10年前に裏磐梯に移住するときに、「すごいね、私はとてもじゃないけどできない」というようなことを数人の方から言われた。パーマカルチャー的暮らしがどれだけ自然とのつながりが取り戻せて内的にも外的にも心地が良いかを話すと、直接的にではないけれど、なんとなく反発されたり、自分はできないという言い訳をされたこともあった。別にできない人を責めているわけでもないけれど、おそらくそう感じたのかもしれないし、私が無自覚にそういうシグナルを出していたのかもしれない。
3.11の後、本当に人の思いはそれぞれだし、正義を振りかざすことが分断を招くんだということを、実感した。そのあとは、「田舎に住むのが解決策じゃない」「ライフスタイルは人それぞれだから」と、あまり自分の主張をしないようにした。それ以前に放射能の問題で、自分がここで何をやっていいのかわからなくなっていたし。
そうこうしているうちに、地球の状況は悪化の一途をたどっていた。その間に自分の暮らしは持続可能にしたものの、本来やろうと思っていた「人に伝えていく」「暮らしのシフトをサポートしていく」ということをあまりやれていないことを少し悔やむ。しかし、3.11を超えてその後の世界をどうしたらよいか考え続けたことは自分にとっては必要なプロセスだったのだろうと思う。また、これから3月11日がやってくるけれど、その間にきっと、それを反芻することになるでしょう。
そのプロセスを経て今思うことは、何はともあれ、地球の生態系を知り、人間が物質界で生きられているのは誰のおかげなのかを今を生きる人類の常識として知る必要がある、ということは声を大にして言いたいと思う。そうじゃないと話にならないと思うこともよくある。算数、読み書きの基本のようなものだ。
どんな膨大な知識を持とうが、それを知らなかったら、おそらく地球上でのまっとうな解決策を見出すことはできないと思う。地球に対する畏敬の念、地球に対する礼儀作法、それは今まで自然とともに暮らしていた人たちは生きる中で体で体感し、身に着けてきたことだろう。しかし、それが出来なくなっている現代に生きる私たちは、わざわざでもよいので、それを学び、知り、体感することをすべきだ。それは、恐れや不安から自由になる知恵であるだけではなく、生きるために必須だ。
もう空気は読まずに大事なことは言わせてもらおうと思う。すでに言いたいことは言ってるだろうと思われるかもしれないけれど、そうでもないのよ(笑)
参考
3.11の後、本当に人の思いはそれぞれだし、正義を振りかざすことが分断を招くんだということを、実感した。そのあとは、「田舎に住むのが解決策じゃない」「ライフスタイルは人それぞれだから」と、あまり自分の主張をしないようにした。それ以前に放射能の問題で、自分がここで何をやっていいのかわからなくなっていたし。
そうこうしているうちに、地球の状況は悪化の一途をたどっていた。その間に自分の暮らしは持続可能にしたものの、本来やろうと思っていた「人に伝えていく」「暮らしのシフトをサポートしていく」ということをあまりやれていないことを少し悔やむ。しかし、3.11を超えてその後の世界をどうしたらよいか考え続けたことは自分にとっては必要なプロセスだったのだろうと思う。また、これから3月11日がやってくるけれど、その間にきっと、それを反芻することになるでしょう。
そのプロセスを経て今思うことは、何はともあれ、地球の生態系を知り、人間が物質界で生きられているのは誰のおかげなのかを今を生きる人類の常識として知る必要がある、ということは声を大にして言いたいと思う。そうじゃないと話にならないと思うこともよくある。算数、読み書きの基本のようなものだ。
どんな膨大な知識を持とうが、それを知らなかったら、おそらく地球上でのまっとうな解決策を見出すことはできないと思う。地球に対する畏敬の念、地球に対する礼儀作法、それは今まで自然とともに暮らしていた人たちは生きる中で体で体感し、身に着けてきたことだろう。しかし、それが出来なくなっている現代に生きる私たちは、わざわざでもよいので、それを学び、知り、体感することをすべきだ。それは、恐れや不安から自由になる知恵であるだけではなく、生きるために必須だ。
もう空気は読まずに大事なことは言わせてもらおうと思う。すでに言いたいことは言ってるだろうと思われるかもしれないけれど、そうでもないのよ(笑)
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