歩き旅2日目。早朝6時に起き、部屋でサンドイッチを食べ、歩き旅に必要でない荷物を置いたまま(同じホテルで2泊するので)出発した。
昨日、暗くなり、本陣探しをあきらめた中山道地点へ行ってみた。(浦和宿本陣跡はどこだろう・・・)と、ゆっくりと調べることにした。持ってきていた資料をじっくり読むと、本陣跡は仲町公園になっていることが分かった。さっそく「仲町公園」なる公園を探してみた。中山道に直接面していない公園だった。(中仙道に面していない位置だから、夕刻ではわからなかったらしい・・・)「街道に面した道の一部に本陣跡の碑か何かがあるだろう」と(経験上、多くの本陣がそうだったので)思い込んでいた。
仲町公園は中山道の道から20mほど細い道を入ったところにあった。7時10分、やっと発見。公園には浦和宿星野本陣跡の説明板があり、明治天皇行在所跡碑もあった。行在所跡碑は大きくて、びっくりしました。資料によると、皇女和宮様も浦和宿星野本陣にて昼食をとられている。りっぱな本陣であったのだろうと想像し、写真に収めた。
浦和宿での散策を終え、次の蕨宿方面へ歩き始めた時刻は7時30分ごろになっていた。調神社の前を通った。「調」の読み方・意味も分からずに、古くからある神社らしかったので、境内に入ってみた。調=「つき」と読む。租庸調の「調」で、調物(みつぎもの)という意味でした。武蔵国の調はこの地に集められたとのことでした。調(つき)神社のいわれを知り、なるほどと感心しました。調の読み方で、こんな読み方があったのですから。
調神社の前の道(中山道)をどんどん進んいくと、「旧中山道一里塚の跡」碑がありました。江戸日本橋から数えて5里目でした。公園の一部に碑があり、ベンチもありました。10分ほど休憩しました。時刻は、8時40分になっていました。国道17号線(起点=終点は、東京日本橋)が、旧中山道の近くを走る国道でした。(いよいよ17号線の到逹点=日本橋が近いかな?)と、勝手に思い始めたしだいです。(車なら、近かったことでしょうが・・・。)
境橋という橋【さいたま市と蕨(わらび)市の境】を越えると、すでに蕨市に入っていました。蕨市に入って、40分ほど歩いた地点に、「蕨市立歴史民俗資料館」がありました。この資料館は「蕨宿本陣跡」に建てられ、資料館内には、蕨宿本陣の「上段の間」が復元されていました。また、江戸時代の蕨宿の街並み全体の様子を縮小立体模型で見ることができました。大変参考になり、午前10時ごろまで、じっくり見学。「蕨宿」を味わうことができました。
蕨宿本陣跡(資料館)を出た後、しばらく行ったところに「蕨市立歴史民俗資料館・分館」の建物があり、中に入って見学させていただきました。建物は明治時代の建物で、「織物の買継商を営んでいた旧家」とのことで、蕨市に寄贈されていました。
中山道蕨宿碑が国道17号線に設置されていた地点は、まさに交通量の多い道幅の広い国道でした。この地点からの国道17号線は、ほぼ旧中山道と重なっていました。(この国道に沿って歩けは、日本橋へ到着だ!)
ところが、渡し船があった旧中山道の道を見つけることは難しかったですね。基本的には、旧中山道だった道をジグザグと探しながら「渡し船場」へ行き、その近くにある現在の橋を渡り、川の「向こう側の渡し場跡」へ行くという「時間のかかるコース」を歩くことになるからです。17号線から外れたコースを歩くことになり、苦労しました。
埼玉県の「菖蒲川」を渡るとき、さらに荒川(埼玉県と東京都との境になっていた地点)を渡るときは苦労しました。江戸時代、旧中山道・荒川には(防衛上)橋が架かっていなくて、渡し船だけでした。(現在は、直線で約500mの立派な橋=国道17号線の一部) その渡し船あった地点に「中山道 戸田の渡し」跡碑が設置されているとのことで、探してみました。川の土手を下りて行った地点に地元の人がいたので、尋ねてみました。その方のおかげで「碑」を見つけることができました。「船渡し場」へ行く案内標示が何もなかったので、見つけるのに苦労しました。かなり、見つけるのに時間がかかりました。わかりにくいところ(堤防の土手の見つけにくい場所)に設置されていた。思い出に残る「渡し場碑発見」になりました。
「戸田の渡し」碑を見つけることができた時刻は12時25分でした。碑を写真に収め、また国道17号線に戻りました。旧中山道は国道17号線そのものであったり、近くの道だったりしました。午後1時半ごろ、一里塚が国道17号線の両側(2か所)に残っている地点がありました。東京都内の中山道に「一里塚が残っているなんて! それも両塚が残っている!」と、感動しましたよ。名前は「志村一里塚」で、塚木は3代目の榎でした。国指定史跡に認定され、江戸日本橋から3里目の一里塚でした。(約12kmで日本橋だなあ、と独り言)
清水町交番がある地点(道路が2方向に分かれていた)から、国道17号線ではない左側の道が「旧中山道」だった。緩やかな坂の道で、縁切坂と地図に書かれていた。(縁切坂・・・?)奇妙な名前の坂だなあ、思いながら歩いていくと、「縁切榎」が植えられ、「榎大六天神」が祀られていた。資料によると、【現在の榎は3代目、男女の縁を切りたい時は、この榎の樹皮を煎じて相手に飲ませると、その願いが成就する】と書かれている。(本当かな?) 小さな神社だが、結構次々とお参りする人がいた。ほとんど女性でした。幟がはためき、榎を祀る小さな神社ながら、幟もはためいていたので、目立っていました。
中山道板橋宿の碑がありました。宿名(地名)にもなっている『板橋』(現在は平坦な広い橋ですが、江戸時代は長さ約16m・幅約5.4mの緩やかな太鼓橋だったようです。)がありました。そのすぐ近くに、本陣や脇本陣などあり、板橋宿の中心地だったようです。それらの建物はすべて「跡」だけで、「碑」すらも見つかりませんでした。商店街が続き、巣鴨地蔵通商店(「とげぬき地蔵」などへお参りする人が多い商店街)へと続いていました。ゆっくりと歩いたので、午後4時前になっていました。
JR巣鴨駅近くに「染井吉野(ソメイヨシノ)」碑や「徳川慶喜屋敷跡」碑があったので、JR巣鴨駅に向かった。冬、薄暗くなってくると、(1泊目と同じ)ホテルに帰りたくなりました。
JR巣鴨駅で駅員にJR西川口駅への行き方を教えていただきました。乗り換えが必要でしたが、無事にホテルに着けました。
歩き旅2日目は、41078歩でした。道に迷っていた分、歩数が予想以上に増えました。この日の地図上の中山道の(2日目の中山道の)距離は約20kmだったのですが、4万歩以上歩いていました。やや疲れました。ホテルに到着後、夕食→風呂→最終日(3日目)歩くコースの確認をし、就寝。
3日目(残り約6kmでゴール)の報告は「その3」へ *「その2」はここまでです。
仲町公園 (明治天皇行在所跡碑 その右手に「浦和星野本陣跡の説明板」の一部が写っている。
江戸日本橋から数えて5里目の一里塚があった地点。約20km先に今回の歩き旅のゴールが待っている。
蕨市立歴史資料館=蕨宿本陣跡に建てられていた。
蕨宿本陣跡碑
蕨宿 宿場の雰囲気が残っている建物あったので、パチリ。
蕨市立歴史民俗資料館・分館
中山道 「戸田の渡し」跡碑と説明板
志村一里塚 東京都内の中山道に「左右の両一里塚」が残っていた! 驚きだった。ほとんどの一里塚は「跡」ばかりだったから。それも、保存されているのは片方だけの一里塚がほとんど。
中山道板橋宿碑と説明板
現在の板橋 平坦で道幅が広かったです。
巣鴨地蔵通商店街の様子 夕方ゆえでしょうか? 人通りは少なく感じました。以前一度来たことがあったのですが、その時はものすごい数の人でした。特に「とげぬき地蔵」へのお参りの人が多くて、びっくりした印象があります。この日は写真のごとく、少なかったです。
この商店街が「中山道」だったと、今回初めて気づきました。
徳川慶喜氏は明治時代、静岡県の住まいから東京都の屋敷へ。巣鴨の屋敷から別の所へ転居されているようです。