文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

続々登場 幼女向け連載漫画『まつげちゃん』『ハッピィちゃん』

2018-08-20 17:10:34 | 第1章

『ナマちゃん』のスタートとほぼ同時に、「ひとみ」誌上で、『まつげちゃん』(58年10月号~61年4月号)の連載も始まった。

お転婆少女、まつげちゃんとその家族のほのぼのとした日常の風景を優しい視点で切り取った少女向けユーモア漫画である。

いつも朗らかで、大張り切りのまつげちゃんと、可愛いけれど、イタズラが大好きな弟のミミタンが巻き起こす珍騒動の数々が、何とも微笑ましく切り取られている。

時折、テーマに赤塚独自のコモンセンスを織り交ぜるなど、後に『ひみつのアッコちゃん』にも通底する清澄さとハートフルな幸福感を漂わせた作品で、美人で優しい、おきゃんなまつげちゃんに人気が集中。その評判ぶりから、「ひとみ」休刊後は、「りぼん」(61年7月号~12月号)へと継続連載された。

その後も、『ナマちゃん』、『まつげちゃん』と同時進行で、「りぼん」に『ハッピィちゃん』、「なかよし」に『あらマアちゃん』といった幼年向けの少女漫画を連載する。

いずれも、年齢層に合わせた作劇がなされ、『ハッピィちゃん』(60年3月号~61年6月号)は、『まつげちゃん』よりもちょっぴり幼い女の子を主人公にした、文字通り明るくハッピィな家庭漫画として描かれた。

いつも、みんなの心に夢と希望を振り撒くハッピィちゃんは、汚れを知らない心優しき天使だ。

『あらマアちゃん』(「なかよし お正月増刊号」60年1月15日発行、「なかよし」60年8月号~61年11月号他)は、長い三つ編みが印象的なチャーミングな主人公・マアちゃんと才色兼備なお母さんとのコミカルな間合いの駆け引きが、作品に絶妙な温度を与えている好編。短いページ数の中にユーモア漫画の定型をしっかりと押さえている。

『まつげちゃん』や『ハッピィちゃん』のような美少女を主人公にした生活漫画を執筆する一方で、その後赤塚は、コント形式の笑いをふんだんに織り込んだ少女漫画も多数手掛けるようになった。


記念すべき赤塚初の連載爆笑まんが「ナマちゃん」

2018-01-10 01:52:33 | 第1章

有名漫画家が急病になり、その掲載スペースに穴が空いてしまったため、石ノ森章太郎のところに、大至急原稿を描いて欲しいと、秋田書店の「漫画王」の名物編集者、壁村耐三(後に「週刊少年チャンピオン」の編集長を歴任)より依頼が舞い込んだのだ。

依頼内容は5ページのユーモア漫画だった。

石ノ森は、「その手の漫画なら、赤塚がいいんじゃないかな」と、即座に赤塚を推薦した。

赤塚のギャグ志向など知る由もない壁村は、赤塚への突然の推挙に一瞬躊躇するも、背に腹は代えられない状況の中、渋々それを承諾。「締め切りは明朝」とだけを言い残し、社へと戻って行った。

赤塚は日記帳を取り出し、描けそうなアイデアを探した。

そして、生意気なイタズラ小僧が喧嘩をしたり、柿を盗んだりする、そんなアイデアを石ノ森に語って聞かせた。

タイムリミットは二四時間以内。早速、赤塚はネームに取り掛かり、淀みなくペンを走らせてゆく……。

これまで石ノ森のアシスタントをしていた赤塚だったが、この時ばかりは、石ノ森が赤塚のアシストをしてくれたという。

また、『ナマちゃんのにちよう日』(「漫画王」58年11月号)というタイトルを考案してくれたのも石ノ森だった。

この辺りのエピソードは、「COM」誌上で手塚や藤子、石ノ森らと連作で発表された自伝的漫画『トキワ荘物語』(70年5・6月号)に詳しい。

有名漫画家の穴埋めで描いた読み切りの短編だったが、好評を得て、翌月号にも続けてもう一本掲載された。

その際、扉ページには、「連載爆笑まんが」の惹句が銘打たれ、赤塚の目を疑わせた。

タイトルも『ナマちゃんのにちよう日』から、この時『ナマちゃん』(「漫画王」58年12月号~61年3月号、「小学生画報」61年4月号~11月号、「まんが王」61年12月号~62年5月号)へと簡略化され、その後、足掛け四年もの長期連載を誇る、同誌の目玉作品となった。

生意気な子供が主人公だから、『ナマちゃん』と名付けられたこの作品は、チビだが、喧嘩が強く、腕白なイタズラ小僧のナマちゃんと、日和見主義だが、間が抜けていて、何処か憎めない子分のコンペ、コンペよりも年下で、後に『おそ松くん』で大活躍するチビ太のプロトタイプとなった元気いっぱいのきかん坊、乾物屋の息子のカン太郎を中心に、ガキ大将をやっつけたり、アルバイトにハッスルしたりと、大人も子供も巻き込んでのてんやわんやの大騒動を描いた生活ユーモア漫画で、その後の赤塚ギャグの原点として位置付けられるシリーズである。

特に、ナマちゃんが得意の頓知を利かせて、ガキ大将のゴロ七と丁々発止やり合う闘いの構図は、通常の児童漫画の物語範囲を超え、タフでなければ生きられない子供社会における生存競争の一端を道化の精神とない混ぜて痛烈に描き表すことにより、新たな笑いの振動を引き起こした。

因みに、『ナマちゃんのにちよう日』のストーリーはズバリこうだ。

とある日曜の昼下がり、おやつがなくなったナマちゃんは、退屈しのぎにマラソンを始めるが、それが家の中だったため、お母さんに大目玉を喰らい、表へと飛び出す。

外をうろつくナマちゃんは、家の中でお絵描きをしている子供を発見。描いた絵を見せてくれと、部屋の中へと上がり込み、無理矢理スケッチブックを奪い取る。

その絵を下手くそだと一刀両断したナマちゃんは、お手本とばかりに部屋の襖に船の絵を描き出す。

我ながら上手に描けたと自画自賛のナマちゃんは、この傑作をこんな汚い家に置いておくのは惜しいとばかりに、その襖を持って帰ろうとするが、襖を抱えて家を出ようとしたところを、その家のお母さんに見付かってしまい、またもや大目玉を喰らう。

大慌てで逃げ出したナマちゃんに、今度はボールが当たる。

女学生達が、バレーボールに興じていたのだ。

ボールを「こっちへ投げて」とお願いする女学生らをからかうかのように、ボールを反対側に蹴り飛ばすナマちゃん。今度は、女学生達の怒りを買い、追い掛け回されてしまう。

這這の体で逃げ切ったため、お腹を空かせたナマちゃんは、丁度その時、民家の庭にある柿の木に、真っ赤に熟した大きな柿が実っているのを発見する。

その柿をどうしても食べたいと思ったナマちゃんが、その時に起こした突拍子もない行動とは……?

実際、文字に起こしてしまうと、何とも他愛もないストーリーに見えてしまうが、テンポの良いコマ運びと予断を許さぬ飛躍で、最後まで一気に読ませてしまう赤塚ギャグ特有の疾走感をこの時既に感じさせる。

また、元気いっぱいのナマちゃんの一挙手一投足が実に威勢良く躍動しており、ナマちゃんのアクティブなチビッコギャングぶりには、僅か5ページという短いスペースから飛び出さんばかりの溌剌さがあった。

突発的に連載扱いとなった『ナマちゃん』は、回を重ねるごとに、読者に共感的な笑いを解放してゆく。

野球、喧嘩、海水浴、雪合戦、友達との旅行……。放課後の横丁や空き地、あるいは夏休みの海や田舎で、毎回繰り広げられるナマちゃん達の愉快なお祭り騒ぎは、限りなく自由で、とこしえに続いて欲しいと思わせる子供達の夢と冒険のひと時でもあった。

そして、新たな刺激に餓えていた当時の少年読者にとって、『ナマちゃん』こそが、従来の落語的な笑いに留まっていたユーモア漫画とは明らかに一味も二味も違う質を持ちながらも、彼ら自身の現実のディテールと密接に繋がったギャグ漫画であり、イタズラに明け暮れる腕白小僧のリアリスティックなバイタリティが、痛烈な笑いとなって余りある最初の飛翔体験だったと言えるだろう。

『ナマちゃん』の連載開始から、時間もなくして、同じく秋田書店発行の兄弟誌「冒険王」の別冊付録にて、『がらがらガンちゃん』(59年2月号)というガキ大将を主人公とした三話オムニバスの短編を執筆する。

長らくリスト漏れしていた作品で、これまで数ある赤塚関連の論評書においても、一切語られることがなかったが、明朗活発な主人公、ガンちゃんが、画面狭しと動き回る痛快さは、赤塚作品をスラップスティックという新たな領域に確実に踏み入れさせており、ユーモアからドタバタギャグへというエボリューションの一端を確認出来る一作だ。


寺田ヒロオの激励

2017-11-25 23:24:00 | 第1章

スランプに陥り、ペンも思うように運ばす、ともすれば、創作へのモチベーションさえも損ないかけた赤塚は、当時、西武新宿駅前にあり、後に交流を持つ先輩漫画家の冨永一朗の親族が経営していた老舗ジャズ喫茶「ラ・セーヌ」で募集している住み込みのウェイターにでもなろうかと思い立つ。

そして、既にトキワ荘を退出し、目白に住んでいた寺田ヒロオの下宿を、その時描きかけの少女漫画を持参し訪れた。

この時の状況を赤塚はこう述べている。

「もう僕はマンガ家になるのは、無理かもしれない。いっそのことマンガはきれいさっぱり諦めて、まったく違う仕事をやろう。たとえばボーイなんてどうだろう。そう思って「ラ・セーヌ」というジャズ喫茶に行って、ボーイの動きを観察してみたんだ。そうしたら、ボーイの動きが鈍い。なんだ、これなら僕にもできるって。それで僕は、寺田ヒロオに相談に行ったのだった。」

(『赤塚不二夫120%』アートン、99年)

もし、この作品が駄目だったら、もう漫画家からはきっぱりと足を洗おう。

そんな想いで持参した赤塚の原稿に目を落とし、じっくりと読んだ寺田は、赤塚にこうアドバイスをしたという。

「僕ならこれから、五本の作品が描けるよ。君は詰め込み過ぎだよ」

つまり、ページ数が限られているにも拘わらず、描きたいプロットを全て詰め込んで描いているため、テーマが一本に絞れていないことを、寺田は指摘したのだ。

この時、赤塚はトキワ荘の家賃を四ヶ月間滞納していた。

寺田はそのことを見越して、赤塚にその場で五万円もの大金を貸してあげた。

トキワ荘の家賃が一ヶ月、三千円だった頃の五万円である。

寺田の激励に支えられ、赤塚は、オリジナル執筆に情熱を注ぎつつ、来るべき日に備えて、夜はギャグのアイデアや物語のプロットをプールしていった。

日記帳に一つでも面白いと思えるアイデアを書き込むまで、寝ないという誓いを立てたうえでの日課だったため、突発的な原稿依頼にもネタに事欠くことはなかったという。

そして、この年の秋、赤塚にとって千載一遇のチャンスが訪れる。


石塚不二太郎・Uマイア・いずみあすか 石ノ森章太郎、水野英子との合作作品

2017-11-24 23:13:00 | 第1章

この間、前年の「石塚不二太郎」名義で、石ノ森章太郎との合作による描き下ろしのミステリーアクション『その仮面をとれ』(若木書房、4月20日発行)を執筆した流れから、フレキシブルなエディット感覚に定評のある丸山昭が、石ノ森と赤塚、既に講談社でその才能を開花させていた水野英子との合作をプロデュースすることとなる。

そのプロジェクトにより、石ノ森、赤塚、水野の三人は、ファラオの時代を舞台に、エジプトとエチオピアという二つの国によって引き裂かれた若い男女の悲しい愛のドラマ、ジュゼッペ・ヴェルディの『アイーダ』(原案・オギュスト・マリエット)を翻案した『星はかなしく』(「少女クラブ」58年8月号別冊付録)や、『旧約聖書』の「士師記」を原典とした歌劇で、神から怪力を授かったサムソンの復讐と悲劇の叙事詩『サムソンとデリラ』をコミカライズした『赤い火と黒かみ』(「少女クラブ」58年3月号別冊付録)、石ノ森がアイデアを練り、考案したストーリーで、可憐な少女が家族とともに殺人事件の謎に挑む推理サスペンス『くらやみの天使』(「少女クラブ」58年10月号~59年3月号)といった作品を、U・マイア名義で発表した。

その他にも、石ノ森との合作では、「いずみあすか」名義で、『ちりぬるを』(「少女クラブ お正月まんが増刊号」58年1月15日発行)、『そしてミヤはいなくなった』(「少女クラブ」58年3月号)、『消えてゆく星』(「少女クラブ」58年1月号)をいずれも「少女クラブ」本誌や別冊付録等に執筆することになるが、U・マイア名義の作品では、ネームと構図は全て石ノ森が担当したほか、ヒロインは水野、ヒーローは石ノ森がそれぞれ担当し、赤塚の主な受け持ちはその他大勢と背景で、扱いとしては、殆どアシスタントのようなものだった。

いずみあすか作品でも、赤塚の執筆部分は、U・マイア作品の時とほぼ同じで、漫画を描き続けてゆく自信を失いかけた赤塚は、段々と石ノ森のアシスタント的立場に甘んじるようになってゆく……。

この頃、赤塚の窮状を心配した母親のリヨが上京、トキワ荘で同居することとなり、赤塚の身の回りの世話をするようになった。

赤塚もまた、当時『鉄人28号』で一躍流行作家の仲間入りを果たしていた横山光輝のアシスタントの出張アルバイトをすることで、母親の生活費を捻出した。

戦後の荒廃から、一〇年余りを経て、朝鮮戦争による特需依存から脱却した日本経済が、安定軌道に乗り上げた50年代後半、『経済白書』に「もはや戦後ではない」という言葉が明記され、経済面における戦後復興の終了を高らかに宣言。所謂「神武景気」の時代が到来した。

マスメディアにおいては、「週刊新潮」を皮切りに、一般週刊誌が相次いで刊行された。

また、テレビ局も、NHK、日本テレビに続き、新たな放送局が次々と開局され、まさに時代は、経済と文化の転換期であった。

スクリーンの世界では、石原慎太郎が芥川賞を受賞した『太陽の季節』で、その実弟である石原裕次郎が、宍戸錠、名和宏といった若手人気俳優に続き、日活のニューフェイスとして、華々しくスクリーンにデビュー。同世代の若者達の間に熱烈なブームを巻き起こし、「太陽族」なる流行ファッションも生まれた。

テレビでは、『やりくりアパート』、『お笑い三人組』、『番頭はんと丁稚どん』など、新たなバラエティー番組が一挙に放映開始し、いずれの番組も世間大衆から圧倒的な支持を得るに到った。

1958年には、国産初の子供向け特撮番組『月光仮面』の放映も始まっている。

確かに、赤塚が倦み疲れながら、少女漫画を惰性で描いている間、笑いをテーマにした漫画が増えつつはあった。

異色なところでは、貸本向けに描き下ろされた作品で、戦争や軍隊生活における狂態や不条理さを揶揄的な視点からカリカチュアした前谷惟光の『ロボット三等兵』が挙げられるが、雑誌の世界では、山根赤鬼の『よたろうくん』や大友朗の『出世だんご山』のように、おっとりとした与太郎的なキャラクターの少年が失敗を巻き起こすという、謂わば、落語の世界をそのまま漫画に持ち込んだような作風が潮流で、そのどれもが古色蒼然たる前近代的なイメージを脱してはいなかった。


生きることの幸せを謳いあげた『お母さんの歌』

2017-11-20 23:08:26 | 第1章

若木書房では、二冊目となる『お母さんの歌』(若木書房、58年11月25日発行)は、出生の秘密を知り、呻吟する少女とその家族の絆を抒情性溢れる筆致で描き、生きることの幸せを謳いあげた人生の賛美譚。

家族同士の深い結び付きを通し、人間心理の機微や人生の喜怒哀楽を濃密な実感を込めて綴ったこのドラマの最大の山場は、それまで優しかった筈の兄が、不良仲間との交流を重ね、次第に非行へ走ってゆく中、主人公であるみすずが、自分が血の繋がった本当の家族ではないことを告げられるシーンだ。

ショックを受けたみすずは、家族と離れ、自らの意思で本当の両親がいるとされる新潟へ一人旅立つが、その決意を耐え難き感傷から沸き立つ家族への反発ではなく、自らの悲痛な感情の置き場を探し求めた、内なる自分との必死な闘いに準えて描いているところに、この作品の美質とも言うべき重さがある。

やがて、ドラマはみすずとその家族が本当の絆を取り戻す大団円を迎える。

楳図かずお作品に象徴される幻想的なミステリーや怪奇ホラーが全盛になりつつあった少女向け貸本漫画において、家族の絆をしっとりと描いた本作は、オーソドキシーにして、些か地味なドラマトゥルギーに終始した感も否めないが、その根底からは、後々の韓流ドラマの世界観にも通底する人間愛の発露が重く捉えられ、そうした話材選びに適した良質のテーマの選択からも、赤塚の作品に向けた直向きな誠実さがヒシヒシと伝わってくる。

また、この頃になると、漫画と映画、そして文学との連動性から発想を紡いだストーリーテリングの様式美のみならず、画力アップも目覚ましく際立ち、後の方向性を思わせるユーモラスな場面展開を実験的に取り入れるなど、短期間のうちに、作風がこれほど変貌上達したことに、正直驚かされる。

しかし、そうしたレベルアップを図りながらも、赤塚のオリジナル執筆は、次第に控え目な状態となってゆく。

新たな発表舞台となった「りぼん」では、生き別れた母と娘の再会を抑制の利いた演出でしっとりと描いた『ユリ子のしあわせ』(58年1月号)、一人の内向的な少女が再び生きる希望を取り戻すまでの意識と心理の流れをきめ細やかな情感をもって綴った『ひまわりと少女』(58年8月号)といった作品を執筆。いずれも、ヒューマニズムを基盤とした少女漫画であり、舞台となる田園風景における描出の繊細さが、少女の心象風景と重なり合い、センチメンタルな作品世界を一層際立たせるなど、描写の奥深さが散見出来る安定感を纏った短編を発表したが、描き下ろしの単行本は、前述の『お母さんの歌』のみで、その後、雑誌の読み切りは、断続的に数本描かれるのみに留まった。