏に否定されている。
この他にも「 池田屋遭難事件 」で幕府の捕り方2人を射殺した
事への幕府報復説や土佐藩説、薩摩藩説、長州藩説、紀州藩説
など数え上げたらキリがないが真犯人は今だに分かっていない。
ちなみに、これがもし薩摩藩の陰謀だとするならば、
その理由はただ2つ、
「 武力を以って倒幕したい薩摩藩の方針にそぐわないから 」
というのがまず1点、そしてもう1つは
「 新政府の内大臣( 今で言う総理大臣 )に、
徳川慶喜公を推挙していたから 」
と推論する他無い。
この事はまた後日、記事にしたためる予定でいる。
そんな中、個人的には龍馬氏が興した日本初の株式会社と言われる
「 亀山社中( 海援隊、長崎県長崎市 )」とも密な取引の有った
グラバー商会の商人でイギリス人の
「 トーマス・ブレーク・グラバー( Thomas Blake Glover ) 」氏
( 満73歳没 )が本当の黒幕だと思うのだ、が.....
土佐の「 いごっそう 」龍馬氏を狙ったワケとは
「 トーマス・グラバー 」氏は日本在住の英商人で
日本で初めて蒸気機関車を試走させ、長崎に西洋式ドックを造るなど
幕末日本の近代化に大きく寄与した
スコットランド出身の武器商人である。
ここで、私めが今鋭意製作中の「 薩長同盟提案書 」とも
大きく関わって来るところなのだが、龍馬氏は
この2つの大藩を結びつける上で、実は大きな後ろ盾が
有ったのでは無いか?と言われている。
それが前述させて頂いた、イギリス武器商人の
トーマス・グラバー氏の存在である。
事実、薩長同盟締結の前年の8月に亀山社中は
グラバー商会からミニエー銃4300丁とゲベール銃3000丁を
9万2千4百両で買い付け、薩摩藩城代家老「 小松帯刀 」氏
( こまつ たてわき。私めの先祖では無いwww )によって
下関から入港し、長州藩の手に渡ったのである。
また同様の手口で蒸気軍艦「 ユニオン号 」を
3万7千7百両で長州藩が購入している。
長州藩の武器購入額は169億円、亀山社中も46億円もの
ビッグ・ビジネスと、なったのである。
ちなみに、この取引きでは長州藩から薩摩藩へ
500俵もの米俵( 兵糧米 )が用意され、
お互いの不足を補う形で薩長同盟の「 いしづえ 」を
作ったとされる。
( 兵糧米は結局、薩摩藩は謝辞という形で受け取らず
亀山社中が受け取った格好。 )
さて、孤立無援の長州藩は何故ここまでの
武器や軍船を購入できるほどの財力が有ったのだろうか。
時は遡って、長州藩の七代目藩主、
「 毛利重就 」氏が採った資産運用「 撫育方 」と言うシステムを
宝暦13年( 1763年 )に興し、幕末には何百万両と言われる
他藩を圧倒する隠し財産を持っていたと言う。
それでは、なぜ「 トーマス・グラバー 」氏が、
ビジネス・パートナーである龍馬氏の命を狙ったのか?
ココからは、完全な私め個人の推測であるが、ズバリ!
「 大政奉還 」に繋げた龍馬氏の「 和平的な行動 」が、
グラバー氏の、お気に召さなかったのでは無かろうか?
無論、「 大政奉還 」は龍馬氏個人の働きだけで
実現できたものでは無いが、「 船中八策 」などの
龍馬氏の発案を元にして( と言われている )土佐藩の家老、
「 後藤象二郎 」氏が「 自分の案 」とした上で土佐藩主の
「 山内容堂 」氏に進言した。
容堂氏の同意を得た後藤氏が容堂氏らと共に連著した上で
10月3日に二条城に行き、その時の老中、
「 板倉勝静 」氏に「 大政奉還建白書 」を提出し
江戸幕府15代将軍の、「 徳川慶喜 」氏に進言した。
慶応3年の10月14日( 1867年11月9日 )慶喜氏は朝廷に
政権を返還し翌日に勅許、無事に「 大政奉還 」と、あいなった。
土佐藩を再脱藩した「 浪士 」と言う身で有ったが、
慶応3年( 1867年 )2月に盟友、中岡慎太郎氏と共に
龍馬氏は脱藩罪を赦免され、許されている。
龍馬氏は土佐藩士の家老、後藤象二郎氏に対して、
「 大政奉還の建白が拒否された場合、貴殿は切腹の御覚悟でしょうから
その時は、徳川慶喜公を路上で待ち受け仇を討ちましょう! 」
と言う内容の手紙を、したためている。
しかし、こうなると、「 内戦での武力衝突が無くなってしまう 」
すなわち、「 武器が売れなくなってしまう 」と考えたグラバーは
邪魔な存在の龍馬氏を始末しようと画策したのでは無かろうか?
なにせ、グラバー氏は江戸幕府側にも、火薬700トンなどの武器を
売りさばいていたのだから、売れて儲かれば何でも良いと言う
感じなのだろうか。
だけどなぁ......今じゃ司馬遼太郎氏の小説「 龍馬がゆく 」で
英雄に、なっている坂本龍馬氏だが、あそこまで東西奔走して
頑張ったのに、その見返りが「 暗殺 」で33歳の若さで殺される
結末って、かなり悲しい感じもするよなぁwwwww (;・∀・)
今日は以上だーっすぅ。^^
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