文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

赤塚不二夫とロックンロール 1973年、矢沢永吉、キャロルとの邂逅

2023-04-06 20:49:51 | 論考

 

今回は、赤塚不二夫と、矢沢永吉率いる「ルイジアンナ」や「ファンキー・モンキー・ベイビー」のヒットで知られる伝説のロックバンド・キャロルとの関係性について、知り得る範囲内ではあるが、赤塚がキャロルに関心を示す至った経緯をはじめ論述して行きたい

赤塚不二夫とキャロル、何とも意外な組み合わせに疑問を抱く御仁もおられると思うが、赤塚は、かつてキャロルの全盛時代、私設応援団長を務めていたことがあった。

以前、筆者が、元メンバーであるリードギターの内海利勝氏にキャロル時代のことを伺った際、写真家の篠山紀信、ファッションデザイナーの山本寛斎、そして漫画家の赤塚不二夫といった当代きっての一流クリエイターが後ろ楯になって応援してくれたことも、キャロルがメジャーになる助走となったとの述懐を頂いた。

勿論、キャロルのプロデュースを務めたロカビリー歌手のミッキー・カーチス、所属事務所「バウハウス」代表取締役の漆原好夫やマネージメントを務めた中井國二(元渡辺プロダクション所属で、ザ・タイガースのマネージャーだったことでも知られる)らの辣腕ぶり、後にドキュメンタリー映画「キャロル」を製作する元NHKディレクター・龍村仁の存在も大きかったことは言うまでもない。

そもそも生前の赤塚不二夫は、専ら美空ひばりや軍歌を愛聴しており、それらを除けば、初期のエルビス・プレスリーやザ・ビートルズなどを一時期耳にしていたともいうが、基本、ロックやモダン・ジャズに関しては、ただ音がうるさいと思うだけだと語っていたほど、音楽的関心度は至って低かった。

そんな赤塚が、キャロルに対し、強く興味を抱くようになったのは、新宿を拠点に飲み歩くようになった69年頃、元々赤塚マンガのファンでもあったジャズ評論家の相倉久人との邂逅があり、相倉から、当時、ザ・フラワーズを率いていた、ロックシンガーの内田裕也を紹介されたことに端を発する。

元来イケイケな無頼漢である内田と、シャイで小心者の赤塚とでは、まさに水と油といった相性である筈だが、不思議と気が合い、その後も長く交流を重ねる間柄となった。

1971年、内田は、新進気鋭の作曲家であり、音楽出版社「アルファ・レコード」を主宰する村井邦彦、ロカビリー・ブームを牽引し、この時、自身のバンド、サムライズを解散したばかりのミッキー・カーチスらとともに新レーベル「マッシュルーム・レコード」を設立する。

マッシュルーム・レコード設立に際し、村井邦彦やミッキー・カーチスには、どういった意識があったかは不明だが、内田に限っていえば、同レーベルにて、プロデューサーという立場を活用し、若いロックミュージシャンを育成したいという願望が常にあったようだ

1970年、嵐のようなグループサウンズ・ブームが過ぎ去り、内田、ザ・モップスの鈴木ヒロミツ、はっぴいえんどの前身・エイプリルフールの松本隆、後に「ナイアガラレーベル」を主宰する大瀧詠一といった、当時のロックシーンをリードしていたミュージシャンらによる「ロックは日本語で歌うべきか英語で歌うべきか」をテーマに据えた、所謂「日本語ロック論争」が勃発する。

70年当時、国内におけるロックシーンは、まだまだ定着化しておらず、今となっては、議論の俎上に乗せるまでもないこんな論争がファンの間で耳目を集めるほど、観念的にも行き詰まっていたのだ。

それから数年が経った1973年、一向にロック熱が高まらないでいる状況を打破すべく、内田が立ち上げたのが「日本ロックンロール振興会」なる団体なのだ。

そもそも「日本ロックンロール振興会」は、この二年程前(71年)、グループサウンズ・ブームを牽引したザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズのピックアップメンバーがロックバンド・PYGを結成した際、内田裕也、かまやつひろし、写真家のケン影岡らが音頭を取り発足した「ロック・セクション❜71」がその母体となっている。

「ロック・セクション❜71」は、当時、ロック人口が増えつつあった我が国において、本格的なロックイズムの普及を旗印の下、PYGの中心に、グループサウンズの残党組からは、ザ・ハプニングス・フォー、ザ・ゴールデン・カップス、ミッキー・カーチスとサムライズ、GS以外においても、シローとブレッドバター、ロック・パイロット、アラン・メリルといった新進気鋭のアーティストがメンバーとしてその名を連ねていたものの、ロックファンの間で、渡辺プロダクションによるプロデュースで、商業主義の権化と見做されていたPYGが支持されるムードが高まることなく、またPYGそのものが商業的成功を収めるには至らなかったことから、組織そのものが空中分解を余儀なくされてしまった。

GSの二大アイドルと謳われた沢田研二、萩原健一であるが、その両雄が並び立つことはなかった……。

即ち、「日本ロックンロール振興会」は、そんな深い挫折があった上での再出発でもあったのだ。

内田の中で、そうした忸怩たる過去を踏まえた上で、日本のロックの未来のためにも、「ロックンロール・セクション」改め「日本ロックンロール振興会」の活動を本格化したい。

そのためにも、会長には若者に影響力のある著名人を名誉会長として迎えたい。

当初は、作家の五木寛之、イラストレーターの横尾忠則、エッセイストの植草甚一等も候補に挙がっていたというが、そうした著名な文化人よりも、73年当時、サブカルチャーにおけるオピニオンリーダーとして、若者達に浸透していたのは、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」「週刊文春」と、週刊誌4本の連載を持つ超売れっ子の漫画家であった赤塚不二夫にほかならないという内田独自の判断より、赤塚に会長職としての白羽の矢を立てたのだ。

1972年12月20日、日本フォノグラムより「ルイジアンナ」を引っ提げ、キャロルがデビューする。

キャロルは、川崎在住の矢沢永吉(ベース&ヴォーカル)を中心に、ジョニー大倉(大倉洋一、サイドギター&ヴォーカル)、内海利勝(リードギター)、今井英雄(ドラムス、後にユウ岡崎と交代)が集まったインスタントバンドであったが、結成から二ヶ月後の10月1日、当時ヤングの人気者であった愛川欽也がMCを務めるフジテレビの若者向け生番組「リブ・ヤング!」でメディア初登場。フィフティーズ・スタイルのロキシー・ファションをテーマとした企画で、この時キャロルは、テレビ局側からオファーを受けてではなく、あくまで一般公募での出演だった。

とはいえ、キャロルは、ツイスト・パーティのコーナーでは、ハンブルク時代のビートルズを彷彿とさせるリーゼントヘアに黒革ジャン、黒革パンツというスタイルで登場。「ジョニー・B・グッド」や「グッド・オールド・ロックンロール」といった50年代ロックンロールの名曲をダイナミック且つグルーヴィーなノリでパフォーマンスし、観る者を圧倒した。

その後、この番組を観ていたミッキー・カーチスがキャロルに惚れ込み、自らプロデュースを申し入れ、早速、メンバーのジョニー大倉、矢沢永吉作詞作曲による「ルイジアンナ」をレコーディング。以降、彼らの伝説的な活躍は説明するまでもないだろう。

だが、このレコーディングまでには、すったもんだがあった。

実は、前述の「リブ・ヤング!」には、内田裕也がゲスト出演していた。

内田といえば、ヒット曲のないシンガーと揶揄されながらも、日本のロックンロールの開祖的存在であり、その影響力は甚大だ。

番組共演を機に、初対面ながら内田との距離を縮めた矢沢は、内田にキャロルがプロデビューするに辺り、「先生!僕らを男にして下さい!」つまりは、バンドをプロデュースして欲しいと懇願。意気に感じた内田はこれを快諾する。

しかし、その後、ミッキー・カーチスの熱意に圧倒され、加えて、ミッキーのプロデュース案が具体性を帯びていた点から、矢沢はミッキーのレーベルでのデビューに鞍替えする。

無論、内田がこの経緯に怒り心頭となったのは言うまでもない。

だが、その後、呼び出した焼肉屋にて、矢沢が丁寧に詫びを入れたことで、内田の怒りも収まり一件落着。その際に矢沢は、内田に「自分に非があるので、一発殴って下さい」と伝えたともいう。

矢沢の男としての潔さを気に入った内田は、矢沢、延いてはキャロルが間違いなくビッグになると確信し、陰ながらキャロルを応援することを決意。以降、関西でメキメキと頭角を現していた桑名正博率いるファニー・カンパニーとキャロルをジョイントさせることで、ロックンロール業界のボトムアップを図ろうとする。

つまり「日本ロックンロール振興会」は、キャロルの登場ありきで発足したようなものなのだ。

実際、内田は至る所で、キャロルを紹介し、自身がプロデュースするロック・コンサートには、必ずやキャロルをステージに立たせた

1973年2月28日、渋谷の西武劇場で開催され、後に内田のライフワークとなる「第一回ニュー・イヤーズ・ワールド・ロック・フェスティバル」にもキャロルは出演し、新人ながらも他の名だたる共演者を圧倒したそのライヴ・パフォーマンスは、今尚語り草となっている。

彼らは、初の大舞台への緊張をほぐすべく、出番前、大量に飲酒を重ね、またその状態で超絶的ともいうべきハードな演奏を披露した結果、極度のトランス状態に陥ってしまい、何と、ステージ上で失神してしまったのだ。

つまりは、キャロルに限っての失神は、グループサウンズ時代、ザ・カーナビーツやジ・オックスといった人気のアイドルバンドが営業で失神していたパフォーマンスとは異なり、その激烈なライヴが内発的衝動となって発生した、前代未聞のドキュメントでもあったのだ。

そんなキャロルと赤塚不二夫が邂逅を果たしたのが、73年1月23日、当時新宿区河田町にあったフジテレビの第1スタジオで、東京12チャンネル系の「私の作った番組     マイテレビジョン     赤塚不二夫の激情No.1」(1月25日放送)の収録に際してであった。

この時、石川社中の総勢一三〇名の貴婦人方が花笠をかざす下稽古の最中で、キャロルもまた、デビュー曲「ルイジアンナ」を懸命にリハーサルしていた。

「赤塚不二夫の激情No.1」で、ディレクターを務め、当時テレビマンユニオン所属だった佐藤輝は、ミッキー・カーチスよりデビュー間もないのキャロルを紹介されていた。

佐藤は、その時点ではまだプレイすら聴いていないにも拘わらず、高いヴォルティジで将来のヴィジョンを挑戦的に語る矢沢のキャラクターに圧倒され、赤塚の承諾のもと、その一週間後の収録予定である「激情No.1」に出演させてしまう。

もしかしたら、赤塚もまた、事前に内田と会った際に、あれこれキャロルについて窺っていたのかも知れない。

赤塚はキャロルについて、彼らとの対談の際、このように語っている。

赤塚「局の人(名和註・恐らく佐藤輝のことだと思われる。)と打ち合わせしていて、歌手を決めていくうちに今キャロルがすごくいいって言うんだ。それまで僕はキャロルって知らなかったんだけど、録画撮りでつきあって、いっぺんにファンになっちゃった。」(「ロックンロール+マンガ=???」/「ガッツ」73年9月号)

また、キャロルは初めて見た時の衝撃については、このような言葉を残している。

赤塚「君ら(名和註・キャロル)の歌を聞いてて面白いのはね、言葉の意味より、感じで歌詞を作るってことね。僕もセリフに凝るほうだけど・・・・・・。最初、英語かと思ったら、よく聞くと日本語なんだ。(笑)」

デビューから暫くの間、キャロルの放つオリジナル曲の数々は、これまでの日本人の感覚で作られた楽曲とはフィーリングが異質だと、評論家や音楽ファンから頻繁に評されていた。

それは作詞、作曲を受け持ったジョニーにしても、矢沢にしても、ビートルズやローリング・ストーンズの撒いたロックン・ロールの種から芽吹いたそのスピリッツを自身の原点として捉えていたからに他ならない。

当時、キャロルのファンだった中学生が、代表曲である「ルイジアンナ」や「ファンキー・モンキー・ベイビー」を聴き、「僕らが知らないマニアックな洋楽をそのまま日本語に訳したものかと思った」と語っていたが、まさに言い得て妙な賛辞である。

矢沢はこの対談で、赤塚に次のような悩みを吐露している。

矢沢「ファンから色々と手紙で言ってくるんですよ。ここはこうしたほうがいいとか。」

それに対し、赤塚はこうアドバイスする。

赤塚「漫画にも共通すると思うんだけど、読者のご機嫌をとっちゃダメなんだよね。ナメられちゃうわけだよ。こんなものでどうでしょうかって出すと、ダメだ、もっと面白いものを持ってこいってことになるんだ。ザマアミロって感じで出すと、面白いですねってくるわけだよ。(笑)」

要するに、逐一読者の要望を伺ってばかりだと、作家としての個性が損なわれてしまう。

訳のわからないことを書いてくる読者など無視して、読者よりも優位に立つ。少し前に歩むことが大切であり、それは音楽に限っても同じことだと、赤塚は結んでいる。

だが、矢沢はそうは思いつつも、自信がないとも告げる。

また、現段階では、与えられたものをガムシャラにやってきただけであるとも。

その後の矢沢の圧倒的なキャラクターを見ると、何だか別人のように見えなくもないが、昨日今日までキャバレーのドサ回りをしていたようなバンドが一夜にして、時代の最先端に立つロックバンドとして世の注目を集めてしまったのだから、矢沢としても、現状への戸惑いや一歩先の未来への不安など隠し切れない部分もあったに違いない。

むしろ、この時の赤塚の発言の方が矢沢のパブリック・イメージと重なり合って見えるかのようだ。

しかし、赤塚はそんな矢沢に対し、次のような言葉をぷつけている

赤塚「でも、自分たちで作詞作曲してやってきたんだろ。与えられたものとは言えないんじゃないか。」

その上で、ロックンロールを離れず、毎回、リスナーにショックを与える新鮮味があればいいと語り、ひたすらに前進あるのみだとキャロルを奨励する。

赤塚が述べるロックンロールを離れないというのは、住宅に例えれば、土台にあたる部分は非常にオーソドックスなものを下敷きにして、その上で新たな冒険を繰り広げてゆくという意味だ。

そういう意味において、矢沢は敬愛するビートルズを手本にし、音楽をやるからには、人に何と云われようとも、彼らのようなスターになりたいと、その夢を語る。

赤塚はそんな矢沢やキャロルに対し、烈々たるロマンを感じたようだ。

事実、この頃の赤塚は、自身の漫画の中で、キャラクターにキャロルを絶賛するセリフや歌を幾度となく喋せている。

『天才バカボン』では、ノラウマが「ルイジアンナ」を三味線で弾き語りをしたかと思えば(「ノラウマ社員の無責任なのだ」/「週刊少年マガジン」73年20号)、『おそ松くん』では、爆発の被害に遭ったイヤミが這這の体で「ファンキー・モンキー・ベイビー」を歌ったりと(「ウソ発見爆弾だス」/「週刊少年キング」73年47号)、画稿越しからも、キャロルに対する傾倒ぶりが如実に伝わって来る。


バカボンのパパもまた、キャロルの大ファンであることを語り、バカ田大学時代のニックネームがキャロルであったことも述懐している。(大学卒業後は、東洋工業(現・マツダ)に入社し、マツダ・キャロルを作る仕事に就く予定でもあった。)

かつて、パパとバカボンがハードロックにエスノックをフュージョンした怪作、モップスの「御意見無用」の一節である「えーじゃないか   ええじゃないか!」とおどけるシーンがギャグとして挟み込まれていたり(「週刊ぼくらマガジン」71年20号)、彼らにとって最大のヒット曲となった「月光仮面」のパロディーをウナギイヌのテーマソングに採用したりと(「週刊少年マガジン」72年36号)、一時的ではあるが、モップスネタを『バカボン』に仕込んでいたこともあった。

だが、キャロルを扱ったギャグの頻度はモップスのそれを遥かに凌いでおり、その熱中度をとって見ても、キャロル私設応援団長の名に恥じない肩入れぶりだ。

赤塚とキャロルは、その後も「内田裕也大芸能生活15周年記念リサイタル・ロックンロールBAKA」(73年9月10日、於・中野サンプラザ)でも、ともにゲストとして招致されるなど、公の場において、複数回共演する。

「ロックンロールBAKA」は、9月12日にも渋谷公会堂でも催され、この時既にソロアーティストとなり、意気軒昂な活躍を見せていた元ザ・タイガース、元PYGの沢田研二がゲスト出演。赤塚が出演した中野サンプラザにおいては、後にタモリが所属することになる田辺エージェンシー社長、元ザ・スパイダースのリーダー・田辺昭知や、PYGを前身とする井上尭之バンド、赤塚とは「まんが海賊クイズ」の共演を機に昵懇の間柄となった黒柳徹子、更には、日本シャンソン界の母であり、「ブルースの女王」の名を欲しいままにした淡谷のり子も来賓として駆け付けた。

このリサイタルでは、赤塚はポスターやチケットのイラストを無償で提供し、赤塚やキャロル以外にも、後援が赤塚の他、アントニオ猪木、倍賞美津子、梶芽衣子、篠山紀信、藤田敏八、横尾忠則といった豪華メンバーで、内田の多彩な交友関係の一端が垣間見れよう。

1975年4月13日、メンバー内の確執から、小雨が降り頻る日比谷野外音楽堂で、キャロルは解散ライヴを開催する。

アクシデント(スタッフによる演出)により、ステージのセットが炎上し、「CAROL」と書かれた電飾が焼け崩れてしまう様は、まさしく青春の燃焼そのものを象徴しており、今尚伝説として日本のロック史に名を刻んでいる。

尚、キャロル解散後、元メンバーらと赤塚の間に交流があったというエピソードは、寡聞にして一切聞かない。

だが、赤塚にとってキャロルは、タモリと出会う以前、最も肩入れしたアーティストであったのは紛うことなき事実だ。

赤塚がタモリと邂逅を果たすのは、キャロル解散から二ヶ月程経ってからのことである。

因みに、藤井フミヤをはじめとする元ザ・チェッカーズの面々、元BOOWYの氷室京介ら、キャロルの大ファンであったことを公言して憚らないアーティストは大勢いる。

お笑いコンビのとんねるずもその一つだ。

そんなキャロルチルドレン、矢沢チルドレンのとんねるずが公開オーディション番組「お笑いスター誕生!」に出演した際、他の審査員達が、とんねるずが繰り出すパフォーマンスに対し、勢いだけの素人芸であるとジャッジを下す中、赤塚とタモリだけは、その面白さを絶賛したという。

また、石橋貴明の述懐によれば、赤塚とタモリの二人から、とんねるずはこのままのスタイルでやればいいというアドバイスも受けたそうな。

筆者は、そんな石橋の回想に触れ、かつて赤塚がキャロルに向けて語った同様のアドバイスを思い起した。

感性だけは過激にして生意気。一方で礼儀正しく、いつまでもピュアなハートを抱いている。

いつの時代にも、赤塚がそんな若者達に強いロマンと愛惜を抱いていたことに疑いの余地はあるまい。


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3 コメント

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赤塚不二夫氏とキャロル (傷天)
2023-11-01 20:47:04
流石に、良くご存知で!
ドラマーは、ウィキで参考にされたと思いますが、初期のドラマーは今井氏は、別人で今井英雄氏です。あのウィキを書いた人は間違いです、同じ名前のドラマーいますが、その人は80sのバンドの別人ですね。キャロル研究家の傷天と言います。https://note.com/joyous_hyssop765/n/n7d43abe6188e
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Unknown (douteinawa)
2023-11-02 11:01:17
傷天様

コメント&御教授、ありがとうございます。

キャロルにつきましては、あれほど一世を風靡していながら、詳細な資料に乏しく、後追いの私からしたら、未知なる部分がいっぱいあるんですよね。

そんな中、傷天様のブログを読ませて頂きましたが、どこよりも詳しく、キャロル関連では、ワクワクしながら、久方ぶりに拝読させて頂きました!

オリジナルメンバーの今井氏の名前が英雄氏であったなんて、まさにキャロル史を覆す記述ですものね😊

良い勉強になりました。
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ご丁寧な (傷天)
2023-11-02 13:17:07
御返事ありがとうございます、少しでも役だつと嬉しいです。キャロルに限らず、ウィキは便利ですが、書き込む人の予想もあるので間違いは良くあります。歴史書もリアルな出来事が、やはり重要だと思いますので、でも個人的には僕はキャロルより洋楽の50sロカビリー、R&Rマニアで詳しく英国も行きましたしバンドの友人もいます、友人とロカファンジンも出し、外国のマニアでもファンジンが話題になり僕もライターでしたが当時80s取り上げられました。キャロルは、あの記事でも半分は当初より削除しています、キャロル冒険の為に、かなり年数、¥も投資したり、当時のブート音源収集、生写真、ポスターは多数所有あります。キャロルは勉強しましたが、あれでも未知の世界は多数あります、元キャロルファンクラブの友人、メンバーのジョニー、ユウさんと友人の友人も今もいるので世に出ない情報は、僕も、たまにユウさんのライブ行くとお話しますね、それなりに把握しています、ご存知の赤塚さんの番組も最初は73年1月25日【木】に出演して2度出演しています、まだ相原誠氏のドラムですね、諸事情で出せませんが現在の今井氏の画像もありますが、全然イメージが変わり、音楽も違います、以前、ジョニーがラジオでⅮJしている時に、メールでキャロルの事質問すると本人が「彼は凄く良く知っているマニアだね」と言われた音源もありますね((´∀`*))公に言えないネタが多いです笑、流石キャロルです
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