文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

追憶の「青梅赤塚不二夫会館」 記念館を失った漫画家の末路とは!?

2023-04-28 00:49:11 | 論考

「青梅赤塚不二夫会館」が閉館し、今年で3年目を迎える。

「青梅赤塚不二夫会館」は、明治後期、東京都青梅市住江町に建築された土蔵造りによる二階建ての診療所をリノベーションし、オープンした赤塚不二夫ミュージアムである。

漫画家になる以前、赤塚は新潟の小熊塗装店に就職し、 見習いの域を脱した頃は、元来画を描く素養も高かったせいもあり、チャップリンの「ライムライト」をはじめとする映画看板を手掛けるようになっていた。

そんな赤塚が、映画看板による街興しに奮闘する青梅商工会の姿をたまたまテレビを通して知ったことにより関心を抱き、赤塚作品を文化遺産として後世に遺したいという二番目の妻、眞知子の切なる願いと、やはり映画看板も含め、昭和レトロによる地域復興を視野に入れていた青梅商工会の思惑が合致。話がトントン拍子で進む中、2003年10月18日、赤塚不二夫会館はオープンする。

因みに、青梅市と赤塚との結び付きは一切なく、強いて挙げるなら、赤塚が友人らと奥多摩で渓流釣りを満喫した折、宿の主人の願いを快諾し、描いて差し上げたバカボンのパパのイラスト入りのサイン色紙(1975年6月8日付け)が展示物の一つとして館内に飾られているくらいである。



オープン直前より赤塚不二夫会館は、メディアでも頻繁に取り上げられ、日に日に来客も増加。時待たずして青梅の観光スポットとなり、広く世間一般による耳目を集めるに至ったことは言うまでもない。

2008年8月2日、赤塚が逝去した際には、臨時の記帳台が設置され、八百人もの人が記帳に訪れており、取り分け、赤塚が亡くなったこの年は過去最多の三一〇〇〇人が来館したことも大きなニュースとなった。

また、青梅市は、市政60周年となる2011年、赤塚不二夫会館が青梅を象徴するミュージアムとなった関係から、ニャロメとイヤミのイラストをあしらった原動機付き自転車のナンバープレートを新規、交付済み問わず、無料で配布、交換したことでも話題を集めた。
 
このように、設立から閉館まで、青梅市と持ちつ持たれつの間柄だった赤塚不二夫会館とは、一体どんな記念館であったのか?
 
ここで改めて具体的な詳細に触れてみたいと思う。
 
館内一階では、赤塚の愛猫であった菊千代のフィギュアを祀った「バカ田神社」が建立されていたり、イヤミやめん玉つながりといった赤塚の人気キャラのブロンズ像がオブジェとして設置されていたりと、赤塚らしい遊び心に満ちたディスプレイが施されている。

階段を昇った二階館内には、赤塚が青春時代を過ごしたトキワ荘の一室も再現。そして、メインとなる展示コーナーでは、デビュー前の習作は勿論、赤塚が漫画家デビューした1950年代から晩年となる90年代に至るまでに描かれた美麗なカラー原画を含む百点余りが所狭しと陳列されており、その他にもトキワ荘メンバーやタモリといった漫画家仲間や有名人との交流を貴重なプライベート写真を交えて紹介するコーナーも充実の一言だ。

このような作家的偉業やその人物像にまで目配せをした展示は、ファンならずとも、時を忘れて見入ってしまうこと請け合いである。

また、二階展示室には、かつて赤塚が愛用していた巨大な机がドーンと鎮座しており、机上のパソコンからは、『赤塚不二夫漫画大全集    DVDーROM』やフジオ・プロのホームページを覗くことが出来、この会館に一日中いれば、それこそ、生い立ちも含んだ赤塚不二夫に関するほぼ全ての歴史を把握出来るというナイスな空間がコーディネートされている。

赤塚不二夫資料室では、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」等、これまで表紙に赤塚キャラや赤塚本人をフィーチャーした数多の雑誌や、今となっては入手困難な貴重なコミックス、フィギュアをはじめとする数々キャラクターグッズをガラスケース越しに堪能することが出来る。

この資料室での展示物で特記すべきは、1995年9月13日にホテル・センチュリーハイアットで開催された「赤塚不二夫先生の漫画家生活40周年と還暦を祝う会」で、翌日の誕生日に還暦を控えた赤塚が身に纏っていた、赤いチャンチャンコならぬ赤いチャップリン・スーツに大きな靴、山高シャポー、ステッキに至るまで飾られていた点だ。

余談だが、この時、パーティーに参列した落語家の立川談志は、この時の赤塚のスーツ姿を次のように振り返っている。

「タモリや青島(名和註・幸男)前知事もスピーチに駆けつけてくれた還暦のパーティーの時に彼は白塗り(原文ママ)のチャーリー・チャップリンの姿をして、現れましたよね。その事自体は別に面白くもなんともなかったんだけど、あの姿の中に赤塚さんの悲しみや憂い、ギャグがあったんだ、もっと 見てやらなきゃいけなかったんだ、という反省が私の中に今もありますね。」(『赤塚さんは「味の素」』/おそ松くん』第22巻・竹書房文庫、05年)

筆者もまた、当時テレビのワイドショー番組を通し、真っ赤なチャップリン・スーツを纏った赤塚が軽快にステップを踏む姿を視聴した際、談志と同様の感想を抱いていたこともあり、実物を目の当たりにした時など、感慨多端の想いに耽っていた。

他にも、還暦記念に親交の深い漫画家やタレントなどが寄せ書きをした襖絵なども瞠目に値するアイテムと言えるだろう。

順路の最後には、赤塚堂本舗なるお土産コーナーがあり、ここでしか手に入らない赤塚キャラをプリントした煎餅や青梅の特産品、Tシャツ、ポストカード、現行発売中の赤塚関連書籍などが販売されていた。

手前味噌で恐縮だが、以前、私が社会評論社より上梓した『赤塚不二夫大先生を読む』『赤塚不二夫というメディア    破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説』の二冊も委託で置いて下さっており、来館の際、学芸員の方に伺ったところ、何人かの来館客の方が、赤塚作品とその人となりへの理解を深めるべく、お買い求め下さったとのことだった。

拙著をお買い上げ下さった皆様方には、この場にて改めて御礼申し上げたい。

青梅赤塚不二夫会館は、「宝塚市手塚治虫記念館」や「川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム」とは異なり、規模としては幾分小さな美術館であるものの、こじんまりとしたアットホームな空気感は、奇しくも赤塚の人柄を偲ばせるかのような安らぎがあり、個人的には不平不満を訴えたくなるレベルのものではなかった。

中には、長谷邦夫が代筆した原稿や書籍まで資料として展示してあったり、赤塚グッズコーナーでは、かつて「コミックボンボン」のグラビアに掲載されたイヤミが跨がるバイクのラジコン模型をファン自作のプレゼントなどと記載ミス(実際の製作者は元ストリーム・ベースのプロモデラーである小田雅弘)があったりと、ツッコミ処は満載だが、それでも赤塚不二夫の偉業と足跡を辿れる只唯一の記念館として、貴重な存在であったことは言うまでもない。

近年は、折からの「おそ松さん」ブームも追い風となり、客足も若年層を中心に右肩上がりに急増。今後も赤塚不二夫の偉業を伝える常設の記念館として、半永久的に存続されるであろうと思われていた、まさにその矢先の出来事であった。

それは筆者にとっては、青天の霹靂というべきニュースだった。

2020年1月、建物の老朽化から耐震や雨漏り等の問題が生じ、改修が必要となったこと。更には、管理を受け持つ青梅商工会の方々の高齢化が進み、後継者不足も伴い、運営が厳しくなったとの理由から、赤塚不二夫会館の閉館が決定する。

皆までは語らないが、閉館の理由としてはそれだけではあるまい。

閉館決定に伴い、当初は閉館日を3月31日としており、「昭和の元気をありがとう!!    感謝祭」と題したイベントを開催。同月14日から閉館日に至るまで、入館料無料で開放し、28日と29日においては、地元酒造によるコラボ企画、日本酒の利き酒チャレンジや、インディーズ・ミュージシャンらによる野外ライヴの開催なども予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大防止の観点から、来館スペースを写真撮影コーナーのみに縮小。更には、東京都により外出自粛要請が出された直後というタイミングと重なり、4日前倒しとなる3月27日に閉館を余儀なくされた。

赤塚不二夫会館のオープンから1年半後の2005年3月29日には、JR青梅駅の駅メロがアニメ「ひみつのアッコちゃん」シリーズのテーマソングをアレンジしたものが採用されたこともホットな話題を振り撒いたものの、閉館に伴い、現在のメロディへと変更されてしまった。

無論、駅構内に貫禄充分に飾られていたバカボンのパパのブロンズ像も既に撤去されてしまっている。

大御所漫画家のミュージアムの閉館にしては、あまりにもあっけない幕切れであり、いとも簡単に閉館への同意を示す公式の態度に対しては、腸が煮え繰り返る程の憤りを覚える。

オープンから長らく館長を務めてきた横川秀利氏は、閉館に対し、無念の想いを滲ませつつも、「多くのお客さんに親しまれ、様々なイベントを楽しんでもらえた。赤塚先生とキャラクターに感謝したい」という言葉を「読売新聞」の取材で遺している。

赤塚不二夫会館の閉館により、暫し放心状態となった筆者であったが、そうしたショックも束の間の2022年9月12日、今度は「下落合の象徴」「ギャグ漫画の殿堂」とまで謳われた中落合はフジオ・プロビル解体のアナウンスに更なる悲しみを募らせる。

解体に際し、赤塚のプライベート写真や想い出の品々、僅かばかりの生原稿を展示した「フジオプロ旧社屋を壊すのだ!!展」が催され、連日にわかファンも含めた訪問客により活況を呈したことは記憶に新しい。

だが、所詮それまでの展開でしかなく、この「さよならイベント」も、マスメディアを通じ、幾ばくかの話題を振り撒いただけに過ぎない。

フジオ・プロ旧社屋も建物の老朽化による原因不明の雨漏りにより、取り壊しを余儀なくされたとは、公式の弁だが、赤塚不二夫会館しかり、破壊ばかりでその末のビルドが全くないことに、怒りよりも悲しみが先行してしまう。

赤塚といえば、没後、晩年の酒浸りのイメージから、侮蔑や嘲笑を込め、その存在が益々矮小化され続けている漫画家である。

事実、赤塚不二夫会館が閉館になった際、SNSでは、一部の泡沫ユーザーらによって、閉館の理由として客足が全く延びないために、運営が成り立たなくなり、倒産したからであると、事実無根も甚だしい風説が流布されていたが、今となっては、こうした戯れ言が、当たり前の事実として認定されているかのようで歯痒さを禁じ得ない。

また、追い打ちを掛けるように、同年同月20日には、コミックパークよりオンデマンド形式によって書籍化されていた『赤塚不二夫漫画大全集』が、サービス終了となり、『天才バカボン』『おそ松くん』『もーれつア太郎』といった代表的な赤塚マンガを除いたタイトルが閲読出来るチャンスを一気に喪失してしまった。

まるで、現世において、赤塚不二夫が遺した面影が刻一刻と失われてゆくかの如き状況だ。

だが、そうした赤塚を取り巻く八方塞がりな現状において、只一筋の光明としては、2023年4月末現在、未だフジオ・プロビルが解体されていないことだ。

 まさか、  公式はフジオ・プロ旧社屋を遺し、建物内のスペースを有効活用した第二の赤塚不二夫ミュージアムを構想中だというのだろうか?

いや、公式に赤塚不二夫や赤塚作品へ向けたそこまでの愛情や気魄があるとは到底思えないし、そんな殊勝な展開など、妄想するだけ野暮というものだろう。

とはいえ、誰よりも赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者としては、藁をも掴むそんな妄想こそが、赤塚矮小化に拍車が掛かるこの現状に対する唯一の抵抗であり、癒しでもあるのだ。

 

追記

2024年8月2日現在、フジオ・プロ旧社屋は解体され、更地となっているとのこと。

嗚呼、最早何も語るまい……。

 

 


赤塚不二夫とロックンロール 1973年、矢沢永吉、キャロルとの邂逅

2023-04-06 20:49:51 | 論考

 

今回は、赤塚不二夫と、矢沢永吉率いる「ルイジアンナ」や「ファンキー・モンキー・ベイビー」のヒットで知られる伝説のロックバンド・キャロルとの関係性について、知り得る範囲内ではあるが、赤塚がキャロルに関心を示す至った経緯をはじめ論述して行きたい

赤塚不二夫とキャロル、何とも意外な組み合わせに疑問を抱く御仁もおられると思うが、赤塚は、かつてキャロルの全盛時代、私設応援団長を務めていたことがあった。

以前、筆者が、元メンバーであるリードギターの内海利勝氏にキャロル時代のことを伺った際、写真家の篠山紀信、ファッションデザイナーの山本寛斎、そして漫画家の赤塚不二夫といった当代きっての一流クリエイターが後ろ楯になって応援してくれたことも、キャロルがメジャーになる助走となったとの述懐を頂いた。

勿論、キャロルのプロデュースを務めたロカビリー歌手のミッキー・カーチス、所属事務所「バウハウス」代表取締役の漆原好夫やマネージメントを務めた中井國二(元渡辺プロダクション所属で、ザ・タイガースのマネージャーだったことでも知られる)らの辣腕ぶり、後にドキュメンタリー映画「キャロル」を製作する元NHKディレクター・龍村仁の存在も大きかったことは言うまでもない。

そもそも生前の赤塚不二夫は、専ら美空ひばりや軍歌を愛聴しており、それらを除けば、初期のエルビス・プレスリーやザ・ビートルズなどを一時期耳にしていたともいうが、基本、ロックやモダン・ジャズに関しては、ただ音がうるさいと思うだけだと語っていたほど、音楽的関心度は至って低かった。

そんな赤塚が、キャロルに対し、強く興味を抱くようになったのは、新宿を拠点に飲み歩くようになった69年頃、元々赤塚マンガのファンでもあったジャズ評論家の相倉久人との邂逅があり、相倉から、当時、ザ・フラワーズを率いていた、ロックシンガーの内田裕也を紹介されたことに端を発する。

元来イケイケな無頼漢である内田と、シャイで小心者の赤塚とでは、まさに水と油といった相性である筈だが、不思議と気が合い、その後も長く交流を重ねる間柄となった。

1971年、内田は、新進気鋭の作曲家であり、音楽出版社「アルファ・レコード」を主宰する村井邦彦、ロカビリー・ブームを牽引し、この時、自身のバンド、サムライズを解散したばかりのミッキー・カーチスらとともに新レーベル「マッシュルーム・レコード」を設立する。

マッシュルーム・レコード設立に際し、村井邦彦やミッキー・カーチスには、どういった意識があったかは不明だが、内田に限っていえば、同レーベルにて、プロデューサーという立場を活用し、若いロックミュージシャンを育成したいという願望が常にあったようだ

1970年、嵐のようなグループサウンズ・ブームが過ぎ去り、内田、ザ・モップスの鈴木ヒロミツ、はっぴいえんどの前身・エイプリルフールの松本隆、後に「ナイアガラレーベル」を主宰する大瀧詠一といった、当時のロックシーンをリードしていたミュージシャンらによる「ロックは日本語で歌うべきか英語で歌うべきか」をテーマに据えた、所謂「日本語ロック論争」が勃発する。

70年当時、国内におけるロックシーンは、まだまだ定着化しておらず、今となっては、議論の俎上に乗せるまでもないこんな論争がファンの間で耳目を集めるほど、観念的にも行き詰まっていたのだ。

それから数年が経った1973年、一向にロック熱が高まらないでいる状況を打破すべく、内田が立ち上げたのが「日本ロックンロール振興会」なる団体なのだ。

そもそも「日本ロックンロール振興会」は、この二年程前(71年)、グループサウンズ・ブームを牽引したザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズのピックアップメンバーがロックバンド・PYGを結成した際、内田裕也、かまやつひろし、写真家のケン影岡らが音頭を取り発足した「ロック・セクション❜71」がその母体となっている。

「ロック・セクション❜71」は、当時、ロック人口が増えつつあった我が国において、本格的なロックイズムの普及を旗印の下、PYGの中心に、グループサウンズの残党組からは、ザ・ハプニングス・フォー、ザ・ゴールデン・カップス、ミッキー・カーチスとサムライズ、GS以外においても、シローとブレッドバター、ロック・パイロット、アラン・メリルといった新進気鋭のアーティストがメンバーとしてその名を連ねていたものの、ロックファンの間で、渡辺プロダクションによるプロデュースで、商業主義の権化と見做されていたPYGが支持されるムードが高まることなく、またPYGそのものが商業的成功を収めるには至らなかったことから、組織そのものが空中分解を余儀なくされてしまった。

GSの二大アイドルと謳われた沢田研二、萩原健一であるが、その両雄が並び立つことはなかった……。

即ち、「日本ロックンロール振興会」は、そんな深い挫折があった上での再出発でもあったのだ。

内田の中で、そうした忸怩たる過去を踏まえた上で、日本のロックの未来のためにも、「ロックンロール・セクション」改め「日本ロックンロール振興会」の活動を本格化したい。

そのためにも、会長には若者に影響力のある著名人を名誉会長として迎えたい。

当初は、作家の五木寛之、イラストレーターの横尾忠則、エッセイストの植草甚一等も候補に挙がっていたというが、そうした著名な文化人よりも、73年当時、サブカルチャーにおけるオピニオンリーダーとして、若者達に浸透していたのは、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」「週刊文春」と、週刊誌4本の連載を持つ超売れっ子の漫画家であった赤塚不二夫にほかならないという内田独自の判断より、赤塚に会長職としての白羽の矢を立てたのだ。

1972年12月20日、日本フォノグラムより「ルイジアンナ」を引っ提げ、キャロルがデビューする。

キャロルは、川崎在住の矢沢永吉(ベース&ヴォーカル)を中心に、ジョニー大倉(大倉洋一、サイドギター&ヴォーカル)、内海利勝(リードギター)、今井英雄(ドラムス、後にユウ岡崎と交代)が集まったインスタントバンドであったが、結成から二ヶ月後の10月1日、当時ヤングの人気者であった愛川欽也がMCを務めるフジテレビの若者向け生番組「リブ・ヤング!」でメディア初登場。フィフティーズ・スタイルのロキシー・ファションをテーマとした企画で、この時キャロルは、テレビ局側からオファーを受けてではなく、あくまで一般公募での出演だった。

とはいえ、キャロルは、ツイスト・パーティのコーナーでは、ハンブルク時代のビートルズを彷彿とさせるリーゼントヘアに黒革ジャン、黒革パンツというスタイルで登場。「ジョニー・B・グッド」や「グッド・オールド・ロックンロール」といった50年代ロックンロールの名曲をダイナミック且つグルーヴィーなノリでパフォーマンスし、観る者を圧倒した。

その後、この番組を観ていたミッキー・カーチスがキャロルに惚れ込み、自らプロデュースを申し入れ、早速、メンバーのジョニー大倉、矢沢永吉作詞作曲による「ルイジアンナ」をレコーディング。以降、彼らの伝説的な活躍は説明するまでもないだろう。

だが、このレコーディングまでには、すったもんだがあった。

実は、前述の「リブ・ヤング!」には、内田裕也がゲスト出演していた。

内田といえば、ヒット曲のないシンガーと揶揄されながらも、日本のロックンロールの開祖的存在であり、その影響力は甚大だ。

番組共演を機に、初対面ながら内田との距離を縮めた矢沢は、内田にキャロルがプロデビューするに辺り、「先生!僕らを男にして下さい!」つまりは、バンドをプロデュースして欲しいと懇願。意気に感じた内田はこれを快諾する。

しかし、その後、ミッキー・カーチスの熱意に圧倒され、加えて、ミッキーのプロデュース案が具体性を帯びていた点から、矢沢はミッキーのレーベルでのデビューに鞍替えする。

無論、内田がこの経緯に怒り心頭となったのは言うまでもない。

だが、その後、呼び出した焼肉屋にて、矢沢が丁寧に詫びを入れたことで、内田の怒りも収まり一件落着。その際に矢沢は、内田に「自分に非があるので、一発殴って下さい」と伝えたともいう。

矢沢の男としての潔さを気に入った内田は、矢沢、延いてはキャロルが間違いなくビッグになると確信し、陰ながらキャロルを応援することを決意。以降、関西でメキメキと頭角を現していた桑名正博率いるファニー・カンパニーとキャロルをジョイントさせることで、ロックンロール業界のボトムアップを図ろうとする。

つまり「日本ロックンロール振興会」は、キャロルの登場ありきで発足したようなものなのだ。

実際、内田は至る所で、キャロルを紹介し、自身がプロデュースするロック・コンサートには、必ずやキャロルをステージに立たせた

1973年2月28日、渋谷の西武劇場で開催され、後に内田のライフワークとなる「第一回ニュー・イヤーズ・ワールド・ロック・フェスティバル」にもキャロルは出演し、新人ながらも他の名だたる共演者を圧倒したそのライヴ・パフォーマンスは、今尚語り草となっている。

彼らは、初の大舞台への緊張をほぐすべく、出番前、大量に飲酒を重ね、またその状態で超絶的ともいうべきハードな演奏を披露した結果、極度のトランス状態に陥ってしまい、何と、ステージ上で失神してしまったのだ。

つまりは、キャロルに限っての失神は、グループサウンズ時代、ザ・カーナビーツやジ・オックスといった人気のアイドルバンドが営業で失神していたパフォーマンスとは異なり、その激烈なライヴが内発的衝動となって発生した、前代未聞のドキュメントでもあったのだ。

そんなキャロルと赤塚不二夫が邂逅を果たしたのが、73年1月23日、当時新宿区河田町にあったフジテレビの第1スタジオで、東京12チャンネル系の「私の作った番組     マイテレビジョン     赤塚不二夫の激情No.1」(1月25日放送)の収録に際してであった。

この時、石川社中の総勢一三〇名の貴婦人方が花笠をかざす下稽古の最中で、キャロルもまた、デビュー曲「ルイジアンナ」を懸命にリハーサルしていた。

「赤塚不二夫の激情No.1」で、ディレクターを務め、当時テレビマンユニオン所属だった佐藤輝は、ミッキー・カーチスよりデビュー間もないのキャロルを紹介されていた。

佐藤は、その時点ではまだプレイすら聴いていないにも拘わらず、高いヴォルティジで将来のヴィジョンを挑戦的に語る矢沢のキャラクターに圧倒され、赤塚の承諾のもと、その一週間後の収録予定である「激情No.1」に出演させてしまう。

もしかしたら、赤塚もまた、事前に内田と会った際に、あれこれキャロルについて窺っていたのかも知れない。

赤塚はキャロルについて、彼らとの対談の際、このように語っている。

赤塚「局の人(名和註・恐らく佐藤輝のことだと思われる。)と打ち合わせしていて、歌手を決めていくうちに今キャロルがすごくいいって言うんだ。それまで僕はキャロルって知らなかったんだけど、録画撮りでつきあって、いっぺんにファンになっちゃった。」(「ロックンロール+マンガ=???」/「ガッツ」73年9月号)

また、キャロルは初めて見た時の衝撃については、このような言葉を残している。

赤塚「君ら(名和註・キャロル)の歌を聞いてて面白いのはね、言葉の意味より、感じで歌詞を作るってことね。僕もセリフに凝るほうだけど・・・・・・。最初、英語かと思ったら、よく聞くと日本語なんだ。(笑)」

デビューから暫くの間、キャロルの放つオリジナル曲の数々は、これまでの日本人の感覚で作られた楽曲とはフィーリングが異質だと、評論家や音楽ファンから頻繁に評されていた。

それは作詞、作曲を受け持ったジョニーにしても、矢沢にしても、ビートルズやローリング・ストーンズの撒いたロックン・ロールの種から芽吹いたそのスピリッツを自身の原点として捉えていたからに他ならない。

当時、キャロルのファンだった中学生が、代表曲である「ルイジアンナ」や「ファンキー・モンキー・ベイビー」を聴き、「僕らが知らないマニアックな洋楽をそのまま日本語に訳したものかと思った」と語っていたが、まさに言い得て妙な賛辞である。

矢沢はこの対談で、赤塚に次のような悩みを吐露している。

矢沢「ファンから色々と手紙で言ってくるんですよ。ここはこうしたほうがいいとか。」

それに対し、赤塚はこうアドバイスする。

赤塚「漫画にも共通すると思うんだけど、読者のご機嫌をとっちゃダメなんだよね。ナメられちゃうわけだよ。こんなものでどうでしょうかって出すと、ダメだ、もっと面白いものを持ってこいってことになるんだ。ザマアミロって感じで出すと、面白いですねってくるわけだよ。(笑)」

要するに、逐一読者の要望を伺ってばかりだと、作家としての個性が損なわれてしまう。

訳のわからないことを書いてくる読者など無視して、読者よりも優位に立つ。少し前に歩むことが大切であり、それは音楽に限っても同じことだと、赤塚は結んでいる。

だが、矢沢はそうは思いつつも、自信がないとも告げる。

また、現段階では、与えられたものをガムシャラにやってきただけであるとも。

その後の矢沢の圧倒的なキャラクターを見ると、何だか別人のように見えなくもないが、昨日今日までキャバレーのドサ回りをしていたようなバンドが一夜にして、時代の最先端に立つロックバンドとして世の注目を集めてしまったのだから、矢沢としても、現状への戸惑いや一歩先の未来への不安など隠し切れない部分もあったに違いない。

むしろ、この時の赤塚の発言の方が矢沢のパブリック・イメージと重なり合って見えるかのようだ。

しかし、赤塚はそんな矢沢に対し、次のような言葉をぷつけている

赤塚「でも、自分たちで作詞作曲してやってきたんだろ。与えられたものとは言えないんじゃないか。」

その上で、ロックンロールを離れず、毎回、リスナーにショックを与える新鮮味があればいいと語り、ひたすらに前進あるのみだとキャロルを奨励する。

赤塚が述べるロックンロールを離れないというのは、住宅に例えれば、土台にあたる部分は非常にオーソドックスなものを下敷きにして、その上で新たな冒険を繰り広げてゆくという意味だ。

そういう意味において、矢沢は敬愛するビートルズを手本にし、音楽をやるからには、人に何と云われようとも、彼らのようなスターになりたいと、その夢を語る。

赤塚はそんな矢沢やキャロルに対し、烈々たるロマンを感じたようだ。

事実、この頃の赤塚は、自身の漫画の中で、キャラクターにキャロルを絶賛するセリフや歌を幾度となく喋せている。

『天才バカボン』では、ノラウマが「ルイジアンナ」を三味線で弾き語りをしたかと思えば(「ノラウマ社員の無責任なのだ」/「週刊少年マガジン」73年20号)、『おそ松くん』では、爆発の被害に遭ったイヤミが這這の体で「ファンキー・モンキー・ベイビー」を歌ったりと(「ウソ発見爆弾だス」/「週刊少年キング」73年47号)、画稿越しからも、キャロルに対する傾倒ぶりが如実に伝わって来る。


バカボンのパパもまた、キャロルの大ファンであることを語り、バカ田大学時代のニックネームがキャロルであったことも述懐している。(大学卒業後は、東洋工業(現・マツダ)に入社し、マツダ・キャロルを作る仕事に就く予定でもあった。)

かつて、パパとバカボンがハードロックにエスノックをフュージョンした怪作、モップスの「御意見無用」の一節である「えーじゃないか   ええじゃないか!」とおどけるシーンがギャグとして挟み込まれていたり(「週刊ぼくらマガジン」71年20号)、彼らにとって最大のヒット曲となった「月光仮面」のパロディーをウナギイヌのテーマソングに採用したりと(「週刊少年マガジン」72年36号)、一時的ではあるが、モップスネタを『バカボン』に仕込んでいたこともあった。

だが、キャロルを扱ったギャグの頻度はモップスのそれを遥かに凌いでおり、その熱中度をとって見ても、キャロル私設応援団長の名に恥じない肩入れぶりだ。

赤塚とキャロルは、その後も「内田裕也大芸能生活15周年記念リサイタル・ロックンロールBAKA」(73年9月10日、於・中野サンプラザ)でも、ともにゲストとして招致されるなど、公の場において、複数回共演する。

「ロックンロールBAKA」は、9月12日にも渋谷公会堂でも催され、この時既にソロアーティストとなり、意気軒昂な活躍を見せていた元ザ・タイガース、元PYGの沢田研二がゲスト出演。赤塚が出演した中野サンプラザにおいては、後にタモリが所属することになる田辺エージェンシー社長、元ザ・スパイダースのリーダー・田辺昭知や、PYGを前身とする井上尭之バンド、赤塚とは「まんが海賊クイズ」の共演を機に昵懇の間柄となった黒柳徹子、更には、日本シャンソン界の母であり、「ブルースの女王」の名を欲しいままにした淡谷のり子も来賓として駆け付けた。

このリサイタルでは、赤塚はポスターやチケットのイラストを無償で提供し、赤塚やキャロル以外にも、後援が赤塚の他、アントニオ猪木、倍賞美津子、梶芽衣子、篠山紀信、藤田敏八、横尾忠則といった豪華メンバーで、内田の多彩な交友関係の一端が垣間見れよう。

1975年4月13日、メンバー内の確執から、小雨が降り頻る日比谷野外音楽堂で、キャロルは解散ライヴを開催する。

アクシデント(スタッフによる演出)により、ステージのセットが炎上し、「CAROL」と書かれた電飾が焼け崩れてしまう様は、まさしく青春の燃焼そのものを象徴しており、今尚伝説として日本のロック史に名を刻んでいる。

尚、キャロル解散後、元メンバーらと赤塚の間に交流があったというエピソードは、寡聞にして一切聞かない。

だが、赤塚にとってキャロルは、タモリと出会う以前、最も肩入れしたアーティストであったのは紛うことなき事実だ。

赤塚がタモリと邂逅を果たすのは、キャロル解散から二ヶ月程経ってからのことである。

因みに、藤井フミヤをはじめとする元ザ・チェッカーズの面々、元BOOWYの氷室京介ら、キャロルの大ファンであったことを公言して憚らないアーティストは大勢いる。

お笑いコンビのとんねるずもその一つだ。

そんなキャロルチルドレン、矢沢チルドレンのとんねるずが公開オーディション番組「お笑いスター誕生!」に出演した際、他の審査員達が、とんねるずが繰り出すパフォーマンスに対し、勢いだけの素人芸であるとジャッジを下す中、赤塚とタモリだけは、その面白さを絶賛したという。

また、石橋貴明の述懐によれば、赤塚とタモリの二人から、とんねるずはこのままのスタイルでやればいいというアドバイスも受けたそうな。

筆者は、そんな石橋の回想に触れ、かつて赤塚がキャロルに向けて語った同様のアドバイスを思い起した。

感性だけは過激にして生意気。一方で礼儀正しく、いつまでもピュアなハートを抱いている。

いつの時代にも、赤塚がそんな若者達に強いロマンと愛惜を抱いていたことに疑いの余地はあるまい。


これでいいのか!? 『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』論評

2023-03-30 14:09:31 | 論考

これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫の映画レビュー・感想・評価「テレビの特番以下の出来に期待はずれ~」 - Yahoo!映画

2011年4月30日、全国東映系にて『これでいいのだ!!    映画★赤塚不二夫』がゴールデンウィークの新作映画として公開された。

製作は、松田優作の『遊戯』シリーズや『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズ、『あぶない刑事』シリーズと、1970年代から2000年代に掛け、邦画界の雄として時代を牽引してきた黒澤満率いるセントラル・アーツ。監督はこの作品がデビュー作となる佐藤英明。脚本はその佐藤と『踊る大捜査線』シリーズで一躍名を成した放送作家集団「パジャマ党」(萩本欽一主宰)出身のシナリオライター・君塚良一だ。

筆者は、漫画マニアでもあると同時に、大の映画マニアでもあり、取り分け邦画に対する想いは、他の映画ライター諸氏にも負けないくらい並々ならないものがある。

そんな自らの嗜好を語った上で敢えて言わせて頂くなら、この『これでいいのだ!!     映画★赤塚不二夫』は、筆者がこれまで鑑賞してきた古今東西の映画作品の中で、これ以上の駄作には御目に掛ったことがないと言っても憚らないほど、万死に値する最低最悪なレベルだったのだ。

実際、「映画・com」や「Yahoo!映画」、「Amazon」等のレビューを見ても、酷評のオンパレードで、人気の指数を示す★の数も及第点にすら及ばないほど、世間一般においても、その評価は圧倒的に低い。

では、どんな点がこの作品に駄作の烙印を押す要因になったのか。

その一つ一つを掘り下げて検証してみたい。

まず、ストーリーから簡潔に説明すれば、遡ること昭和42年、新入社員として小学館に入社した武田初美は、入社式で人気No.1のギャグ漫画家・赤塚不二夫に出会う。

当初は、赤塚の破天荒ぶりに不快感を示していた初美だったが、「週刊少年サンデー」編集部に配属され、編集長より赤塚の担当を命じられる。

初美は、気乗りしないまま、フジオ・プロに赴くが、やがて、赤塚の才能と人間的魅力に魅せられ、赤塚との二人三脚で数々の傑作ギャグ漫画を生み出してゆくというのがそのあらましだ。

主人公・赤塚不二夫を演ずるのは、『ねじ式』や『殺し屋1』等の名演でも知られる実力派俳優の浅野忠信。

生尻を出して走り回るなど、浅野忠信の怪演は、実際の赤塚本人とのシンクロニシティすら感じ、その一挙一動からも、赤塚に負けず劣らずギャグやおバカが大好きであるという浅野本来のキャラクターが伝わってくるかのようで、頗る好感が持てる。

新人編集者を演じた堀北真希も、その佇まいからか、『ALWAYS    三丁目の夕日』シリーズをはじめ、昭和に生きるヒロインを演じさせたら、ピカ一な存在だけに、本作においても、そのオーラは健在であった。

他にも、「週刊少年サンデー」の編集長役に佐藤浩市、赤塚の最初の妻・トシコ役に木村多江、そして赤塚の実母・ヨリ役にいしだあゆみといった名だたる演劇陣が脇を固める。

元来昭和キッズ特有の漫画ファンであった浅野は、1998年、ごま書房から復刊された『ギャグゲリラ』第1巻の巻末において推薦文を執筆するなど、赤塚マンガにも強い愛着を示しており、その浅野が本編の製作とともに赤塚役を務めると発表された際、個人的にその妙々たるキャスティングに対し、膝を打ったわけだが、本編鑑賞後、それは喜びから絶望に、絶望から怒りへと変質するであろうとは、この時は当然知る由もなかった。

どんなに魅力ある俳優、人気のある俳優を起用したところで、脚本と演出が駄目ならば、その作品がヒットしないのは当然だ。

ドラマは、長年赤塚とは公私ともに親しい間柄だった元「週刊少年サンデー」赤塚番記者の武居俊樹が2005年に文藝春秋より上梓した『赤塚不二夫のことを書いたのだ』をベースにしているものの、武居記者を女性化させるといった設定も含め、フィクション的要素が異常な程強く、時代考証も適当で、当時を知るリアルタイム世代や漫画マニアからしたら面喰らう内容なのだ。

原作の武居記者の著作そのものがかなり曖昧な記憶で書かれているため、風説を流布する展開になるであろうことは、予め予想は付いていたが、監督と脚本を務めた佐藤英明が、赤塚作品や赤塚の人物像そのものを、全く理解していないため、赤塚の創作に対する真摯な姿勢や、60年代から70年代に幾度となくブレイクを果たした赤塚を取り巻く世間、マスメディアからの熱狂的支持というものが一切伝わって来ない。

フィクションにしては、弾け足りない。ノンフィクションにしては、余りにも事実と掛け離れているといったどっち付かずの状態で、何とも後味の悪い、中途半端な仕上がりだ。

また、赤塚が単なる無教養でだらしなく、傍迷惑な存在としてのバカとしか描かれていない点は、特段に辟易とする箇所でもある。

赤塚の言うバカとは、常識や既成概念に捕らわれない規格外の人物であり、そのバカという言葉の中には、フロンティア・スピリッツや僅かながらの知性が含まれていることは言うまでもない。

そんな生き様をテーマにするのなら、赤塚の熱に浮かされたかのような創作へのエネルギーと、天衣無縫にして豪放磊落なそのキャラクター描写に心血を注ぐことが重要なのだ。

つまり、ギャグ・メーカーとして間断のない自己増殖を続け、奇っ怪な生活を送りながらも、その日常を作品にフィードバックさせ、様々な笑いの可能性を追求してゆく姿こそが、この時代の赤塚不二夫という展開にするべきだったと言うことだ。

ドラマの盛り上がりに乏しいのも、この作品に対する歯痒いところだ。

赤塚の作家としての偉業を描くなら、武居記者が赤塚番を務めていた昭和40年代だけでも、「シェー!!」の大流行にシンボライズされる『おそ松くん』の爆発的ヒット(昭和40年~41年)、ニャロメブーム(『もーれつア太郎』)の到来(44年~45年)、『天才バカボン』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』の三作品同時連載(47年~48年)と三度に渡って絶頂期を迎えており、その時のブームの様子を是非とも検証して欲しかった。

事実、この十年間においては、小学館漫画賞受賞(昭和40年)、長女誕生(40年)、レーシング・チーム「ZENY」の設立と赤字解散(43年~44年)、「週刊少年マガジン」から競合誌「週刊少年サンデー」への『天才バカボン』移籍事件(44年)、芸能プロダクション「フジビデオ・エンタープライズ」の立ち上げ(44年)、最愛の母の逝去(45年)、ニューヨークへの短期遊学(46年)、アニメーション製作会社「不二アートフィルム」の設立(46年)、雑誌「 まんがNo.1」の創刊と廃刊(47年~48年)、文藝春秋漫画賞受賞(47年)、最初の妻との離婚(48年)、経理担当による二億円横領事件(49年)、ギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」(「週刊少年ジャンプ」)の設立(49年)と、赤塚自身、公私に渡り、波乱万丈の日常に身を委ねていた。

このような具体的な出来事をプロットとして正確に据え、光と影をもって迫る演出によって具現化したならば、物語にももっと深みが出たのではないだろうか。

本作の要として、赤塚と母親の関係が重要なプロットとして描かれている。

ただ、これも実に不快感を露にしたもので、取り分け顕著に感じるのが、いしだあゆみ演じるヨリが亡くなった時、その中で、赤塚がブリーフ一丁で泣きながら母親の亡骸に抱き付いているシーンである。

佐藤監督は、どういう演出意図でこのシーンを挟み込んだのが不明だが、赤塚自身、そんなことをして母親を看取っていないし、まさか、赤塚を不気味なマザコンとして晒し者にすることで、その人物像を全て描き切ろうと考えたのだろうか。

確かに、トキワ荘時代、赤塚は、息子の窮状を察し、身の回りの世話をすべく、上京して来た母親の抱き膝を枕代わりにするなど、仕事そっちのけでずっと母親にジャレ付いていたという。

その姿を目の当たりにした仲間達から「マザコンの極致」と失笑を受けたのも、決してネタの類いではないだろう。

しかし、赤塚で謂う所のマザコンとは、戦後間もない動乱期を、シベリアに抑留されていた父親に代わり、女の細腕一つで育てくれた母親に対する強い慕情の現れであって、単なる母親依存のそれとは全くもって異質なものなのだ。

原作者の武居俊樹、テーマとなった赤塚不二夫、浅野忠信、堀北真希をはじめとするキャスト陣、この映画のために恥を欠かされた人達は沢山いるが、演じ手の中で取り分け気の毒に思えてならなかったのが、赤塚もかつて大ファンであったいしだあゆみだ。

臨終したシーンの時などは、激痩せの上、ノーメイクで出演し、そこにライトを一杯に当てているものだから、いしだの姿がまるで捕らわれた宇宙人を彷彿させるかのようなのだ。

この監督は、映画そのものだけではなく、女優に対しても愛情がないのかと、図らずも勘繰ってしまう。

ただ、唯一嫌いにはなれないシーンもある。

それは、ラスト近くで、赤塚と元トリオ・ザ・パンチの内藤陳演じるマタギとの攻防のシーンで、内藤の静かなる迫力を秘めた満身創痍のキャラクターは、アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』の主人公・サンチャゴを想起させ、思わずにニヤリとさせられる。

監督の佐藤は、学生時代、内藤が新宿ゴールデン街に軒を構える「深夜+1」でアルバイトをしており、内藤とは師弟の間柄だった。

そんな佐藤の初監督作品のために、内藤はノーギャラで出演を快諾したというエピソードがある。

名だたる賞とは無縁の本作が、内藤の死後である翌年、唯一日本冒険小説協会特別賞を受賞したのも、同会の会長を務める内藤との関係があったからと見て間違いあるまい。

さて、話が横道に逸れてしまい、話題をドラマに戻すが、本作は、感性も才能も突出していない素人監督が己の主観だけで作品を撮ってはいけないという見本であり、本編中においても、著しく赤塚の存在や偉業を矮小化してやまない描写も多い。

物語の中盤、『もーれつア太郎』の人気が最下位に転落し、連載が打ち切られる運びになるが、連載が終了した1970年当時、ニャロメの大活躍で、そこまで人気が低迷するのは、絶対に有り得ない話であるし、『もーれつア太郎』よりずっと後に連載された『仙べえ』(藤子不二雄)が『ア太郎』を抜くという展開もまた、タイムラグが甚だしい。

更には、スランプに陥った赤塚が、長野の温泉地に雲隠れするという展開を迎えるが、実際は暴力団員の愛人女性とのトラブルから美人局に遭い、それを恐れて、長野の山奥まで逃げたというのが真相だ。

そもそも、70年代初頭から半ばに掛けて、週刊誌五本、二本の代筆を含め月刊誌七本の締め切りを抱えていた超売れっ子の赤塚が、寡作のつげ義春ではあるまいし、何ヵ月も長野の旅館で羽を伸ばしているなんて、違和感どころの話ではない。

その長野の旅館から、東京で赤塚の安否を心配する初美に、「ぼくは    いま    長野県の松山会館という民宿で     これを描いています    マドのそとは     ごらんのように    雪で真っ白です!!」の文字が描かれた、絵が何も入っていない真っ白な扉ページを『レッツラゴン』の第一回目として送るが、実際これは、『天才バカボン』(「眠れないのだ夢の中」/「週刊少年マガジン」74年13号)の扉ページで使われたもの。

『レッツラゴン』の初回の扉ページは、遊学中のニューヨークから航空便で送った筈。それに連載開始は1971年である。

美術に関しても、様々な赤塚関連の書籍で、当時スタジオを構えていた新宿十二社の市川ビルや代々木の村田ビル、中落合のひとみマンションなどの写真が相当数掲載されているのだから、そういった文献を漁って参考にするべきだった。

既に、市川ビル、村田ビルは取り壊されたので、
致し方ないにしても、赤塚マンガ全盛期に本拠地としていたひとみマンションは、名称を改め、未だ現存しているのだから、リアリズムを考慮して、そこでロケをして欲しかった。

個人的には、こちらも好きな作品とは言えないが、市川準監督の『トキワ荘の青春』(96年)では、その辺りの美術がしっかりしていたと思う。

セットに並べてあるフィギュア等のキャラクター・グッズもしかり。赤塚アニメが1980年代後半にリバイバルした際、トミーから発売したものを見繕っており、興醒め。

やはり、当時発売されていたマスダヤや今井科学、アオシマ文化教材社等のブリキ人形やプラモデルなどのグッズを並べ、時代考証を的確にすることは、選択肢の一つとしてもなかったのだろうか。

近年、伝説の浅草芸人・深見千三郎のもとで芸人修行に励むビートたけしの青春時代を描いた名作「浅草キッド」や、明石家さんまと不肖の付き人・ジミー大西との泣き笑いの交流とその師弟関係を綴った「Jimmy~アホみたいなホンマの話~」、2020年に新型コロナウイルスの感染を伴う肺炎で死去した志村けんの生涯をテーマとした「志村けんとドリフ大爆笑物語」といった、大御所お笑い芸人をフィーチャーした作品が続々と映像化された経緯から、この作品では描かれなかったタモリと赤塚不二夫の出会いをテーマとした物語を是非、映画、ドラマなりで観てみたいという声がネットを中心にチラホラ聞こえる。

だが、死して尚、赤塚不二夫という存在が国民のサンドバッグであるかの如く、叩かれ続けている現状を思うと、そのような映画なり、ドラマなりは、何があっても製作して欲しくないというのが、赤塚不二夫ディレッタントである筆者の切なる願いでもある。

何故ならば、タモリという稀代のエンターテイナーを持ち上げるために、赤塚の存在を徹底して愚弄するドラマとして仕上がり、そうした作られた不名誉が公然とした歴史的事実として、泡沫SNSユーザーらによって連綿と語り継がれることは、火を見るより明らかだからだ。

尚、本編を監督した佐藤英明だが、その後、商業映画において再びメガフォンを執ることはなく、2016年、心筋梗塞により五四歳の若さでその生涯に幕を閉じることになる。

佐藤英明は、『これでいいのだ!!     映画★赤塚不二夫』に向けられた世の批判を発奮材料に、暫し雌伏の時を経て、映画監督として再チャレンジしたいという希望を抱いていたとも聞く。

佐藤監督の次回作を鑑賞してみたかったとは露程も思わなかったが、まだ亡くなるには早過ぎるその年齢を慮ると、気の毒に思えてはならない。

この場にて、改めて佐藤監督のご冥福をお祈りしたい。


別冊付録コンプリート まりっぺ先生の作品的魅力とその世界観

2022-06-15 17:09:24 | 論考

「まりっぺ先生」は、1958年11月29日より翌59年9月26日に掛けて、松下電器産業の一社提供により放映された宮城まり子主演によるテレビドラマである。

日本テレビをキーステーションに、毎週土曜日19時からテレキャストされたこのドラマは、宮城まり子演じる若い女性教諭(役名・小宮まり子)が、東北の山間に位置するとある分教場で、教え子との交流を通し、人生の喜びや悲しみに触れる中で、教師として、また一人の人間として、子供達ともに成長してゆく姿を程良いユーモアとペーソスに包んで描き、当時多くの視聴者の共感を呼んだことでも知られる人気作だ。

また、NHKラジオ番組「日曜娯楽版」の人気コーナ「冗談音楽」や数々のCMソングで名を馳せた三木鶏郎が、テーマソング(歌唱・宮城まり子)の作詞・作曲を含む劇中音楽全般を担当したことからも、開局間もない日本テレビが、如何に国産初の学園ドラマとなった本シリーズに注力していたかがよくわかる。

実際、松島トモ子や浅野寿々子、小鳩くるみといった、この時期テレビ、雑誌等を席巻していた少女子役スターらが、ドラマ版、漫画版ともに「まりっぺ先生」ファンであることを「りぼん」誌上にて公言しており、その人気の高さの一端を見て取ることが出来る。

人気ドラマのコミカライズは、あらゆる雑誌媒体において、今尚連綿と続いているが、この『まりっぺ先生』は、ごくごく初期の事例であり、後にギャグ漫画の帝王として君臨する赤塚不二夫が執筆を務めたという意味においても、貴重なシリーズと言えよう。

事実、そのレア度は至って高く、「りぼん」の別冊付録として発行された全八冊は、いずれも古書市場での流通のみならず、ネットオークション等でも、お目に掛かる頻度はほぼないに等しい。

何故、赤塚が『まりっぺ先生』のコミカライズを担当するに至ったのか、その経緯について、生前、赤塚の口から語られることはなかったが、1959年当時、まだヒット作はなかったとはいえ、『まつげちゃん』(「ひとみ」)『ナマちゃん』(「漫画王」)と、初期赤塚ワールドの代表作とも言える作品群をスタートさせており、筆致確かな新進気鋭といったその立ち位置により、白羽の矢が立ったであろうことは想像に難くない。

それも、連載開始の4月号から11月号まで、毎号別冊付録での掲載という晴れ舞台である。

そうした点を鑑みても、赤塚に対する「りぼん」編集部からの期待値の高さが十分に伺えよう。

「りぼん」掲載『まりっぺ先生』は、人気ドラマのコミカライズ版ということで、ストーリーも赤塚のオリジナルではなく、ドラマシナリオをもとに執筆している。

因みに、オリジナル版の『まりっぺ先生』の脚本は、須崎勝哉、津路喜朗、成沢昌茂、浅川清道、山内亮一、若尾徳平といったテレビドラマ黎明期を支えたシナリオライターらが執筆していたが、そのアイデアやキャラクター設定等は、主演の宮城と昵懇の間柄であった船橋和郎による発案のものであり、クレジットには、原作/船橋和郎とある。

全九話の中で、筆者イチオシのお気に入りは、8月号別冊付録に掲載された「おかあさんからの手紙」「まりっぺ先生 東京へ…」「急病」「おかぁさぁん」からなる第五エピソードだ。

まりっぺ先生のもとに、東京に住む母親から、夏休みに帰省するよう手紙をもらうものの、折角の夏休み、分教場の生徒達と楽しい時間を過ごしたいと考えていたまりっぺ先生は、仮病を使い、帰省を逃れようとするが、それが、生徒達や同僚の先生方を巻き込む騒動に発展するというのが、そのあらましである。

まりっぺ先生と生徒達が、お互いを想い合うが故、すれ違いとなり、一悶着巻き起こるものの、本エピソードのテーゼに繋がる登場人物達の心理的葛藤は、意識の内面を掘り下げた赤塚特有の心象描写も相俟って、ドラマを盛り立てており、読後は清々しい余韻を読む者に投げ掛けてくれる。

また、素朴な風合いで描かれたローカル色豊かな風景も、本作を語る上において、至極重要なポイントだ。

登場人物達の一挙一動や悲喜こもごもを包み込むような牧歌的描写の数々。取り分け、木漏れ日や雨上がりの空、草の葉に光る朝露などは、キャラクター達の喜怒哀楽を表す心象風景でもあり、こうしたところにも、赤塚の映画的素養の噴出が視認出来よう。

赤塚版『まりっぺ先生』は、連載終了以降、メディアにおいても、一切語られることもなく、回顧の対象にすらならかった、まさに埋もれた作品であったが、2002年に小学館よりリリースされた『赤塚不二夫漫画大全集DVD-ROM』12巻に、59年10月号別冊付録掲載分の「まりっぺ先生のプレゼント」「消えたプレゼント」「うさぎとどろぼう」「うたのプレゼント」「山羊と子どもたち」が初収録され、漸く陽の目を見るに至った。

「まりっぺ先生のプレゼント」「消えたプレゼント」「うさぎとどろぼう」「うたのプレゼント」の四タイトルは、まりっぺ先生が生徒達一人一人にうさぎをプレゼントするも、そのうちの二匹がいなくなってしまったことで、村人を巻き込んだ大騒動へと発展するエピソード、「山羊と子どもたち」は、教え子が里子に出されると聞いたまりっぺ先生が、それを阻止せんと奮闘する姿を綴った傑作掌編で、ユーモラスな落ちへと巧みに数珠繋ぎされたストーリーテリングが何とも小気味良い。

書籍としては、2005年のオンデマンド版『赤塚不二夫漫画大全集』(コミックパーク)にて、この10月号別冊付録掲載のエピソードが一冊に纒められ、翌06年発売のコンビニエンスストア限定コミックス『赤塚不二夫ベスト 秋本治セレクション』(集英社)にも収録された。

この『秋本治セレクション』は、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のロングランで知られる漫画家の秋本治がお気に入りの赤塚作品をセレクトし、一冊に纏めたコミックスで、『茶ばしら』や『点平とねえちゃん』といった初期赤塚少女漫画の粋を集めた、従来の赤塚アンソロジー本としては、画期的な一冊だ。

その後も、2008年に刊行された『赤塚不二夫裏1000ページ』(INSAFパブリケーションズ)の下巻にて、同エピソードが収録されるが、残念なことに、それ以外の全エピソードは、2022年現在、未だ単行本未収録となっている。

権利上の問題もあるのだろうか。

しかし、もしそうならば、「まりっぺ先生のプレゼント」をはじめとする件の五本のみが書籍化されたのも、合点が行かなくなる話だ

現在、公式(フジオ・プロダクション)は赤塚本を刊行する際、未収録作品にも目配せするなど、赤塚不二夫を文化遺産として遺すという意味において、非常に喜ばしい環境へと変わりつつある。

従って、そうした状況下において、この『まりっぺ先生』もまた、全話コンプリートという形で、再度世に問うて欲しいと願わずにはいられない。

ギャグ漫画の神様と謳われた赤塚不二夫のパブリックイメージを覆すマスターピースであることは、今回アップした表紙画像を見ても一目瞭然ではあるまいか!

尚、ドラマ「まりっぺ先生」で主演を務めた宮城まり子は、女優として更なる活躍を続け、1968年、孤児や肢体不自由児の支援、救済を目的とした社会福祉施設「ねむの木学園」を設立。日本のマザー・テレサと呼ばれ、まさに、まりっぺ先生のその後を彷彿させる福祉事業家としての人生を重ね、2020年、その生涯に幕を閉じた。

 

赤塚不二夫と長谷邦夫の40年に渡る友情と確執 そして絆

2022-03-17 21:59:12 | 論考

漫画家・赤塚不二夫を語る上で、誰よりも欠かせない人物が、長谷邦夫であることに異論を挟む余地はいないだろう。

赤塚不二夫に無理解を示す局外者の間では、晩年の赤塚が酒浸りであったというイメージと、長谷邦夫自身、至る所で赤塚の影武者としての存在をアピールしていたことから、赤塚に対する愚弄も込めて、長谷こそが、赤塚作品のほぼ全てを代筆したと、未だ誤った情報が連綿として語り継がれている。

しかしながら、世間一般の人間にとって、長谷邦夫の名前は、今ひとつピンと来ないに違いない。

赤塚不二夫の代表作といえば、『おそ松くん』『天才バカボン』『ひみつのアッコちゃん』とそのタイトルを列挙出来ようが、長谷邦夫のそれと言ったら、誰もが答えに窮する筈だ。  

長谷邦夫とは、果たして何者なのか……‥。

ここで、漫画家としての長谷邦夫のプロフィールとその人物像を簡単ではあるが、振り返ってみたい。

1937年4月7日、現・東京都葛飾区金町に生まれ。幼少期より漫画への傾倒を示すようになり、「漫画少年」に投稿するも、ほぼ選外という有り様だったが、東京都立芝商業高等学校在学中の1955年、同誌で会員募集していた石ノ森章太郎主宰の「東日本漫画研究会」に入会。既に上京し、「漫画少年」の入選の常連となっていた赤塚不二夫と交流を重ねる。

同年夏、石ノ森の初上京の際、赤塚を交えた三名で、当時、豊島区雑司ヶ谷の「並木ハウス」に住居兼仕事場を構えていた手塚治虫のもとを訪ねたことは、戦後漫画史における重要なエピソードの一つとして今尚、語り草となっている。

翌56年、高校卒業と同時に、大手製薬メーカー・塩野義製薬に入社するも、健康診断により結核の兆候が露見し、僅か三ヶ月で退社を余儀なくされる。

その後、漫画家として身を立てることを再度決意。若木書房より『爆発五分前』でデビューを果たし、石ノ森、赤塚が「トキワ荘」に入居したことから、つのだじろう同様、トキワ荘の通い組となった

また、石ノ森、赤塚らとの親交から、長谷自身、寺田ヒロオを総裁とする「新漫画党」の入党を希望するも、「漫画少年」での入選が極端に少なかったこと、実力的にまだまだアマチュアレベルを脱し得ていなかったことなどから、その希望は果たせず、その後は、川田漫一、徳南晴一郎、鈴原研一郎、ヒモトタロウ、江戸川きよしらとともに曙出版の専属作家として本格的に活動し、親睦サークル「+(プラス)画人会」を結成。以降、『少年空戦王』『野球の鬼 王選手』『野球残酷物語 球場は墓だ』『忍法帖1964』『亡霊1964』等、戦記、野球、アクション、ホラーと様々なジャンルの描き下ろし単行本を執筆する。

暫し、SNSの泡沫ユーザーらによって、曙出版が『おそ松くん全集』や『赤塚不二夫全集』をはじめとする赤塚漫画の新書版コミックスを多数シリーズ化するに至ったことを、曙出版を主な活動拠点としていた長谷の口添えがあったからだと喧伝されているが、元々、赤塚の単行本デビュー作『嵐をこえて』(56年6月7日発行)は、曙出版からのリリースであり、社長の土屋弘とは、同郷(新潟)ということもあり、赤塚自身、何かと目を掛けてもらっていた。

事実、赤塚が曙出版で最後の描き下ろしとなった『消えた少女』(57年8月20日発行)以降も、『おそ松くん全集』『赤塚不二夫全集』(ともに68年刊行スタート)が刊行されるずっと以前に、『おた助くん』(全7巻)、『ひみつのアッコちゃん』(全6巻)等の貸本向け単行本が、引き続き曙出版から多数刊行されており、この指摘においても、全くの誤謬であることに疑いの余地はあるまい。

さて、このように、デビュー後、職業漫画家として、曙出版を中心に活動を続けた長谷であったが、これといった人気作を生み出すまでには至らず、1964年、藤子不二雄、石ノ森章太郎、つのだじろう、鈴木伸一といったトキワ荘OBらが設立した「スタジオ・ゼロ」の雑誌部にチーフアシスタントとして参加し、『オバケのQ太郎』『レインボー戦隊』といった人気作品の作画補助を担当することとなる。

また、同時期に赤塚不二夫が「スタジオ・ゼロ」に合流した流れから、1965年、赤塚の「フジオ・プロ」設立に加わり、以降、赤塚のアイデアブレーン、マネージメント、文章物を中心としたゴーストライター、幼年向け作品やイラスト等、赤塚のサブストリーム作品の代筆を受け持つ傍ら、70年を挟んだ数年間においては、『ねじ式』の世界観にバカボンのパパが主役として紛れ込む『バカ式』、『ゲゲゲの鬼太郎』と『巨人の星』の登場キャラクターをクロスオーバーした『ゲゲゲの星』といったパロディー漫画を盗作漫画と称し、複数本に執筆する。

赤塚不二夫名義でのゴースト仕事で特筆すべきは、「ニャロメのうた」や「ココロのシャンソン」といった赤塚キャラクターのイメージソングの作詞であろう。

元々趣味的に現代詩を書いていたというだけあって、短いセンテンスの中にも、リスナーの心をグッと捉えて離さない独創的なワードが幾層にも重ねられ、そのセンスは、井上陽水の叙情的フォーク「桜三月散歩道」(作詞/長谷邦夫・作曲/井上陽水)にて結実する

「桜三月散歩道」は、日本初のミリオンセラーとなったアルバム「氷の世界」に収録され、「氷の世界」が日本作詩大賞・LP賞を受賞したことから、長谷もメダルを授与するという栄誉に輝く。

また、傑作にはなり得ていないものの、筒井康隆の長編小説『東海道戦争』を朝日ソノラマの「サンコミックス」レーベルより、コミカライズしたのも「バカ式」の執筆に前後してのことであった。

その後も、「赤塚不二夫責任編集」と銘打った「まんがNo.1」の実質的編集長を、多忙な赤塚に代わって務めたほか、「馬鹿なことを真面目にやろう」のスローガンの下、発足した「赤塚不二夫と全日本満足研究会」のレギュラーメンバーとして活動するなど、92年に至るまで、赤塚の創作、もしくはパフォーマーとしての活動を陰日向となって支えていった。

赤塚が体調を崩し、長期入院していた1986年には、集英社主催によるギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」の審査を、審査委員長である赤塚に代わって務めており、そういったエピソードからも、赤塚と長谷は一心同体の存在であったことが窺えよう。

1960年代後半以降、貸本文化が衰退してゆく中、多くの漫画家がその活躍の場を奪われ、廃業してゆく。

それは、長谷が名を連ねていた「+画人会」も例外ではなく、貸本漫画家としての未来に希望を抱けなくなった長谷は、藤子不二雄、石ノ森章太郎、つのだじろうらが重役を務めるスタジオ・ゼロ雑誌部のチーフアシスタント、更には、赤塚のトータルマネージメントを引き受けることで、大手出版社と距離の近い環境にて、浮上の切っ掛けを得ようとするものの、現状は厳しかった。

だが、そこは、長谷の転んでもただでは起きない所以たる所で、超売れっ子となった赤塚をサポートすることで、表現者としての存在意義を見出すべく、奮闘したという。

つまりは、赤塚のスタッフとして、フジオ・プロに身を委ねることにより、漫画業界において生きながらを得たということだ。

そういった意味でも、長谷が「最も興味のある人間(漫画家)は、赤塚不二夫である」と公言していたのも実に頷ける。

1970年代、赤塚が、夜の新宿を舞台に、様々な業種の異才、鬼才らと交友を重ねる中、長谷もそうした酒の席に臨席しつつも、フジオ・プロにヘッドスタッフとして所属する中、サラリーマンの平均月収以上という安定した収入を得られるようになったことで、ジャズ、演劇、映画鑑賞、読書と一層サブカル趣味の世界へと耽溺してゆく。

だが、そうした長谷の趣味、素養がフジオ・プロのアイデア会議の際、赤塚の執筆へのモチーフになったであろうことは想像に難くなく、赤塚自身、「情報屋の長谷がいるからこそ、僕は漫画を描いていられる」と常々語っていたほど、赤塚の長谷への信頼度は絶大なものであったと言えるだろう。

後に稀代のエンターティナーとして国民的人気を博すことになるタモリこと森田一義と邂逅し、赤塚に紹介したのも、長谷が、ジャズ・フュージョンの山下洋輔トリオの熱烈な追っ掛けであり、また山下と交流を結んでいたことがその原点にあったと言っても差し支えあるまい。

ただ、長谷の最大の欠点は、赤塚とは違った意味で金遣いが荒く、平均サラリーマンをも上回る収入を得ていながらも、蓄財が苦手なタイプであり、自らの趣味とは無縁な飲食費や遊興費の一切合切を全て赤塚にたかっていた。

つまりは、赤塚のように、印税や著作権使用料等、莫大な不労所得が入ってくるといった生活環境ではなかったのだ。

そのため、仲間内では「お呼ばれおじさん」という有り難くない仇名を頂戴し、業界内においても、我が物顔で振る舞うそのキャラクターから「赤塚の威を借るキツネ」なるレッテルを貼られるなど、その人物評は芳しいものではなかった。

その趣味人としての生き方は、晩年に至るまで続き、先にも述べた山下洋輔トリオのほぼ全てのツアーに参加していた以外にも、劇団「青い鳥」のオブサーバーにしてスポンサーの一人として名を連ねるなど、妻子持ちの身でありながら、その行動は常にフレキシブルであった。

だが、そうした趣味人としての活動も、ある日突然、ピリオドを打たれることになる。

その性格上の問題から、社長である眞知子夫人や、番頭役である元虫プロ常務である桑田裕との確執から、社内での立場が危うくなり、フジオ・プロを解雇されることとなる。

フジオ・プロ設立から加わり、27年目を迎えた1992年のことであった。 

長谷にしてみたら、長年の女房役である自分を赤塚が引き留めるであろうことは必至であり、擁護してくれるのは当然であると信じて疑わなったに違いない。

だが、赤塚も過度の飲酒により、この時期、情緒も不安定になっていたのであろう。

他人の感情にヅケヅケと土足で踏み込んで来る長谷に対し、赤塚が煩わしさを感じるようになったことは想像に難くなく、長谷の退職に関しても、致し方ないというスタンスを示していたという。

周囲から何と言われようとも、常々「俺も赤塚不二夫だ!」と公言して憚らないほど、赤塚とは不離一体の存在であると自認している長谷にとって、赤塚の態度は、自我の崩壊にも繋がるものであったと見て間違いないだろう。

その結果、長谷は淀んだ感情の全てを赤塚にぶつけるに至り、終生に渡って、愛憎入り混じりで、赤塚を批判し続けたことも合点が行く。

暫し、ネット等で、長谷が赤塚サイドに、膨大な赤塚作品の中には、自分が代筆した作品もあるのだから、その印税分をこちらに廻して欲しいといった旨の文面を各出版社に送り、それが原因で、赤塚、延いてはフジオ・プロ側との確執は更に深まったとのエピソードが流布されるが、赤塚と袂を分かった以降、長谷が代筆した赤塚作品はいずれも絶版状態にあり、そのような要求を長谷がしたとは、冷静に考えて違和感を覚える。

そもそも、長谷による『ニャロメの地震大研究』や『ニャロメの異常気象大研究』等のカルチャーコミック、『孫子』『五輪書』、『ビジネス風林火山』に代表されるビジネスコミック等の代筆作品は、赤塚と長谷が訣別されたとされる1992年以降、全てが絶版状態にあり、印税分を要求しようがないのだ。

まさか、1994年以降、復刻ブームに乗じ、竹書房、講談社、小学館、ごま書房等からシリーズ化された『天才バカボン』『おそ松くん』『もーれつア太郎』『ひみつのアッコちゃん』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』等の代表的な赤塚ワークスを自らの作品であると、各版元に訴えたとでもいうのか……。

いや、それはないだろう。

いくら長谷が、永年に渡り、赤塚作品のアイデアブレーンを務めていたとはいえ、その断片的なアイデアを一本のドラマとして漫画に落とし込んでいたのは、他ならぬ赤塚不二夫だ。

赤塚周辺のみならず、業界内でも、決して芳しい評判があったとは言えない長谷であったが、一表現者として、長谷がそこまで厚顔無恥であったとは信じ難い。

長谷作品をろくに読んだことすらない長谷シンパの御仁には、『バカ式』『アホ式』『マヌケ式』(いずれも曙出版)刊、もしくは『少年マネジン』(実業之日本社刊)といった長谷のパロディー作品、延いては、赤塚ナンセンスに歩み寄った『ニャゴロー』(曙出版刊)、多忙な赤塚に代わって代筆した「月刊テレビマガジン」版『天才バカボン』シリーズ等を改めて通読して頂きたい。

優劣の差については、ここでの言及は避けるが、少なくとも、赤塚作品と長谷作品における作風の違いは、タッチ、ストーリーテリングも含め、一目瞭然ではあるまいか……。

ただ、そうした事実を踏まえ、確実な情報として書けることは、2005年に、小学館とコンテンツ・ワークスより『赤塚不二夫漫画大全集』がオンデマンド出版された際、赤塚がキャラクターデザインを担当し、長谷がその全てを執筆した『しびれのスカタン』(全3巻)の印税分を、「週刊少年サンデー」最後の赤塚番記者であり、武居俊樹とともに、底本となる『赤塚不二夫漫画大全集 DVD−ROM』の編集に携わった赤岡進へ要求し、支払われたというエピソードだ。

これは底本含め長谷への許諾なく収録されたことに原因があり、版元側のミスである。

従って、長谷による各出版社への印税要求のエピソードは、この事実が伝言ゲームとして、面白可怪しく伝わった風説の流布であったと、筆者は考えている。

因みに、長谷は、この『赤塚不二夫漫画大全集 DVD−RОM』を発売するに辺り、小学館が三〇〇〇万円の赤字見込みで発売に踏み切ったとブログに記しているが、商業性を第一に捉えている大出版社がそんな大赤字を前提に刊行するとは到底思えない。

これも、赤塚マンガの不人気ぶりとその憐憫さを印象付けたい長谷による悪意に満ちた記述と見て間違いあるまい。

実際のところ、もし全てが売れなかった場合、三〇〇〇万円の赤字となるというのが正解であろう。

筆者は、『赤塚不二夫漫画大全集 DVD−RОM』(税込・73500円)が発売された2002年当時、ローソンのCSほっとステーションにて、発売一ヶ月にして、限定一九三五(赤塚の生誕年である1935年と掛けている。)セットの內、既に七〇〇セット以上を販売したというアナウンスを耳にしている。

その後、このDVD−RОMが絶版品切れ状態となった際、ネットオークション等でプレミア価格で取り引きされていた事実を鑑みると、長谷の印象操作も虚しく、このDVD−RОMが小学館サイドに経済的な損失を与えたとは思い難い。

フジオ・プロ退職後、長谷は、1993年の暮れに飛鳥新社が新創刊したコミックペーパー「日刊アスカ」の創刊に携わり、企画構成を担当するも、販売実績の問題から、鉄道弘済会より取次を棄却されたり、人気漫画家を招集出来ないといった、編集面での爪の甘さがネックとなり、半年足らずで廃刊の憂き目に遭う。

その後、2000年代からは、赤塚不二夫の元ブレーンという肩書きから、大垣女子短期大学、椙山女学園大学、中京大学のデザイン美術学科、表現文化学科等のマンガコース、宇都宮アート&スポーツ専門学校の小説・シナリオ科の大衆文藝演習の講師を務めることになる。

因みに、大垣女子短期大学を教鞭を執るまでに至ったのは、長谷にとって古くからの友人であり、同学科で特別講師を務めていた漫画家・しのだひでおの推挙があったことも要因として大きい。

このように、独立して以降、漫画家というよりも、講師として後進の指導にあたっていた長谷だったが、好事魔多し。

この頃から、長谷は漫画研究家、漫画評論家という立ち位置から、漫画関連のシンポジウム等にパネラーとしてお呼びが掛かる機会が一気に増えた。

人気少女漫画「キャンディ・キャンディ」の著作権の帰属を巡る裁判が、原作者である水木杏子、作画を受け持ったいがらしゆみことの間で執り行われ際、「マンガは誰のものか!?」と題されたフォーラムが京都精華大学・マンガ文化研究所の主催により開催され、パネラーとして登壇するのだが、ここで長谷は、自身の立場に大きく味噌を付けることとなる。

「キャンディ・キャンディ」裁判において、本来ならば、門外漢である筈の長谷が、水木杏子に対し、事実無根の虚言を交えて、その名誉を著しく毀損する発言を弄し、この一件が大きくクローズアップされる。

加えて、水木への誹謗を自身のブログにて書き連ねてしまったことで、水木サイドから弁護士を通じ、抗議を受ける事態へと発展してしまったのだ。

長谷は、その時裏覚えで耳にし、何の検証もなく、書き綴った水木への中傷の数々に対し、水木本人からクレームが届くものの、一切無視をし続け、水木の弁護人から抗議の文書が届いた際に、漸く事の重大さに気付き、該当記事を削除したという。

その後、長谷が水木サイドに対する謝罪文をブログに掲載したことで、事なきを得たというが、そうした虚言が事実へとすり替わって、独り歩きしてしまう危惧を感じずにはいられない。

そんな長谷の講義が、低レベルな内容であると一部の事情通から批判を受けていたのは事実だ。

それは、講師として知識面や技能面において、稚拙さを禁じ得なかったことも含め、そうした虚言や事実誤認による風説を公の場において恒常的に流布していたことが問題視されての結果と言えるだろう。

虚言という観点から、長谷を振り返った際、取り分け忘れ難いのが、『天才バカボン』を「週刊少年マガジン」から「週刊少年サンデー」に連載権を譲渡させた、俗に言う「バカボン移籍事件」についてであろう。

この移籍事件は、1969年当時、『あしたのジョー』の大ヒットにより、少年漫画週刊誌No.1の座を「マガジン」に奪われ、部数低迷に喘ぐ「サンデー」復活の起爆剤になるべく、『バカボン』を『もーれつア太郎』とのダブル連載にすることで、「マガジン」の『バカボン』読者を「サンデー」に誘導しようという目論見によるもので、これは長谷による発案だった。

無論、「サンデー」連載の『ア太郎』が、ニャロメのブレイク前で、『バカボン』とのジョイントで『ア太郎』人気を盛り上げようという狙いもその前提としてあったことは言うまでもない。

だが、長谷は、後年になってこれを否定。長谷は、この時、赤塚のマネージメント役から降りており、あくまでチーフアシスタントという立場であったと言及し、『バカボン』移籍には全く関与していないという旨を至るところで主張していたが、これには理由がある。

1987年より、講談社によるアート通信講座「講談社フェーマススクール」マンガコースのインストラクターを務めており、過去の話とはいえ、『バカボン』の移籍により、自身が講談社側に不利益を齎した張本人にあるという事実は、どうしても伏せておきたかったに違いない。

そんな長谷も、2013年、脳出血で倒れ、幸いにも一命を取り留めるものの、後遺症による体調不良から、その後、栃木県高根沢町の特別擁護老人ホームに入所。

事実上、漫画家としての活動に終止符を打つことになり、2018年11月25日、うっ血性心不全により、同町内の病院にて、その生涯の幕を閉じることとなった。

今や天上人となった赤塚と長谷は、再会し、何を語り合っているのであろうか……。

赤塚と決別し、数年を経た1999年、「小説新潮」にて、赤塚との出会いから別れを綴った手記を発表する。

今、手元にその資料がないため、正確な一文ではないが、その締め括りに「夕方6時に新宿のバーで待っている」と、赤塚へのメッセージが綴られている。

これは、重度のアルコール依存症に陥り、昼夜問わず、のべつ幕なしに過度の飲酒を繰り返し、漫画の執筆に支障をきたすようになった赤塚への、未だ持ち得る愛情を込めたメッセージであると、個人的には理解している。

赤塚はそれにどう応えるのか……?

執筆を一段落させた赤塚が、新宿ではないが、天国のバーで、夕方6時に再会している光景を思い浮かばずにはいられない。