文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

〝まんがバカなのだ 赤塚不二夫展〟の全国巡業 日本漫画家協会賞文部大臣賞と紫綬褒章の受賞、受章 

2021-12-22 00:24:15 | 第8章

1997年、静岡県伊東市の池田20世紀美術館で、〝まんがバカなのだ 赤塚不二夫展〟が開催され、好評を博す。

総勢一七〇名のキャラクターが赤塚の筆によって描き下ろされた、縦7メートル、横15メートルの横断幕がこの展覧会のイメージシンボルであり、 巨大な赤塚キャラが一同に介したその光景は、来場者を圧倒した。

デビュー前の貴重な習作から90年代初頭までの間に描かれた名作、怪作、珍作、凡そ二〇〇枚に及ぶ美麗な生原稿が展観出来るだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦したエドヴァルト・ムンク、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エドガー・ドガ、フィンセント・ファン・ゴッホといった歴史上の画家のパロディー・アートも展示されており、バカ道の境地に辿り着いたその独創的パフォーマンスは、観る者の爆笑を喚起する途方もない破壊力を孕んでいる。

フロアには、バカボンのパパやイヤミの銅像が、所狭しとディスプレイされるなど、美術展本来のイメージをぶち破る、赤塚ならではの遊び心とウィットが沸き立った大回顧展となり、客の入りを心配していた赤塚の想いをよそに、会場は連日大盛況となった。

その後、この原画展は、上野の森美術館や横浜ランドマークプラザ、箱根彫刻の森美術館、京都・美術館〝えき〟など、全国を巡業し、いずれも大入りを記録する。

上野の森美術館では、期間中六五〇〇〇人を集客。ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替え、同美術館の動員新記録を樹立した。

また、同美術館で行われたオープニング・レセプションには、幼少期より熱烈な赤塚ファンだったと語る元チェッカーズの藤井フミヤ、藤井尚之兄弟(この時はF︱BLOODとして活動)も駆け付け、赤塚もまた、彼らに直筆の色紙を贈呈するなど、喜悦の心情を隠し得なかったそうな。

そして、97年、98年には、連続して、日本漫画家協会賞文部大臣賞、そして紫綬褒章を受賞、受章するという大きな栄誉に輝く。

文部大臣賞受賞式の際、司会の人間がジョークで放った「文部省から一番遠い男が受賞した」という言葉が、赤塚にとって何よりも嬉しかったという。 

また、紫綬褒章の受章に関しても、元々貧乏人気質なので、貰えるものは何でも有り難く頂戴するとコメントをし、いずれも、特別な感慨が込み上げてきたわけでもなかったようだ。

漫画の第一線から離脱しながらも、個展の大成功や、日本漫画家協会賞文部大臣賞、紫綬褒章の受賞、受章で、再び脚光を浴び、連日、赤塚のもとに取材が殺到する。

そんな中、自身が食道ガンに冒されていることをたまたまインタビューに訪れた記者に吐露したことによって、その病状がマスコミへと知れ渡り、急遽記者会見を執り行う運びとなった。

97年12月、自宅で吐血して入院した際、精密検査を受け、食道ガンが発見されたという。

ガン告知を受けながらも、水割りと煙草を片手に会見に挑むその姿には、何故か悲壮感はなかった。

仕事を第一に優先すべく、敢えて手術を拒否し、民間療法でガンを克服したいと、無謀とも言える宣言をして、集まった記者達を驚かせた。

抗がん剤の投与や放射線治療により、免疫力が低下することを、赤塚は何よりも恐れていたのかも知れない。

98年6月、古くからの友人で、同じ食道ガンを患っていた落語家・立川談志に、あだち勉とともに弟子入りし、立川不二身なる高座名を談志より命名される。

談志と二人で、ウェスタンのコスチュームに身を包み、ガンファイターとして自虐的にメディアに登場したのもこの頃だった。


『赤塚不二夫のアニマルランド』『シェー教の崩壊』赤塚ギャグ漫画の終焉 

2021-12-22 00:23:38 | 第8章

94年には、「週刊プレイボーイ」誌上にて、人生相談のコーナーを、一年半(94年№25~95年№50)に渡り担当する。 

友情や恋愛、人間関係の軋轢、将来への漠然とした不安など、若者を中心に寄せられる難問、奇問の数々を、独自の価値観や人生哲学でバッサリ斬ってゆく語り口が痛快で、人生の酸いも甘いも知り尽くした赤塚だからこそ語れる最強の人生指南書としても話題となった。

これまで、同誌の人生相談コーナーは、作家の柴田錬三郎や今東光、芸術家の岡本太郎、俳優の石原裕次郎といった錚々たるビッグネームが受け持っていた由緒あるページであったが、その中でも、赤塚の回答こそが、最も深遠で、哲学的示唆に富み、説得力を備えていたと、個人的には敬意を抱いている。

『ネコの大家(おおニャ)さん』に代わって登場したのが、その昔「週刊少年サンデー」で短期連載していた『母ちゃん№1』のリメイクだった。

『母ちゃん№1』は、赤塚にとって思い入れが強く、自身が最もリメイクを希望したタイトルだったというが、他のどのリバイバル作品よりも、時代とのズレがあからさまで、そのに人気は一向に高まらずにいた。

そのため、同誌休刊後も、本誌「ボンボン」に返り咲くことなく、一年程の掲載で終了を余儀なくされる。  

その後、辰巳出版から新創刊された「まんがジャパンダ」なるギャグ漫画専門誌に、ニャロメ、ケムンパス、べし、ココロのボス、べラマッチャ、ウナギイヌ、ノラウマなど、往年の赤塚ワールドの人気動物キャラが一同に集結し、縦横無尽に暴れ廻る『赤塚不二夫のアニマルランド』(95年№1~№4)を大御所枠でカラー連載するが、掲載誌自体が四冊刊行した後に、廃刊となり、それと同時に本作も最終回を迎えた。

95年3月20日、営団地下鉄車内で、カルト教団・オウム真理教による「猛毒サリン事件」が発生し、全世界を震撼させる。

その後、「坂本弁護士一家殺害事件」や「松本サリン事件」を始めとするオウム真理教が共謀した数々の凶行が明るみになり、同教団代表・麻原彰晃こと松本智津夫が、殺人、同未遂容疑で逮捕された。

80年代、赤塚は自身の漫画の衰退を、バーチャルな漫画の中での絵空事が現実に起こり得るようになってしまった悲劇が、重く積み重なったところにあると客観的に分析していた。

つまり、赤塚がどんなに奇想天外、型破りだと思った発想をペンで具現化したところで、現実世界で起こる衝撃の前では、その新奇性が損なわれてしまうのだ。

赤塚の見解に与するなら、まさに一連のオウム騒動は、史上最悪の犯罪組織による世界的にも類を見ないテロ事件であり、そうした創作上の悲劇をシンボリックに示した出来事だったに違いない。

しかし、赤塚はこのオウム事件を素材に長編読み切りを一本描くことになる。

「ビッグゴールド」96年1月号に、巻頭50ページで描かれた『シェー教の崩壊』がそれだ。

95年9月13日、還暦を迎える前日、ホテル・センチュリーハイアットで「赤塚不二夫先生の画業四〇年と還暦を祝う会」が開催され、藤子不二雄コンビや石ノ森章太郎らトキワ荘時代からの盟友や、歴代のフジオ・プロスタッフ、漫画界、芸能界など各界の友人知人、出版関係者など、総勢四〇〇人余りが集結し、大盛り上がりの宴となった。

この時、かつてのアシスタント達が勢揃いしていたこともあり、本業の漫画の方でも、何か大々的なイベントが出来ないかという提案がなされたという。

当時「ビッグゴールド」では、『釣りバカ日誌』の原作者として名高いやまさき十三と赤塚の映画談義『下落合シネマ酔館』(94年5月号~95年4月号)が掲載されており、その関係から同誌に企画が持ち込まれることになったのだろう。

『シェー教の崩壊』は、イヤミが金持ちの令嬢・へんな子ちゃんを誘拐し、宗教法人〝シェー教〟を興すところから始まり、様々な非合法活動に従事してゆく中、サリンならぬ猛毒カリン糖を開発し、最後にそれを食べたイヤミが死に追いやられるという、悪辣をも越える、反社会的行為を因果応報オチで消化した、赤塚ナンセンスの原点回帰を辿った作品だ。

六つ子やチビ太、アッコちゃんら赤塚漫画のトップスターを続々と投入させ、ドラマの娯楽性を華やかに彩るべく、アンサンブル的効果を意図して引き出そうとしているが、作品全体を通し、かつて感じたグルーヴ感が殆ど伝わってこないところに、赤塚の作家的腕力の衰えを象徴しているかのように思えてならない。

また、往年のアシスタント達が下絵の段階から描いたキャラクターや、漫画家以外の友人による絵をそのまま画稿に盛り込んだため、総体的な完成度において、些かバランスを欠くものになってしまったのも、残念なところであった。

『シェー教の崩壊』は、11月初旬、下落合駅そばにあった〝山楽〟という古旅館にスタンドや画材が持ち込まれ、三日間の強行スケジュールの中、赤塚以下、古谷、高井、北見、とりい、あだち勉、土田よしこら、フジオ・プロOB総出で仕上げられる。

その間、所ジョージや稲川淳二を始めとする、交流の深いタレントが多数駆け付け、座を盛り上げた。 

尚、この模様は、年末の12月30日、ゴールデンタイムの特番として『赤塚不二夫とトンデモナイ仲間達‼』(テレビ東京)というタイトルで放映され、ナレーションをタモリが担当したことも補記しておこう。

 


亡き父母への愛情と賛歌 自伝的エッセイ『これでいいのだ』

2021-12-22 00:22:56 | 第8章

この年は、一方で自伝小説を執筆し、好評を得るなど、最晩年において、それなりに新分野を開拓した年でもあった。

NHK出版から刊行された『これでいいのだ』は、戦中、戦後の混乱期を懸命に生きた父母との心温まる繋がりを、朴訥とした筆致で描いた名著であり、天国にいる両親へ感謝の念を綴った赤塚の独白手記と言えるだろう。

通常、赤塚のエッセイは、赤塚が語り明かした内容を長谷邦夫や担当編集者が構成し、文章化したものが殆どだったが、『これでいいのだ』に関しては、近所にある〝竜の湯〟というスーパー銭湯の大広間に二ヶ月間通い、赤塚自身が書き上げたという、赤塚にとっても、ファンにとっても、実に意義深い一冊だ。

作家として、父母への愛情と讃歌を一度は自らの手で綴っておかなければという想いが、還暦を目前にした赤塚の中で芽生えたであろうことは、想像に難くない。

赤塚の鷹揚にして、土性骨の据わった生き方のルーツを、本書を紐解くことによって、発見することが出来る。

激動の時代を生き抜いた壮絶な家族のドラマを綴った本書は、多くの感涙を呼び、その後も、2002年に日本図書センター「人間の記録」シリーズで、また、08年には、文春文庫にて復刊された。

特に、赤塚の逝去に合わせて刊行された文春文庫版は、ベストセラーとなり、その後もロングセラーとして、広く閲読の対象となるが、12年、赤塚も大ファンであり、日本を代表する名俳優であった大滝秀治が、亡くなる直前、病床で本書を愛読していたことが、ニュースによって報じられ、版元に問い合わせが殺到。これにより、大量の重版が出来し、Amazonの書籍ランキングで総合2位を獲得するという快挙を成し得たのも記憶に新しい。

因みに、この作品は、翌94年、NHKの「ドラマ新銀河」で、堤大二郎主演により連続ドラマ化される(8月22日〜9月15日、全16話)。

父・藤七役には中村嘉津雄、母・りよ役には佐久間良子といった名優、名女優が各々配役されるなど、キャスティング面では申し分なかったものの、脚本が原作の世界観から遠く背いたパラレルワールドとなり、ドラマ全体の出来は決して満足のゆくものではなかった。


『花の菊千代』のセルフパロディー『ネコの大家(おおニャ)さん』

2021-12-22 00:22:25 | 第8章

このように、創作への意欲が減退していった赤塚だったが、新作の連載漫画執筆も複数本始めてはいた。

1993年からは、「デラックスボンボン」にて、『ネコの大家(おおニャ)さん』(93年2月号~94年3月号)の連載がスタート。

大富豪の老女に溺愛され、莫大な遺産を相続した猫のスパゲティは、その金を豪華マンションの建設に注ぎ込み、世界初、猫の大家さんとなる。

大々的に入居者を募集したことにより、入居希望者が殺到するが、いずれも劣らず、他の住民の迷惑を省みない変わり種ばかりで、オープン早々からスパゲティを困惑させる。

おまけに、遺産を取られて逆恨みする老女の息子・ハンバーグに雇われた殺し屋が、スパゲティの命を狙ってきたりと、スパゲティに安息の日はまだまだ訪れない。

マンション内に地下鉄を開通させ、住民をパニックに陥れたかと思えば、Jリーグ人気に便乗し、ネコによるサッカーチームを結成し、ハンバーグ率いるホームレスチームと対戦したりと、エピソードに依りては、スパゲティの意気揚々たる活躍ぶりに、一先ずはアイデアの新奇性を見て取ることも出来るが、作品全体の設定としては、これより遡ること十二年前、「コロコロコミック」に連載した『花の菊千代』にイージーなアレンジを加えただけの印象は否めない。

また、主役であるスパゲティのキャラクターデザインに限っていえば、コンテンポラリーを保ち得た華やかさを纏ってはいるものの、そのドラマトゥルギーにおいては、『花の菊千代』ほどのテンポの良さやシャープな切れ味を感じさせるまでには至らず、副次的価値を超えるバリューはない。

 


赤塚リバイバルの原点回帰的作品『おむすびくん』 

2021-12-22 00:21:47 | 第8章

このように、『バカボン』人気の再熱により、再び児童漫画の世界に舞い戻って来た赤塚だったが、実は、その少し前に、そうした原点回帰の試金石となった位置付けの作品があったことも追記しておきたい。

「こどもの光」87年10月号に、単発で掲載された『おむすびくん』である。

往年の名キャラクター・たまねぎたまちゃんの系譜を受け継ぐ、おむすび型ファンシーキャラのおむすびくんを主人公としたこの短編は、日常空間に浮かび上がった非日常の寓話的世界を表出しつつも、現実を大きく逸脱しない、子供達の等身大の生活に依拠したシチュエーションコメディーとして描かれており、赤塚が想い描く子供同士の理想的な友情の在り方が、そのテーゼの中に然り気無く盛り込まれている。

『おむすびくん』は、翌88年6月号、8月号別冊付録に続編が執筆されている点から察するに、「こどもの光」編集部が、本作のシリーズ化を意識していたであろうことは、充分考えられる。

だがこの時、テレビアニメとのタイアップで、「コミックボンボン」、「テレビマガジン」「月刊少年マガジン」「なかよし」といった講談社系列誌でのリバイバル連載が連続して立ち上がり、それまで不活発であった赤塚のレギュラー執筆が、再度タイトを極めるようになっていた。

そんな嬉しい悲鳴が、『おむすびくん』がシリーズ化されなかった遠因にあったのかも知れない。

ドラマそのものが重層性に欠けるきらいがあるため、傑作、佳作の部類には入ることのない、まさに埋もれた一作だが、ギャグ漫画家としての顔とはまた違った、童話作家としての赤塚のもう一つの側面をクリアに浮かび上がらせた貴重なタイトルだけに、連載の運びに至らなかったことが、忍びなくもある。

91年、赤塚アニメのリバイバルラッシュは終焉を迎え、『バカボン』&『おそ松』ファミリー総出演のスペシャル・アニメ『バカボン おそ松のカレーをたずねて三千里』(10月19日、10月26日)の放送を最後に、一旦テレビメディアより撤退するが、リメイク版『へんな子ちゃん』、『赤塚不二夫のギャグ屋』と、週刊誌での連載も二本同時にスタートするなど、その後も仕事量は途切れることなく、レギュラー、イレギュラーを合わせ、月産平均枚数七十枚をキープしていた。

しかし、赤塚が現役漫画家のイメージを保っていたのは、質量ともにこの時代までだった。

テレビアニメが終了すれば、タイアップで始まったリバイバル連載の方も当然打ち切られる。

すると、新たな仕事への意欲は失われ、暇を持て余すことにより、酒と向き合う時間だけが悪戯に増えてゆくという最悪の事態へと陥るようになった。

この頃から既に、朝起床してから夜就寝するまで、のべつまくなしに酒を飲み、執筆に対する取り組みが段々投げ遣りになってきたという。

アルコール依存において、最も恐ろしいことは、脳の萎縮によって、知能低下や感受性の鈍化を著しくもたらすことだ。

知能が低下すれば、当然正常な判断力が喪失し、その結果、創作活動にも多大な悪影響を及ぼす。

取り分け、感受性の鈍化は、先鋭的センスだけが創作のナビゲーターとなる、アバンギャルド型のクリエーターにとって、悲劇以外の何物でもない。

1992年、掲載誌を「デラックスボンボン」に移した『平成天才バカボン』の連載が終了。そして、長年赤塚のアイデアブレーン、時にはゴーストライターとして苦楽を共にして来た長谷邦夫との訣別が訪れ、漫画家・赤塚不二夫にとって一つの時代が終りを告げる。

長谷は、過度の飲酒により精神が不安定となり、創作に支障をきたすようになった赤塚に見切りを付け、自らが絶交を決意したというが、赤塚と近しい業界関係者や両者をよく知る人物らに話を伺うと、長谷の性格上の問題が原因で、当時、フジオ・プロの代表取締役を務めていた眞知子夫人や、その番頭役であった元虫プロ常務・桑田裕専務との間で確執が生じ、そのことにより、フジオ・プロを退社せざるを得なかったと、双方が語る事情はかなり隔たっている。

また、長谷は自らを引き留めてくれなかった赤塚に、全てを転嫁し、澱んだ感情を赤塚にだけぶつけるようになったとも言われている。

筆者には、どちらの言い分が真実なのか、当然ながら知る由もない。

ただ、多くの見巧者が指摘しているように、長谷は、漫画家として赤塚に匹敵する天才的な才能を持ち合わせてはいなかった。

したがって、藤子不二雄のコンビ解消とは次元が違うと、侮蔑を込めて言われることもある。

しかし、自らを赤塚不二夫依存症と自嘲的に笑い、長年赤塚の女房役を務め、陰に日向に支えてきた長谷との別れは、赤塚漫画をこよなく愛する一人として胸を抉られるようで辛い。

それが何処まで反映されていたのかはともかく、長谷の持てる限りの能力も、赤塚漫画の血と肉になったことは、紛れもない真実だからだ。

長谷が赤塚との出会いから袂を分つまでを自伝的に綴った『漫画に愛を叫んだ男たち』という著作がある。

記憶違いによる事実誤認や悪意に基づく誹謗中傷が多いため、資料性、内容性ともに、正確性、客観性に幾分欠けるきらいのある回顧録だが、この本の終盤で、次のような一文が綴られており、筆者はここを読む都度、無性に涙腺が緩んでくる。

「お互い(名和註・赤塚と長谷)の想いや絆は、これまでフジオ・プロを巣立っていってしまった漫画家たちより、強く太いものであると信じている。一方的にぼくがそれを太いと決めつけて、幻想に過ぎないロープにぶら下がっているのだろうか。」

(『漫画に愛を叫んだ男たち』清流出版、04年)

当人達だけにしかわかり得ない事情もあっただろう。

その後、赤塚と長谷は絶縁したまま、今生の再会を果たすことはなかったという。