2006年6月、糟糠の妻として、再婚以来赤塚を陰日向なく支えてきた眞知子夫人が、くも膜下出血により、緊急手術を受けることになる。
術後の経過は良好で、会話を交わせるまでに回復したものの、再び容体は悪化。7月12日、遂に帰らぬ人となってしまった。
まだ、56歳という若さでの逝去だった。
眞知子夫人の急逝から丸二年を経た08年7月30日、前妻で、愛娘・りえ子の実母である登茂子が、子宮頚癌に侵され、鬼籍へと入る。
そして、三日後の8月2日、自身を愛し、支え続けてきてくれた眞知子夫人、登茂子前夫人の今生からの旅立ちを確認したかの如く、今度は赤塚が、入院先の順天堂大学病院にて、静かにその息を引き取った。
享年七二歳。
「人生はギャグ」を信条に、人を、笑いを、漫画を、酒を、そして自由を誰よりも愛し、激情の赴くままに生きてきた豪傑のラストシーンとしては、あまりにも呆気ない幕引きであった。
死因は、肺の炎症性疾患による抹消循環不全。
赤塚の死去は、新聞各紙にトップ記事として報じられ、テレビ媒体においても、NHK、民放各社でその悲報が大々的に取り上げられた。
また、没後間もなく、追悼本が多数緊急出版され、更に、民放、NHKと相次いで放映した追悼番組が、いずれも高い視聴率をマークするなど、改めて、赤塚が戦後の漫画文化を牽引した偉大なる巨人であることを、皮肉にも、その死によって世に知らしめる結果となった。
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葬儀は、喪主をりえ子が、葬儀委員長を友人代表の藤子不二雄Ⓐが各々務め、8月6日に通夜、翌7日に告別式が中野区内にある宝仙寺にて営まれる。
その際に、藤子Ⓐをはじめ、フジオ・プロ黄金期、赤塚の懐刀として苦楽を共にした古谷三敏、高井研一郎、北見けんいち、そして、芸能界デビューに際し、赤塚から物心両面に渡り、恩顧を受けたタモリらが、祭壇に向かい弔辞を読み上げた。
中でも、タモリが捧げた哀悼の辞は、衷情を湛えた文語にして、頗る感動が行間から零れており、取り分け、締め括りとして結んだ「私もあなたの数多くの作品のひとつです。」というフレーズは、この年の新語流行語大賞にノミネートされるほど、多大なインパクトを放ち、広く人々の快哉を集めることとなる。
タモリによる、この心揺さぶる手向けの挨拶は、赤塚逝去の翌日、葬儀委員長であり、タモリにとっても昵懇の間柄にある藤子Ⓐたっての希望ということもあり、応諾したという。
途中、途切れることなく、朗々と述べられた、七分五六秒に及ぶこの弔辞は、白紙の台本を読み上げるという、歌舞伎の演目でも知られる勧進帳に見立てた、タモリならではの〝本気ふざけ〟だったと言えよう。
まさに、〝この師にして、この弟子あり〟という言葉をそのまま体現したパフォーマンスであり、私はこの究極の至芸に、改めてタモリというエンターテイナーの途方もない底力を見せ付けられた想いすらした。
告別式には、漫画家仲間のほか、出版、芸能関係者、ファン、友人知人ら、凡そ一二〇〇人が参列し、葬送曲である『天才バカボン』(第一作)の主題歌が流れる中、その出棺を見送った。
その後、赤塚の遺骸は、フジオ・プロのお膝元でもある新宿・落合斎場にて荼毘に付される。戒名は、〝不二院釋漫雄〟。
古谷三敏は、赤塚の死に際し、インタビューで、ギャグ漫画というジャンルは、赤塚不二夫で始まり、赤塚不二夫で終わったと語った。
赤塚以降、ギャグ漫画を描く才能が何人か追従したが、その多くは、物語を絡めたストーリーギャグに区分されるもので、赤塚のように、ひたすらナンセンスに徹し、ラディカルな笑いを追求し続けた漫画家が、現在に至るまで一切現れていないのは、紛れもない事実でもあるのだ。
そういった意味でも、ギャグ漫画というジャンルは、赤塚不二夫という一国一人の天才漫画家の為だけに設えられた、特別な指定席だったのかも知れない。
暫し、赤塚の歴史と本質に無理解を示す局外者は、酒で身を滅ぼした破滅型の漫画家であると、訳知り顔で、赤塚を揶揄するよう語りたがる。
確かに、過度の飲酒が、自らの気力や体力、創作意欲をスポイルしたことに、疑いの余地はない。
とはいえ、最晩年においても、新連載を立ち上げ、またマイナーな境涯に生きる子供達のために、笑いをプレゼントしたいという願いから、時代に先んじたバリアフリー絵本を完成させたりと、漫画家としての底意地を見せ付けた赤塚に、アルコールがその才能を全て奪い去ったという嘲謔は、当てはまらないだろう。
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日本のギャグシーンを活性化し、劇的に広げた最初の開拓者・赤塚不二夫。
2009年には、アニメーションの分野でも、ヒットアニメの原作提供という観点から評価され、東京国際アニメフェア第5回功労賞を受賞。
同年夏からは、東京・銀座の松屋百貨店を皮切りに、『追悼 赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年』が全国巡業で開催され、11年には、浅野忠信主演による『これでいいのだ‼ 映画☆赤塚不二夫』(監督・佐藤英明、4月30日公開)が東映系で、翌12年には、綾瀬はるかを主演に迎えた実写版『映画 ひみつのアッコちゃん』(監督・川村泰祐、9月1日公開)が松竹系で、それぞれ劇場公開された。
更に「赤塚不二夫生誕80周年」を迎えた2015年には、二次媒体における赤塚需要が活発化し、『天才バカボン』と名作アニメ『フランダースの犬』とのコラボレート作品『天才バカヴォン〜蘇るフランダースの犬〜』が、CGクリエーターのFROGMANによって長編アニメーション化され、全国東映系にて5月23日に劇場公開される。
この年は、成人した六つ子兄弟のその後を描いたテレビアニメ『おそ松さん』(15年10月6日〜16年3月29日)を、『おそ松くん』(第二作)と同様studioぴえろが制作。テレビ東京系列にて放映開始されるやいなや、深夜アニメとしては異例とも言える高視聴率をマークし、イベントの開催や記念切手、多数の関連書籍のリリース等、社会現象を巻き起こすほどのヒット作へと発展した。
その後も、同局同放送枠にて、第二期(17年10月3日〜18年3月27日)、第三期(20年10月13日〜21年3月30日)とシリーズ化され、19年には、松竹の配給で劇場版も公開されている。
『天才バカボン』もまた、studioぴえろ+制作により、『深夜!天才バカボン』(18年7月11日〜9月26日)のタイトルで、五度目のテレビアニメ化がなされ、『おそ松さん』と同じくテレビ東京より放映開始。アニメーション以外にも、くりぃむしちゅーの上田晋也を主演(バカボンのパパ役)に招き、日本テレビの『金曜ロードSHOW!』枠にて、『天才バカボン〜家族の絆』(16年3月11日放映)のタイトルで、実写ドラマ化された。
その後も『天才バカボン2』(17年1月6日放映)、『天才バカボン3〜愛と青春のバカ田大学』(18年5月4日)と、続編が製作、放映され、そのメディアミックス展開において、新たな可能性を拡げたことも補記しておきたい。
主題歌は、全三作ともにアニメ第一作の『天才バカボン』が起用され、タモリがこれをカヴァーしている。
また、『おそ松くん』『天才バカボン』に続く代表作である『レッツラゴン』『もーれつア太郎』も、それぞれ、『男子!レッツラゴン』(15年7月30日〜8月9日)、『もーれつア太郎 木枯らしに踊る花吹雪』(18年12月19日〜12月24日)のタイトルで、本多劇場、俳優座劇場にて舞台化されるなど、赤塚ワールドは、他メディアとのシナジーを創出しながら、作者亡き後も更なる展開を迎えている。
「赤塚不二夫生誕80周年」に当たる15年〜16年は、折からの『おそ松さん』ブームの余勢もかって、その原作者である赤塚の人物像、更には赤塚イズム、赤塚スピリットに対する再発見が様々なメディアを通し、活発化したことも、その没後において、特記すべき事柄と言えるだろう。
四ヶ月間(15年12月1日〜16年3月31日)という期間限定で、赤塚をリスペクトするアーティストや作家、タレント、ミュージャン、演出家、学者らが、其々の専門分野をテーマに掲げながら、独自の見解により赤塚イズムを解き明かしてゆく特別講義『バカ田大学』が、東京大学・山上会館にて開講され、連日盛況を収めることになる。
16年には、赤塚の波乱に満ちた生涯と漫画家としての足跡を丹念に追ったドキュメンタリー映画『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』(企画・プロデュース/坂本雅司・監督/冨永昌敬)が、シネグリーオによって製作。ポレポレ東中野、下北沢トリウッドほか、全国にて順次ロードショー公開された。
この作品は、有名無名問わず、赤塚ゆかりの人物へのインタビューや、テレビ番組、プライベート映像等、生前の映像素材を用いて纏められたもので、赤塚の歴史を紐解くうえでも、その資料的価値は高い。
音楽家のU -zhaan作曲によるテーマソング『ラーガ・バガヴァッド』の作詞の担当は、タモリであり、タモリ自らが歌唱を務め、本編に彩りを添えたこともここに追記しておく。
赤塚ワールドの聖典である原作のコミックスも、現在はオンデマンド版『赤塚不二夫漫画大全集』を初めとする数々の復刻本で、その殆どを閲読することが出来る。
時代は移り変わっても、赤塚ギャグの先鋭的センスは永久不変であり、初めて赤塚作品を手にした新世代の読者にとって、それは、新たな知覚の扉を開く、未知なる衝撃との遭遇であるに違いない。
そう、数々の傑作と伝説を遺して去って行った、全身ギャグ漫画家・赤塚不二夫の神話は、今尚完結していないのだ。