去る9月8日~9日に、「こびっと合宿」というのをやりました。
そもそもは、去年に引き続き対話合宿をやりたいなと思ったのが始まりでしたが、
なんとなくの流れで、こびっとハウスの作業しながら何かやろう、という合宿になりました。
*こびっと合宿の報告はこちらを見てね→こびっと合宿2012
とうことで、合宿についてというよりは、そこでやった対話で自分が感じたことを書きます。
1日目の夜と2日目の朝に、2時間ぐらいづつ対話の時間を設けました。
ファシリテーターには、去年から対話合宿などをやっていただいている
タケさんに担当していただきました。
2回とも、最初に、紙にテーマに沿った絵を書いて、
次にそれを隣の人とシェアして、
それから、全体でテーマを設けずに、
流れに沿って話をしていきました。
話の流れは、放射能により福島から避難していく人、福島に残る人についてや、
参加者の方が関わっている郡山疎開裁判のことについて、
福島県外の人たちの心無い声により、県内の人たちが傷ついていることについて、
被災のグラデーションについて、当事者と支援者について、
自然と調和する暮らしを実践することと、社会の問題に関わっていくことについて、
たくさん、答えのない葛藤が話題に上って来ました。
対話の場で、自分に何か起きる時っていうのは、
前後のことあまり覚えてなかったりします。
ただ、そのとき感じたことだけがとても強く印象に残っているのですが、
それは何かというと、話の流れから、福島に支援に来る人や福島を思う人たちが、
「自分は当事者じゃないことに負い目がある」
というような話をした時に、私の中では、
「福島に来てくれて一緒に考えたり悩んでくれるだけで充分だと思うし、それにとても深く感謝している」
という感覚が沸いてきたのですが、それを言葉にしようとした時に、
急に涙が出てきて、話せない状態になりました。
震災後、その時に感じた感覚は、「絆」とか「つながり」「助け合い」という言葉は良く使われますが、
そんな言葉では言い表せない何かなのだろうと思います。
その時に沸いてきた感覚を思い出すと、いつも涙が出てくるし、
あえてその感覚を言語化するとしたら「慈悲」とか「慈愛」という言葉かな。
その日の冒頭に、自分が書いた絵は「自分のなかで心に残る風景」というお題だったのですが、
震災前に見た夢の印象がずっと残っていたので、それを描きました。
新宿の高層ビル群みたいなところから、空を見上げると地球が暗闇に浮かぶ図でした。
その風景になってみたり、そこに自分自身を置いてみたり、
いろんなことをやって、その風景から気づいたことは、
「自分は地球に来ることを自分で選んできたのだ」ということ。
そして、「次も地球に来たいと思っていること」でした。
それは、「何かを体験したいからだ」ということも。
そもそも、子供の時から「人間嫌い」で、早く宇宙に帰りたいなと思っていて、
小学校の図書館から、いつも「宇宙」関係の本ばかり借りてきていました。
大人になって、自然界の素晴らしさなどを実感して、
自然と調和した暮らしをしたいなと思ってきたけれど、
必ず、コミュニティの問題や、人間が自然を破壊していくという問題にぶつかるので、
結局、人間と関わらずには生きていけないということ、
めんどくさいし、残念だけれど、それは避けられないということ。
そこまでたどり着いたところで、去年の震災が起きました。
今回の対話では、人と人とのつながりが持つ強いパワー、
それは、自然とのつながりの中で感じるものとは、
また、違った力強さを持っているということを感じされられ、
「人間嫌いなはずなのに、おかしいなぁ・・・」という感じ(笑)
それにつながる感覚としては、
その対話が始まる日の朝、起きた瞬間に、
「あ~、昨日は楽しかったな」という言葉が沸いてきたので、
自分は何が楽しいと思っているのだろう、ということを振り返りました。
合宿中は、自分はいろんな準備とか、何かをしながら、
一つのことを楽しむというよりも、パタパタ動き回っていたのですが、
そんな状態の中、今日、出会ったばかりの人同士が、
ご飯の準備をしながらだったり、こびっとハウスの作業をしながらだったり、
共同作業をしながら、いろんなことをおしゃべりしている様子が、
いいな~、と思っている自分がいたことに気づきました。
地球を選んで来ている理由は、人とのつながりのパワーや、
慈悲・慈愛の感覚を味わうために来ているのかもしれないと思いました。
でも、あの感覚は忘れていないけれど、
思い出すと泣きそうになるので、いつでも思い出せるわけじゃないです。
***
じゃあ、人間って何なのだろうと考えてみると、
人間っていうのは、本当は何にでもなれるんじゃないかなと思うんだよね。
猫になってみたり、木になってみたり、相手の気持ちになってみたり。
本来は、とても自由な存在なのではないかなと。
タケさんがよく「人間でいなくてはいけないと思い込まされている」
と言っていたのを思い出します。
子どもの頃から、窮屈な感じが嫌いで、決まった時間に学校に行くとか、大嫌いでした。
漠然と自由になりたいなというのが、自分の中にずっとあった。
それは時間やお金など、自分を支配する一切のものから自由になりたいという感覚がありました。
唯一、許せるのが自然界の法則であり、地球の重力。
それに縛られることは、地球上で人間の姿として生きる限りは、
受容せざるを得ないし、その中で生きて、その中で死んでいくのは本望です。
それ以外の、自分を支配するものは、自分を不自由にするものだし、
たぶん、私だけではなく、多くの人間といわれる存在を不自由にしているもののような気がします。
多くの人が、自分が自由でいていいのだ、ということに気づき、
自由で平和な地球になったらいいのだろうな。
↑
私にとっての自由の象徴はにゃんこである。
そもそもは、去年に引き続き対話合宿をやりたいなと思ったのが始まりでしたが、
なんとなくの流れで、こびっとハウスの作業しながら何かやろう、という合宿になりました。
*こびっと合宿の報告はこちらを見てね→こびっと合宿2012
とうことで、合宿についてというよりは、そこでやった対話で自分が感じたことを書きます。
1日目の夜と2日目の朝に、2時間ぐらいづつ対話の時間を設けました。
ファシリテーターには、去年から対話合宿などをやっていただいている
タケさんに担当していただきました。
2回とも、最初に、紙にテーマに沿った絵を書いて、
次にそれを隣の人とシェアして、
それから、全体でテーマを設けずに、
流れに沿って話をしていきました。
話の流れは、放射能により福島から避難していく人、福島に残る人についてや、
参加者の方が関わっている郡山疎開裁判のことについて、
福島県外の人たちの心無い声により、県内の人たちが傷ついていることについて、
被災のグラデーションについて、当事者と支援者について、
自然と調和する暮らしを実践することと、社会の問題に関わっていくことについて、
たくさん、答えのない葛藤が話題に上って来ました。
対話の場で、自分に何か起きる時っていうのは、
前後のことあまり覚えてなかったりします。
ただ、そのとき感じたことだけがとても強く印象に残っているのですが、
それは何かというと、話の流れから、福島に支援に来る人や福島を思う人たちが、
「自分は当事者じゃないことに負い目がある」
というような話をした時に、私の中では、
「福島に来てくれて一緒に考えたり悩んでくれるだけで充分だと思うし、それにとても深く感謝している」
という感覚が沸いてきたのですが、それを言葉にしようとした時に、
急に涙が出てきて、話せない状態になりました。
震災後、その時に感じた感覚は、「絆」とか「つながり」「助け合い」という言葉は良く使われますが、
そんな言葉では言い表せない何かなのだろうと思います。
その時に沸いてきた感覚を思い出すと、いつも涙が出てくるし、
あえてその感覚を言語化するとしたら「慈悲」とか「慈愛」という言葉かな。
その日の冒頭に、自分が書いた絵は「自分のなかで心に残る風景」というお題だったのですが、
震災前に見た夢の印象がずっと残っていたので、それを描きました。
新宿の高層ビル群みたいなところから、空を見上げると地球が暗闇に浮かぶ図でした。
その風景になってみたり、そこに自分自身を置いてみたり、
いろんなことをやって、その風景から気づいたことは、
「自分は地球に来ることを自分で選んできたのだ」ということ。
そして、「次も地球に来たいと思っていること」でした。
それは、「何かを体験したいからだ」ということも。
そもそも、子供の時から「人間嫌い」で、早く宇宙に帰りたいなと思っていて、
小学校の図書館から、いつも「宇宙」関係の本ばかり借りてきていました。
大人になって、自然界の素晴らしさなどを実感して、
自然と調和した暮らしをしたいなと思ってきたけれど、
必ず、コミュニティの問題や、人間が自然を破壊していくという問題にぶつかるので、
結局、人間と関わらずには生きていけないということ、
めんどくさいし、残念だけれど、それは避けられないということ。
そこまでたどり着いたところで、去年の震災が起きました。
今回の対話では、人と人とのつながりが持つ強いパワー、
それは、自然とのつながりの中で感じるものとは、
また、違った力強さを持っているということを感じされられ、
「人間嫌いなはずなのに、おかしいなぁ・・・」という感じ(笑)
それにつながる感覚としては、
その対話が始まる日の朝、起きた瞬間に、
「あ~、昨日は楽しかったな」という言葉が沸いてきたので、
自分は何が楽しいと思っているのだろう、ということを振り返りました。
合宿中は、自分はいろんな準備とか、何かをしながら、
一つのことを楽しむというよりも、パタパタ動き回っていたのですが、
そんな状態の中、今日、出会ったばかりの人同士が、
ご飯の準備をしながらだったり、こびっとハウスの作業をしながらだったり、
共同作業をしながら、いろんなことをおしゃべりしている様子が、
いいな~、と思っている自分がいたことに気づきました。
地球を選んで来ている理由は、人とのつながりのパワーや、
慈悲・慈愛の感覚を味わうために来ているのかもしれないと思いました。
でも、あの感覚は忘れていないけれど、
思い出すと泣きそうになるので、いつでも思い出せるわけじゃないです。
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じゃあ、人間って何なのだろうと考えてみると、
人間っていうのは、本当は何にでもなれるんじゃないかなと思うんだよね。
猫になってみたり、木になってみたり、相手の気持ちになってみたり。
本来は、とても自由な存在なのではないかなと。
タケさんがよく「人間でいなくてはいけないと思い込まされている」
と言っていたのを思い出します。
子どもの頃から、窮屈な感じが嫌いで、決まった時間に学校に行くとか、大嫌いでした。
漠然と自由になりたいなというのが、自分の中にずっとあった。
それは時間やお金など、自分を支配する一切のものから自由になりたいという感覚がありました。
唯一、許せるのが自然界の法則であり、地球の重力。
それに縛られることは、地球上で人間の姿として生きる限りは、
受容せざるを得ないし、その中で生きて、その中で死んでいくのは本望です。
それ以外の、自分を支配するものは、自分を不自由にするものだし、
たぶん、私だけではなく、多くの人間といわれる存在を不自由にしているもののような気がします。
多くの人が、自分が自由でいていいのだ、ということに気づき、
自由で平和な地球になったらいいのだろうな。
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私にとっての自由の象徴はにゃんこである。