2020/7/3
「丹後の古墳巡りと倉吉散策」 古代への好奇心
7月になり、久しぶりに古墳巡りをしてきた。(妻は古墳に興味はないが、今回は付き合ってくれた。倉吉市の町並み見学もする予定が気に入ってくれたようだ。)古墳見学も一緒にしてくれた。京都の丹後半島付け根の与謝野町の古墳群を見学した。『与謝野町立古墳公園』という公園内の古墳群(復元古墳を含む)約8基。
公園内の主な古墳は「蛭子山古墳(えびすやまこふん)」と「作山古墳(つくりやまこふん」である。
「蛭子山古墳」は、丹後地方にある3大古墳(網野銚子山古墳198m・神明山古墳190m・蛭子山古墳145m)の一つ。古墳時代前期の古墳としては大きく、「日本海3大古墳」とみなされている。日本海沿岸部には何万という数の古墳がある。(日本全国には約16万基ある)
丹後地方は、弥生時代から栄えていたところで、すごい数の遺跡や古墳がある。神社も多い。「元伊勢」なる神社もあり、伊勢神宮との関係も深い地域である。いわゆる「丹後王国」と呼ばれた時代もあった。
蛭子山古墳(145m)は、仁徳天皇陵古墳(日本1位・486m)や応仁天皇陵古墳(2位・425m)などに比べれば小規模だが、1600年前の古墳としては見事だ。
天皇の墓ではなく、豪族の墓だとみなされているので、墳頂に登っていくことができる。とにかく登れる古墳見学は楽しい。
墳頂には石の棺(石棺)がそのままの場所に置かれていた。後円部墳頂の場所に、石棺を風雨や人から守るための建物があり、大切の保管されていた。見たところ、レプリカではなく、本物の石棺だった。
さすがに、葬られた人の骨はなかったが…。
古墳などの人間の骨は年月の経過に伴って溶けてなくなってしまう場合がほとんど。概して1500年ほど経過している古墳群。それらが発掘されても、骨が残っている場合はほとんどない。まれに残っている場合がある。「完璧なミイラ」のように処理されていたり、水没していたまま=(いわゆる空気に触れることなく、「真空状態のままで」)、骨が発掘される場合がある。(大規模遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡。その他のごく一部の遺跡・古墳などで)
今回、青谷上寺地遺跡にも(2年ぶりに)再訪してみた。発掘された現場(草むらになっていた)へ2年前には訪れることができなかったので、行ってみたいと思っていた。
ちなみに、妻は車の中で待っていてくれた。私一人だけでうろうろ草むらを歩き回ったのだった。(この草むらの地下で弥生時代の遺跡が見つかったのだ! 人糞の化石や多くの人骨も見つかったのだ! すごい遺跡だ! 今は草ぼうぼうだけれど・・・)
一人でぶつぶつ言いながら…。「へんなおじさん?」やっていたらしい。
丹後地方の古墳群は、規模(墳丘の長さ)こそ百舌鳥古市古墳群の超巨大古墳に比べれば短いが、古墳の墳頂に登れたり、石棺をカメラに収めたりできたので、感激した。
作山古墳(同じ名前の大きな古墳が岡山県にあるのだが、その古墳とは違うもの。)=丹後の作山古墳は1号~5号まであり、復元古墳になっていた。埴輪などがレプリカで復元され、並べられていた。古墳設置当時を想像できるようになっていた。古墳全体がリアルに復元されていた。
「この古墳公園が大阪に近かったら…観光客も増えるだろう。」と思った。今日の見学者は、私たちともう一組だけだった。とにかく、古墳公園(入園料300円)はガラーンとしていた。
かなりお金をかけている古墳公園だったが、見学者が少なかった。
旅行、2日目。
鳥取県の青谷上寺地遺跡(発掘場)を弥生時代を連想しながら、一人でさ迷いながら歩いてきた。広々とした場所で、草が茂っているだけだった。発掘当時は人が大勢来たのであろうが…。今は、まるで「夏草や兵どもが夢のあと」のようにひっそりとしていた。
ただ写真などが数枚パネル掲示されていたが・・・。
すぐ近くを建設したての「山陰自動車道(無料の高速道路)」が部分開通していて、車が多く流れていた。しかし、この地が「弥生時代には繁栄した地」であったとほとんどの人は気づいていないかもしれない…。
まあ、関心のある人とない人とでは、何事も「好奇心の対象」が違うものだ。
私にしても、遺跡に興味を持つようになったのは、数年前からのことだから、人にとやかくは言えない。
倉吉市の「白壁土蔵群」を散策して、ゆっくりした気分になれた。「暮らし良い」町とのこと。白壁土蔵群は味わいのある散策コース。お薦めですよ。(私は3度目でした。) 了
公園全体図 左手=蛭子山古墳 右手=作山古墳群(1号~5号墳)
蛭子山古墳 後円部への階段
登りきったところが墳頂部
墳頂部 中心部建物の中に石棺が保管されていた。
石棺 かぶせる上の石 見学する者が見やすいように隙間をあけているのだろうか? 発掘・発見時は棺は上の石で閉まっているのが普通かな? 祭礼・儀式後、石棺は閉じられるのが普通だから。(盗掘されていたら、話は別だが・・・)
作山古墳(丹後) 登っていくことができる。埴輪(レプリカ)が並べられていて、築造当時に復元されている。
青谷上寺地遺跡(発掘現場) 草が茂っているだけの場所だった。
発掘当時の様子が写真で紹介されていた。
スマホ利用で動画で再現できるのだが、私のスマホ操作がうまくいかず、(発掘作業の動画を)見ることはできなかった。「スマホに詳しい人が一緒だったら…」と、残念な気持ちになった。スマホ操作が未熟な私、はがゆかった。
発掘の様子や出土品などの写真(ものすごい数の弥生時代の人骨なども出てきたのだ!)
この地は2000年ほど「地下=水の中」だったようで、真空状態で保存されてきたらしい。これほどの規模の「地下遺跡」は最大級だろう。『地下の弥生博物館』と評価されている遺跡である。とにかく、ものすごい骨群がザクザクと出てきのだ! 武器で傷ついた頭骨まで発掘されている。倭国大乱があった証拠場所かもしれない。とにかく日本海沿海部は「倭国」が存在したところに違いない。大発見の遺跡だった!
倉吉(地名の起こりは、「暮らし良い」かな?)
白壁土蔵の街並み いい雰囲気が残っていた。
公園内の主な古墳は「蛭子山古墳(えびすやまこふん)」と「作山古墳(つくりやまこふん」である。
「蛭子山古墳」は、丹後地方にある3大古墳(網野銚子山古墳198m・神明山古墳190m・蛭子山古墳145m)の一つ。古墳時代前期の古墳としては大きく、「日本海3大古墳」とみなされている。日本海沿岸部には何万という数の古墳がある。(日本全国には約16万基ある)
丹後地方は、弥生時代から栄えていたところで、すごい数の遺跡や古墳がある。神社も多い。「元伊勢」なる神社もあり、伊勢神宮との関係も深い地域である。いわゆる「丹後王国」と呼ばれた時代もあった。
蛭子山古墳(145m)は、仁徳天皇陵古墳(日本1位・486m)や応仁天皇陵古墳(2位・425m)などに比べれば小規模だが、1600年前の古墳としては見事だ。
天皇の墓ではなく、豪族の墓だとみなされているので、墳頂に登っていくことができる。とにかく登れる古墳見学は楽しい。
墳頂には石の棺(石棺)がそのままの場所に置かれていた。後円部墳頂の場所に、石棺を風雨や人から守るための建物があり、大切の保管されていた。見たところ、レプリカではなく、本物の石棺だった。
さすがに、葬られた人の骨はなかったが…。
古墳などの人間の骨は年月の経過に伴って溶けてなくなってしまう場合がほとんど。概して1500年ほど経過している古墳群。それらが発掘されても、骨が残っている場合はほとんどない。まれに残っている場合がある。「完璧なミイラ」のように処理されていたり、水没していたまま=(いわゆる空気に触れることなく、「真空状態のままで」)、骨が発掘される場合がある。(大規模遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡。その他のごく一部の遺跡・古墳などで)
今回、青谷上寺地遺跡にも(2年ぶりに)再訪してみた。発掘された現場(草むらになっていた)へ2年前には訪れることができなかったので、行ってみたいと思っていた。
ちなみに、妻は車の中で待っていてくれた。私一人だけでうろうろ草むらを歩き回ったのだった。(この草むらの地下で弥生時代の遺跡が見つかったのだ! 人糞の化石や多くの人骨も見つかったのだ! すごい遺跡だ! 今は草ぼうぼうだけれど・・・)
一人でぶつぶつ言いながら…。「へんなおじさん?」やっていたらしい。
丹後地方の古墳群は、規模(墳丘の長さ)こそ百舌鳥古市古墳群の超巨大古墳に比べれば短いが、古墳の墳頂に登れたり、石棺をカメラに収めたりできたので、感激した。
作山古墳(同じ名前の大きな古墳が岡山県にあるのだが、その古墳とは違うもの。)=丹後の作山古墳は1号~5号まであり、復元古墳になっていた。埴輪などがレプリカで復元され、並べられていた。古墳設置当時を想像できるようになっていた。古墳全体がリアルに復元されていた。
「この古墳公園が大阪に近かったら…観光客も増えるだろう。」と思った。今日の見学者は、私たちともう一組だけだった。とにかく、古墳公園(入園料300円)はガラーンとしていた。
かなりお金をかけている古墳公園だったが、見学者が少なかった。
旅行、2日目。
鳥取県の青谷上寺地遺跡(発掘場)を弥生時代を連想しながら、一人でさ迷いながら歩いてきた。広々とした場所で、草が茂っているだけだった。発掘当時は人が大勢来たのであろうが…。今は、まるで「夏草や兵どもが夢のあと」のようにひっそりとしていた。
ただ写真などが数枚パネル掲示されていたが・・・。
すぐ近くを建設したての「山陰自動車道(無料の高速道路)」が部分開通していて、車が多く流れていた。しかし、この地が「弥生時代には繁栄した地」であったとほとんどの人は気づいていないかもしれない…。
まあ、関心のある人とない人とでは、何事も「好奇心の対象」が違うものだ。
私にしても、遺跡に興味を持つようになったのは、数年前からのことだから、人にとやかくは言えない。
倉吉市の「白壁土蔵群」を散策して、ゆっくりした気分になれた。「暮らし良い」町とのこと。白壁土蔵群は味わいのある散策コース。お薦めですよ。(私は3度目でした。) 了
公園全体図 左手=蛭子山古墳 右手=作山古墳群(1号~5号墳)
蛭子山古墳 後円部への階段
登りきったところが墳頂部
墳頂部 中心部建物の中に石棺が保管されていた。
石棺 かぶせる上の石 見学する者が見やすいように隙間をあけているのだろうか? 発掘・発見時は棺は上の石で閉まっているのが普通かな? 祭礼・儀式後、石棺は閉じられるのが普通だから。(盗掘されていたら、話は別だが・・・)
作山古墳(丹後) 登っていくことができる。埴輪(レプリカ)が並べられていて、築造当時に復元されている。
青谷上寺地遺跡(発掘現場) 草が茂っているだけの場所だった。
発掘当時の様子が写真で紹介されていた。
スマホ利用で動画で再現できるのだが、私のスマホ操作がうまくいかず、(発掘作業の動画を)見ることはできなかった。「スマホに詳しい人が一緒だったら…」と、残念な気持ちになった。スマホ操作が未熟な私、はがゆかった。
発掘の様子や出土品などの写真(ものすごい数の弥生時代の人骨なども出てきたのだ!)
この地は2000年ほど「地下=水の中」だったようで、真空状態で保存されてきたらしい。これほどの規模の「地下遺跡」は最大級だろう。『地下の弥生博物館』と評価されている遺跡である。とにかく、ものすごい骨群がザクザクと出てきのだ! 武器で傷ついた頭骨まで発掘されている。倭国大乱があった証拠場所かもしれない。とにかく日本海沿海部は「倭国」が存在したところに違いない。大発見の遺跡だった!
倉吉(地名の起こりは、「暮らし良い」かな?)
白壁土蔵の街並み いい雰囲気が残っていた。
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タグ: 古墳
2020/6/18
「古代の地図がおもしろい(含・追加分)」 古代への好奇心
弥生時代以後の大阪・奈良近辺の地形を想像してみた。
約2000年~1500前の大阪平野および奈良近辺の地形を調べたり、想像することは楽しい。
大阪平野(河内平野)に河内湖があった時代、奈良盆地は「古代奈良湖」が浅くなり、陸地化し始めていたようだ。「古代奈良湖」の底は平たく、陸地化した土地に、(飛鳥時代になり)「藤原京」などの都が作られたようだ。大和三山が昔は「島」だったようだ。
広大な「藤原京」の中に、大和三山(耳成山、畝傍山、天香久山)が存在する・・・。藤原京の真ん中に立つと、大和三山が(ぐるりと回ると)見渡せる。この風景は一見である。大和三山が「古代においては島」だったと想像できる。
古墳時代、琵琶湖方面と大和地方とは船で行き来できたと推測できる。
さらに、想像するなら・・・、日本海・丹後地方または敦賀と琵琶湖は舟で行き来できたようにも思える。川を利用し、陸上の一部は船を曳いて移動させる。
日本海と琵琶湖は舟で行き来できたように想像している。
日本海ルート + 琵琶湖利用大和川ルート で、中国・朝鮮などとつながっていたのかもしれない。想像の世界だが…。
可能性はある。
中国山地(鳥取県だったかな?)「船通山」という山がある。船が通う山・・・。どういういわれがあって、こんな名がついているのだろうか? 地名が謎を解くヒントになってくれそうだ。
地名はおもしろい。
古代においては、琵琶湖 → 宇治川 → 巨椋(おぐら)池 → 淀川 → 河内湖 → 大阪湾 とつながっていた。船で行き来できたようだ。荷物を運ぶには船が便利だったと考えられる。
河内湖の東側には生駒山があり、生駒山の麓には「馬が放牧(飼育)」されていただろう。地名から想像できる。
河内湖と古代奈良湖(古奈良湖)は大和川でつながっていた。この大和川は、現在の大和川とは違う。現在の大和川の下流は江戸時代(1704年)に人の手で掘られた運河(江戸時代の地図には、新大和川と書かれている。)なのである。
古代の大和川は河内湖に流れ込んでいた。河内湖が消滅した後は、上町台地周辺で、淀川と合流し、大阪湾に流れこんでいた。
新大和川が掘られるまでは、大雨が降ると洪水が頻発していたようだ。新大和川が掘られたので、洪水被害が激減した。その代わり、堺の堺港近くの海には土砂が流れ込むことになった。江戸時代後半、堺港が土砂の弊害で発展にブレーキがかかることになったわけである。
川の流れが変わると、一大変化をもたらすものだ。
古代、上町台地(河内湖と大阪湾に挟まれた、つきだした部分)の北端付近はとにかく潮の流れが速く、航行の難所だったと考えられる。上町台地の西沿岸部は、特に潮の流れが速かった。「浪速」という地名にも表れている。「浪速」という語がなまった「難波」も地名として定着していった。どちらも、潮流の速さからきている言葉である。現代においては、なまった言葉=「難波」が、地名・駅名として一般化している。
もともとの「浪速」は「浪速区」「浪速警察署」などと使われている。
歴史的には「浪速」が古い。が、「難波」駅は超有名な駅である。
縄文時代の河内は 湖ではなく「海」だった。 河内湾
高槻・枚方方面まで 河内湾が広まっていた。
弥生時代後期になると 上町台地の先端海岸部から砂州が伸びていき、河内湾の口がすぼめられ、海水の流れが少なくなり、淡水の湖(=河内湖)になっていったようだ。
古墳時代(後期)になると、いよいよ河内湖は浅くなり、湖の大きさも狭められていった。しかし、仏教が(現在の)奈良県・桜井市に初めて伝来したルートを予想すれば、大阪湾から桜井市「仏教伝来地」まで、船で行くことができたようだ。大和川の存在が重要だったに違いない。現在のJR王寺駅近辺の大和川は急流だったようだ。(川航路の難所だったにちがいない。)
琵琶湖と大和地方とは、船でつながっていた時代でもあった。
仏教伝来ルート(予想ルート)
=大阪湾 → 河内湖 → 長瀬川(大和川本流だった) → 大和川 → 桜井市
約2000年~1500前の大阪平野および奈良近辺の地形を調べたり、想像することは楽しい。
大阪平野(河内平野)に河内湖があった時代、奈良盆地は「古代奈良湖」が浅くなり、陸地化し始めていたようだ。「古代奈良湖」の底は平たく、陸地化した土地に、(飛鳥時代になり)「藤原京」などの都が作られたようだ。大和三山が昔は「島」だったようだ。
広大な「藤原京」の中に、大和三山(耳成山、畝傍山、天香久山)が存在する・・・。藤原京の真ん中に立つと、大和三山が(ぐるりと回ると)見渡せる。この風景は一見である。大和三山が「古代においては島」だったと想像できる。
古墳時代、琵琶湖方面と大和地方とは船で行き来できたと推測できる。
さらに、想像するなら・・・、日本海・丹後地方または敦賀と琵琶湖は舟で行き来できたようにも思える。川を利用し、陸上の一部は船を曳いて移動させる。
日本海と琵琶湖は舟で行き来できたように想像している。
日本海ルート + 琵琶湖利用大和川ルート で、中国・朝鮮などとつながっていたのかもしれない。想像の世界だが…。
可能性はある。
中国山地(鳥取県だったかな?)「船通山」という山がある。船が通う山・・・。どういういわれがあって、こんな名がついているのだろうか? 地名が謎を解くヒントになってくれそうだ。
地名はおもしろい。
古代においては、琵琶湖 → 宇治川 → 巨椋(おぐら)池 → 淀川 → 河内湖 → 大阪湾 とつながっていた。船で行き来できたようだ。荷物を運ぶには船が便利だったと考えられる。
河内湖の東側には生駒山があり、生駒山の麓には「馬が放牧(飼育)」されていただろう。地名から想像できる。
河内湖と古代奈良湖(古奈良湖)は大和川でつながっていた。この大和川は、現在の大和川とは違う。現在の大和川の下流は江戸時代(1704年)に人の手で掘られた運河(江戸時代の地図には、新大和川と書かれている。)なのである。
古代の大和川は河内湖に流れ込んでいた。河内湖が消滅した後は、上町台地周辺で、淀川と合流し、大阪湾に流れこんでいた。
新大和川が掘られるまでは、大雨が降ると洪水が頻発していたようだ。新大和川が掘られたので、洪水被害が激減した。その代わり、堺の堺港近くの海には土砂が流れ込むことになった。江戸時代後半、堺港が土砂の弊害で発展にブレーキがかかることになったわけである。
川の流れが変わると、一大変化をもたらすものだ。
古代、上町台地(河内湖と大阪湾に挟まれた、つきだした部分)の北端付近はとにかく潮の流れが速く、航行の難所だったと考えられる。上町台地の西沿岸部は、特に潮の流れが速かった。「浪速」という地名にも表れている。「浪速」という語がなまった「難波」も地名として定着していった。どちらも、潮流の速さからきている言葉である。現代においては、なまった言葉=「難波」が、地名・駅名として一般化している。
もともとの「浪速」は「浪速区」「浪速警察署」などと使われている。
歴史的には「浪速」が古い。が、「難波」駅は超有名な駅である。
縄文時代の河内は 湖ではなく「海」だった。 河内湾
高槻・枚方方面まで 河内湾が広まっていた。
弥生時代後期になると 上町台地の先端海岸部から砂州が伸びていき、河内湾の口がすぼめられ、海水の流れが少なくなり、淡水の湖(=河内湖)になっていったようだ。
古墳時代(後期)になると、いよいよ河内湖は浅くなり、湖の大きさも狭められていった。しかし、仏教が(現在の)奈良県・桜井市に初めて伝来したルートを予想すれば、大阪湾から桜井市「仏教伝来地」まで、船で行くことができたようだ。大和川の存在が重要だったに違いない。現在のJR王寺駅近辺の大和川は急流だったようだ。(川航路の難所だったにちがいない。)
琵琶湖と大和地方とは、船でつながっていた時代でもあった。
仏教伝来ルート(予想ルート)
=大阪湾 → 河内湖 → 長瀬川(大和川本流だった) → 大和川 → 桜井市
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タグ: 古代の地図から想像
2020/6/18
「古代の地図がおもしろい」 古代への好奇心
弥生時代以後の大阪・奈良近辺の地形を想像してみた。
約2000年~1500前の大阪平野および奈良近辺の地形を調べたり、想像することは楽しい。
大阪平野(河内平野)に河内湖があった時代、奈良盆地は「古代奈良湖」が浅くなり、陸地化し始めていたようだ。「古代奈良湖」の底は平たく、陸地化した土地に、(飛鳥時代になり)「藤原京」などの都が作られたようだ。大和三山が昔は「島」だったようだ。
広大な「藤原京」の中に、大和三山(耳成山、畝傍山、天香久山)が存在する・・・。藤原京の真ん中に立つと、大和三山が(ぐるりと回ると)見渡せる。この風景は一見である。大和三山が「古代においては島」だったと想像できる。
つづく
約2000年~1500前の大阪平野および奈良近辺の地形を調べたり、想像することは楽しい。
大阪平野(河内平野)に河内湖があった時代、奈良盆地は「古代奈良湖」が浅くなり、陸地化し始めていたようだ。「古代奈良湖」の底は平たく、陸地化した土地に、(飛鳥時代になり)「藤原京」などの都が作られたようだ。大和三山が昔は「島」だったようだ。
広大な「藤原京」の中に、大和三山(耳成山、畝傍山、天香久山)が存在する・・・。藤原京の真ん中に立つと、大和三山が(ぐるりと回ると)見渡せる。この風景は一見である。大和三山が「古代においては島」だったと想像できる。
つづく
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2020/6/8
「日本海ルートの線刻画に着目」 古代への好奇心
兵庫県豊岡市出石町 「袴狭(はかざ)遺跡」で発掘された木製品・線刻画に描かれていたもの。
それは、まさに日本海ルートを航行する船団(16隻の外洋船団)の様子らしい。
兵庫県立考古博物館に展示されている実物(=線刻画)をまだ見ていないので、機会を見つけて見学しに行くつもり。
以下、博物館の資料のネット情報より。
【 袴狭遺跡群は円山川と出石川によって形成された低湿な沖積平野に立地しています。発掘調査の結果、低湿地によって守られた大量の木製品が出土しました。
その内弥生時代後期から古墳時代前期の2点の木製品に線刻画が描かれていました。
1点は組み合わせると箱形になるもので、長さ54センチ、幅13センチ、高さ9センチになります。天板と両小口板が欠損していますが、両長側板にはサケ、シュモクザメ、シカ、カツオ、のほか、何重もの方形文様や勾玉形の文様なども描かれています。
もう一点は長さ197.3センチ、幅16.2センチの長大な板で、大小16隻の準構造船が描かれています。準構造船には口を開けたような表現のあるものがあり、大阪府高廻り2号墳出土埴輪のような先端が二股に分かれるようなタイプの船を描いていると考えられます。 】
2m近い長さの板に描かれていた「弥生時代後期頃の木製線刻画」。よくもまあ、木が腐らずに現代にまで残っていたものだ。鳥取県の青谷上寺地遺跡を見学したときも「よくもまあ、こんなすごい歴史ある遺跡が発掘されたものだ!」と感激したものだった。弥生時代の遺跡が日本海沿岸部で、どんどん見つかっているようだ。
古墳時代の古墳に注目するのはいいが、古墳時代以前の遺跡(弥生時代後期の遺跡)にもっとスポットを当てるべきだと思う。
「日本書紀」や「古事記」が書かれたのは8世紀のこと。それも、ヤマト政権(御用学者群)が都合よく脚色した内容になっているようだ。(多くの学者がそう書いている。)
弥生時代後期の日本海側沿岸部の遺跡群にスポットを当てながら、今後とも述べていきたいと思っている。
「邪馬台国は丹後にあった!」または「邪馬台国はコシの国にあった!」という説(少数意見)を応援するために。
関西のとある遺跡で発掘された「船形埴輪」の一例
先端部がアヒルの口を開けているような形になっている。複数の人間が乗り込める構造になっており、丸木舟とはちがう「準構造船」。外洋航路で航行可能な船だった。写真の展示物は、埴輪だが、実物の船を模したものに違いない。
こういう船が16隻も船団をなして朝鮮や中国と交易したのだろう。線刻画からの想像だが…。
航海安全の祈祷・占いをすることは、女王「卑弥呼」らにとって一番重要なことであったようだ。船団が難破すれば、すべてのものが無に帰してしまう。占い・予測が外れてしまう無能祈祷師は何人も殺されたかもしれない。そういう祈祷師は歴史に残らない。
たぶん、一番「祈祷力=航海安全の気象を予測する力などが優れていた人」が、天才祈祷師「卑弥呼」と後継者の「台与(とよ?)」という女性たちだったにちがいない。
それにしても古代において、「女性」の存在は大きいなあ!
天照大御神も「女性」なのだから。「男」の神・指導者は、世の中をまとめる力はないらしい…。
さて、現代はどうかな?
長野正孝氏の書物より(「鉄と翡翠の道」日本海ルート図)
同じく長野正孝氏書物より 袴狭遺跡発掘の線刻画写真
一部分なので、船の数は少ないが、なんとか見えている。
16隻描かれた実物を博物館で見たいものだ!
それは、まさに日本海ルートを航行する船団(16隻の外洋船団)の様子らしい。
兵庫県立考古博物館に展示されている実物(=線刻画)をまだ見ていないので、機会を見つけて見学しに行くつもり。
以下、博物館の資料のネット情報より。
【 袴狭遺跡群は円山川と出石川によって形成された低湿な沖積平野に立地しています。発掘調査の結果、低湿地によって守られた大量の木製品が出土しました。
その内弥生時代後期から古墳時代前期の2点の木製品に線刻画が描かれていました。
1点は組み合わせると箱形になるもので、長さ54センチ、幅13センチ、高さ9センチになります。天板と両小口板が欠損していますが、両長側板にはサケ、シュモクザメ、シカ、カツオ、のほか、何重もの方形文様や勾玉形の文様なども描かれています。
もう一点は長さ197.3センチ、幅16.2センチの長大な板で、大小16隻の準構造船が描かれています。準構造船には口を開けたような表現のあるものがあり、大阪府高廻り2号墳出土埴輪のような先端が二股に分かれるようなタイプの船を描いていると考えられます。 】
2m近い長さの板に描かれていた「弥生時代後期頃の木製線刻画」。よくもまあ、木が腐らずに現代にまで残っていたものだ。鳥取県の青谷上寺地遺跡を見学したときも「よくもまあ、こんなすごい歴史ある遺跡が発掘されたものだ!」と感激したものだった。弥生時代の遺跡が日本海沿岸部で、どんどん見つかっているようだ。
古墳時代の古墳に注目するのはいいが、古墳時代以前の遺跡(弥生時代後期の遺跡)にもっとスポットを当てるべきだと思う。
「日本書紀」や「古事記」が書かれたのは8世紀のこと。それも、ヤマト政権(御用学者群)が都合よく脚色した内容になっているようだ。(多くの学者がそう書いている。)
弥生時代後期の日本海側沿岸部の遺跡群にスポットを当てながら、今後とも述べていきたいと思っている。
「邪馬台国は丹後にあった!」または「邪馬台国はコシの国にあった!」という説(少数意見)を応援するために。
関西のとある遺跡で発掘された「船形埴輪」の一例
先端部がアヒルの口を開けているような形になっている。複数の人間が乗り込める構造になっており、丸木舟とはちがう「準構造船」。外洋航路で航行可能な船だった。写真の展示物は、埴輪だが、実物の船を模したものに違いない。
こういう船が16隻も船団をなして朝鮮や中国と交易したのだろう。線刻画からの想像だが…。
航海安全の祈祷・占いをすることは、女王「卑弥呼」らにとって一番重要なことであったようだ。船団が難破すれば、すべてのものが無に帰してしまう。占い・予測が外れてしまう無能祈祷師は何人も殺されたかもしれない。そういう祈祷師は歴史に残らない。
たぶん、一番「祈祷力=航海安全の気象を予測する力などが優れていた人」が、天才祈祷師「卑弥呼」と後継者の「台与(とよ?)」という女性たちだったにちがいない。
それにしても古代において、「女性」の存在は大きいなあ!
天照大御神も「女性」なのだから。「男」の神・指導者は、世の中をまとめる力はないらしい…。
さて、現代はどうかな?
長野正孝氏の書物より(「鉄と翡翠の道」日本海ルート図)
同じく長野正孝氏書物より 袴狭遺跡発掘の線刻画写真
一部分なので、船の数は少ないが、なんとか見えている。
16隻描かれた実物を博物館で見たいものだ!
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タグ: 線刻画に描かれていたもの
2020/6/5
「コシの国への好奇心④石川県・邑知潟(おうちがた)」 古代への好奇心
能登半島の付け根部分(西側)に邑知潟(おうちがた)地溝帯という低地が続いている。現在の羽咋市にある潟ならびに低地帯である。細長い溝のような低地で、北東方向に位置する七尾市(富山湾に面している)につながっている。断層のような地だが、地質学者によると、断層ではないとのことである。
現在、JR七尾線が標高の低い地溝帯に沿って走っている。
この邑知潟周辺こそ、縄文時代・弥生時代・古墳時代には重要な地であった。縄文土器や弥生時代の集落跡などがある。発掘もされている。
弥生時代には、この地で「卜骨(ぼくこつ)」(=動物の骨を焼いて吉凶を占う祭祀)が行われていた。いわゆる卑弥呼など祈祷師が、主に航海安全のタイミングを占うために、(弥生時代から古墳時代などに)卜骨を行っていた。卜骨後の骨が遺跡から見つかっている。日本海側の主な沿海部で見つかっている。その卜骨実施個所の北限が、「邑知潟」である。つまり、邑知潟周辺こそ、「女王」の支配が及ぶ「邪馬台国の一部」だったと考えられる。この考え方をする学者もいる。
弥生時代、海洋民族であった倭国にとって、国際交易品としての重要産物は、(新潟県糸魚川市)姫川上流に産する翡翠(ヒスイ)だった。
翡翠は、中国や朝鮮では産出しないものだったので、わずかな量とはいえ、超高価な価値を持つ宝石だったのである。中国や朝鮮では、王族クラスの人たちが「超魔力を秘めている翡翠(緑色の光のパワーを放つ)」を競って手に入れようとした。
一方、倭人は交易品として(当時の日本にはなかった)鉄材を手に入れようとした。鉄材を加工して、武器や農具にした。
ちなみに、数世紀後にこの輸入鉄材を制したのが、「大和朝廷」」。
倭国にとって「鉄こそ超貴重品」だったのだ。大きくは「鉄材」と「翡翠」との交換が交易品の中心になった。
この翡翠(ヒスイ)の原石を運ぶルート・方法として、日本海・船が使われた。富山湾から能登半島を遠回りするよりも、能登半島の邑知潟地溝帯を(一部区間は陸上を船を引っ張って移動したと考えられる)船で移動するほうが早い。潟と川を移動すれば便利だ。弥生時代、邑知潟地溝帯の距離は約20km余りだった。
この邑知潟こそは「翡翠の移動ルート」として最重要拠点だった。だから、人が集まり、文化も高度になっていったにちがいない。
姫川 → 邑知潟 → 三国 → 敦賀 → 丹後方面 → 出雲 → 対馬 → 朝鮮・中国へ 移動していったと考えられる。逆ルートは「鉄材」が倭国に運ばれてくることになる。
まさに、日本海ルートは「鉄の道」であり、「翡翠の道」でもあったのだ。
祈祷師による祭祀跡か? 動物の焼いた骨が大量に発掘されている。
現在、JR七尾線が標高の低い地溝帯に沿って走っている。
この邑知潟周辺こそ、縄文時代・弥生時代・古墳時代には重要な地であった。縄文土器や弥生時代の集落跡などがある。発掘もされている。
弥生時代には、この地で「卜骨(ぼくこつ)」(=動物の骨を焼いて吉凶を占う祭祀)が行われていた。いわゆる卑弥呼など祈祷師が、主に航海安全のタイミングを占うために、(弥生時代から古墳時代などに)卜骨を行っていた。卜骨後の骨が遺跡から見つかっている。日本海側の主な沿海部で見つかっている。その卜骨実施個所の北限が、「邑知潟」である。つまり、邑知潟周辺こそ、「女王」の支配が及ぶ「邪馬台国の一部」だったと考えられる。この考え方をする学者もいる。
弥生時代、海洋民族であった倭国にとって、国際交易品としての重要産物は、(新潟県糸魚川市)姫川上流に産する翡翠(ヒスイ)だった。
翡翠は、中国や朝鮮では産出しないものだったので、わずかな量とはいえ、超高価な価値を持つ宝石だったのである。中国や朝鮮では、王族クラスの人たちが「超魔力を秘めている翡翠(緑色の光のパワーを放つ)」を競って手に入れようとした。
一方、倭人は交易品として(当時の日本にはなかった)鉄材を手に入れようとした。鉄材を加工して、武器や農具にした。
ちなみに、数世紀後にこの輸入鉄材を制したのが、「大和朝廷」」。
倭国にとって「鉄こそ超貴重品」だったのだ。大きくは「鉄材」と「翡翠」との交換が交易品の中心になった。
この翡翠(ヒスイ)の原石を運ぶルート・方法として、日本海・船が使われた。富山湾から能登半島を遠回りするよりも、能登半島の邑知潟地溝帯を(一部区間は陸上を船を引っ張って移動したと考えられる)船で移動するほうが早い。潟と川を移動すれば便利だ。弥生時代、邑知潟地溝帯の距離は約20km余りだった。
この邑知潟こそは「翡翠の移動ルート」として最重要拠点だった。だから、人が集まり、文化も高度になっていったにちがいない。
姫川 → 邑知潟 → 三国 → 敦賀 → 丹後方面 → 出雲 → 対馬 → 朝鮮・中国へ 移動していったと考えられる。逆ルートは「鉄材」が倭国に運ばれてくることになる。
まさに、日本海ルートは「鉄の道」であり、「翡翠の道」でもあったのだ。
祈祷師による祭祀跡か? 動物の焼いた骨が大量に発掘されている。
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2020/6/2
「コシの国への好奇心③石川県・高麗津(こまつ)」 古代への好奇心
福井県・三国から少し北に行くと、石川県小松市に達する。この小松という地名は、弥生時代の語源は「高麗津(こまつ)」であったようだ。高麗=高句麗からやってきた人が住み着いた港があったに違いない。現在の観光地「安宅関」周辺が、津=港のあったところだろうと、推測できる。
朝鮮半島東側沿海地域(現在の北朝鮮)から難破船が漂流してくると、能登半島部西海岸部に漂着することが多い。(日本海沿岸部・近場では出雲地方。多くは能登半島に。遠くでは北海道に。)
これは現代の北朝鮮から脱出を試みた船が難破船となり、漂流したコースにおいてもいえることである。海流の流れは、弥生時代も現在も変わらない。
朝鮮半島東側海岸部を離れた船は、まずロシアから流れてくるリマン海流にながされ、南下する。(日本の)対馬の東部方面海域に達すると、方向を変える。対馬海流に流されと東ヘ(出雲沖→丹後半島→能登半島へ)流されていくことになる。一部は、隠岐の島や佐渡島にたどり着く漂流船もあったにちがいない。
たぶん、朝鮮半島から船出した人々(戦乱で、日本へ行かざるを得なくなった人々=ボートピープル)の多くは福井県・三国港や石川県・高麗津(小松)に到達した人々が多かったに違いない。出雲コース・丹後コース・三国コース・高麗津コースなど、渡来人船乗りが航路をつくりあげていたと考えられる。
造船技術・操船技術・米作り・仏教・鉄加工など、高度な文化を日本にもたらしたのはすべて渡来人たちである。馬を日本にもたらしたのも、渡来人だ。朝鮮半島から船で運んできた。
馬に関しては高麗人が得意とする分野である。小松市にある博物館には「人が足を広げて馬に乗っている埴輪」が展示されているようだ。(私はまだ実物を見学していないのだが)とにかく高麗(高句麗)は、騎馬民族であり、馬に関係が深いようだ。
弥生時代ごろ、三国港には(世界中から、つまり中国・朝鮮などから渡来人がやってきたのだろう。また、小松には高麗から多くの渡来人がやってきたのであろう。と、私は勝手に想像して地図を眺めている。九頭竜川河口部の三国。白山から流れてきた川の河口部が(高麗津)小松市に該当する。現在の安宅関辺りの川は小さいが、弥生時代はかなり大きかったに違いない。現在の状況とは違うはずだから。
弥生時代を考えるためには、2000年前の海岸線をしらべて、弥生時代の地形・海岸線を推定する必要がある。ちなみに、弥生時代の超巨大水田地帯(人口が多かったに違いない)は、福井県九頭竜川流域地帯なのである。まさに、福井県・三国周辺は日本一の穀倉地帯だったようだ。ある資料には、沖積平野として水田に適した土地であると書かれていた。
三国・小松周辺に渡来人が押し寄せたのは、日本一の穀倉地帯ゆえだったからであろう。もっとも、新潟県が日本一の穀倉地帯になるのは弥生時代よりもずっと後のことある。
弥生時代前期、奈良県中心部は、奈良湖があり、大阪平野には河内湖があった。弥生時代の遺跡があるのは、海岸部に多く、大阪平野の弥生時代の遺跡もやはり海岸部(川の河口部など)が多い。(少し話が脱線してきましたが・・・)
とにかく石川県には真脇遺跡(縄文時代の遺跡)があり、福井県には恐竜博物館(すごいですね、この博物館は!)があるぐらい「古代との関係は密」な地域である。当然、弥生時代の遺跡も多いことだろう。
*この続きは、コシの国への好奇心④へ
朝鮮半島東側沿海地域(現在の北朝鮮)から難破船が漂流してくると、能登半島部西海岸部に漂着することが多い。(日本海沿岸部・近場では出雲地方。多くは能登半島に。遠くでは北海道に。)
これは現代の北朝鮮から脱出を試みた船が難破船となり、漂流したコースにおいてもいえることである。海流の流れは、弥生時代も現在も変わらない。
朝鮮半島東側海岸部を離れた船は、まずロシアから流れてくるリマン海流にながされ、南下する。(日本の)対馬の東部方面海域に達すると、方向を変える。対馬海流に流されと東ヘ(出雲沖→丹後半島→能登半島へ)流されていくことになる。一部は、隠岐の島や佐渡島にたどり着く漂流船もあったにちがいない。
たぶん、朝鮮半島から船出した人々(戦乱で、日本へ行かざるを得なくなった人々=ボートピープル)の多くは福井県・三国港や石川県・高麗津(小松)に到達した人々が多かったに違いない。出雲コース・丹後コース・三国コース・高麗津コースなど、渡来人船乗りが航路をつくりあげていたと考えられる。
造船技術・操船技術・米作り・仏教・鉄加工など、高度な文化を日本にもたらしたのはすべて渡来人たちである。馬を日本にもたらしたのも、渡来人だ。朝鮮半島から船で運んできた。
馬に関しては高麗人が得意とする分野である。小松市にある博物館には「人が足を広げて馬に乗っている埴輪」が展示されているようだ。(私はまだ実物を見学していないのだが)とにかく高麗(高句麗)は、騎馬民族であり、馬に関係が深いようだ。
弥生時代ごろ、三国港には(世界中から、つまり中国・朝鮮などから渡来人がやってきたのだろう。また、小松には高麗から多くの渡来人がやってきたのであろう。と、私は勝手に想像して地図を眺めている。九頭竜川河口部の三国。白山から流れてきた川の河口部が(高麗津)小松市に該当する。現在の安宅関辺りの川は小さいが、弥生時代はかなり大きかったに違いない。現在の状況とは違うはずだから。
弥生時代を考えるためには、2000年前の海岸線をしらべて、弥生時代の地形・海岸線を推定する必要がある。ちなみに、弥生時代の超巨大水田地帯(人口が多かったに違いない)は、福井県九頭竜川流域地帯なのである。まさに、福井県・三国周辺は日本一の穀倉地帯だったようだ。ある資料には、沖積平野として水田に適した土地であると書かれていた。
三国・小松周辺に渡来人が押し寄せたのは、日本一の穀倉地帯ゆえだったからであろう。もっとも、新潟県が日本一の穀倉地帯になるのは弥生時代よりもずっと後のことある。
弥生時代前期、奈良県中心部は、奈良湖があり、大阪平野には河内湖があった。弥生時代の遺跡があるのは、海岸部に多く、大阪平野の弥生時代の遺跡もやはり海岸部(川の河口部など)が多い。(少し話が脱線してきましたが・・・)
とにかく石川県には真脇遺跡(縄文時代の遺跡)があり、福井県には恐竜博物館(すごいですね、この博物館は!)があるぐらい「古代との関係は密」な地域である。当然、弥生時代の遺跡も多いことだろう。
*この続きは、コシの国への好奇心④へ
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タグ: 高麗津→小松
2020/5/30
「コシの国への好奇心②→福井県・三国」 古代への好奇心
コシの国(福井県・石川県・富山県・新潟県一帯の弥生時代の国名=高志の国)が、高度に栄えていたことは遺跡などから推定できる。その地域の中心地(都)は、越前と呼ばれている地域にあったであろう。そういう説がある。つまり、「邪馬台国の中心地は越前にあった」という説である。
邪馬台国の中心地(都)は、時代とともに移動したという説があるのだが、その説に興味津々の私。
この説は中国の古代史の研究者(中国人)の方が唱えており、「なるほど、そう考えれば、納得がいくなあ!」と、私は最近同感するようになってきた。
私は「邪馬台国は丹後にあった」という説を支持してきたのだが、越前から丹後に移動したのかもしれない。または、丹後から越前に移動したのかもしれない…と考えるようになってきた。
越前に「三国」という地がある。この地名に興味がある。「三つの国がどう関係しているのかなあ?」と予想してみるのだが、どうもわからない。
堺市に「三国ヶ丘」という地名・駅名があり、三つの国が名前の語源に関係している。摂津・和泉・河内という三つの国が接する地点が台地(丘)になっており、「三国ヶ丘」という地名・駅名になっている。
しかし、福井県の「三国」という地名は、古代から使われている。三つの国は具体的には浮かんでこない。「三国」の意味は単に「三つの国」という意味ではなさそうだ。
さて、そこで「三国」の意味を追求してみると・・・・
まず、国語辞典=小学館発行『大辞泉』を引いてみた。
さんごく【三国】 とは、(以下の説明があった。)
🈩三つの国。
🈔①古く、日本・中国・インド、または日本・中国・朝鮮のこと。全世界の意にも用いる。
②富士山が裾野をひく三つの国、駿河・甲斐・相模のこと。
③古代中国で、後漢の滅亡後に天下を三分した魏・蜀・呉のこと。
④4~7世紀の朝鮮で、新羅・百済・高句麗のこと。
これらの説明で、福井県三国の地名が関係するのは、
🈔①古く、日本・中国・インド、または日本・中国・朝鮮のこと。
④4~7世紀の朝鮮で、新羅・百済・高句麗のこと。
の項目だろうと推測できた。そして、弥生時代に的を絞って考えれば、(インドは関係が薄そうなので)三国の地名に関係するのは、「日本・中国・朝鮮」=全世界ということになりそうだ。
弥生時代に栄えていたのは日本海側の地方で、太平洋側や瀬戸内海一帯は、栄えていなかった。遺跡を調べれば納得できることである。日本海側には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が多い。特に玄界灘に面した九州地方・山陰地方と呼ばれる日本海に面した地方・コシの国(北陸地方)など、弥生時代の遺跡が無茶苦茶多い。古墳時代より前の時代には、四隅突出型古墳が多く発見されているが、それらのほとんどは島根県・鳥取県・福井県で見つかっている。島根県と言えば「出雲地方の遺跡群」。鳥取県と言えば「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」や「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」などが弥生時代・古墳時代に日本海側が栄えていたことを物語っており、証拠にもなっている。これらの遺跡の発見は近年になってからであるから、発見されていない遺跡はまだまだありそうだ。
とにかく、弥生時代は日本海側沿海部地域が時代の変化に伴って、それぞれ王国として栄えていた。出雲王国・丹後王国・敦賀王国・邪馬台国(女王国の中心)など、日本海側の国々、→ コシ(高志・越)の国も栄えていたと考えられる。
私は邪馬台国が奈良県地方にあったとは、ぜんぜん思っていない。弥生時代の遺跡があまりにも少ないから。弥生時代の遺跡の宝庫である「日本海側沿岸部」に絞ってかんがえている。
下関方面かな? 出雲方面かな? 豊岡近辺かな? 丹後地方かな? 敦賀方面かな? 福井(越前)近辺かな?
あれこれ考えられる「邪馬台国の本拠地」は、日本海に面した場所ばかりである。全く素人が想像していることだから、あてにはならないだろうが・・・。結構楽しい考察である。
*この続きは「コシの国への好奇心③」へ
古代史研究家・八俣遠呂智氏の研究資料より転載した地図の一部。この方は、邪馬台国=越前説をたてておられる方です。私の考え(邪馬台国は丹後にあった。)とは少し違いますが、教えられることの多い学者です。
上記推定されている「狗奴国(くなこく)」が、弥生時代後の古墳時代の大和朝廷本拠地となっていくと考えられます。
邪馬台国の中心地(都)は、時代とともに移動したという説があるのだが、その説に興味津々の私。
この説は中国の古代史の研究者(中国人)の方が唱えており、「なるほど、そう考えれば、納得がいくなあ!」と、私は最近同感するようになってきた。
私は「邪馬台国は丹後にあった」という説を支持してきたのだが、越前から丹後に移動したのかもしれない。または、丹後から越前に移動したのかもしれない…と考えるようになってきた。
越前に「三国」という地がある。この地名に興味がある。「三つの国がどう関係しているのかなあ?」と予想してみるのだが、どうもわからない。
堺市に「三国ヶ丘」という地名・駅名があり、三つの国が名前の語源に関係している。摂津・和泉・河内という三つの国が接する地点が台地(丘)になっており、「三国ヶ丘」という地名・駅名になっている。
しかし、福井県の「三国」という地名は、古代から使われている。三つの国は具体的には浮かんでこない。「三国」の意味は単に「三つの国」という意味ではなさそうだ。
さて、そこで「三国」の意味を追求してみると・・・・
まず、国語辞典=小学館発行『大辞泉』を引いてみた。
さんごく【三国】 とは、(以下の説明があった。)
🈩三つの国。
🈔①古く、日本・中国・インド、または日本・中国・朝鮮のこと。全世界の意にも用いる。
②富士山が裾野をひく三つの国、駿河・甲斐・相模のこと。
③古代中国で、後漢の滅亡後に天下を三分した魏・蜀・呉のこと。
④4~7世紀の朝鮮で、新羅・百済・高句麗のこと。
これらの説明で、福井県三国の地名が関係するのは、
🈔①古く、日本・中国・インド、または日本・中国・朝鮮のこと。
④4~7世紀の朝鮮で、新羅・百済・高句麗のこと。
の項目だろうと推測できた。そして、弥生時代に的を絞って考えれば、(インドは関係が薄そうなので)三国の地名に関係するのは、「日本・中国・朝鮮」=全世界ということになりそうだ。
弥生時代に栄えていたのは日本海側の地方で、太平洋側や瀬戸内海一帯は、栄えていなかった。遺跡を調べれば納得できることである。日本海側には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が多い。特に玄界灘に面した九州地方・山陰地方と呼ばれる日本海に面した地方・コシの国(北陸地方)など、弥生時代の遺跡が無茶苦茶多い。古墳時代より前の時代には、四隅突出型古墳が多く発見されているが、それらのほとんどは島根県・鳥取県・福井県で見つかっている。島根県と言えば「出雲地方の遺跡群」。鳥取県と言えば「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」や「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」などが弥生時代・古墳時代に日本海側が栄えていたことを物語っており、証拠にもなっている。これらの遺跡の発見は近年になってからであるから、発見されていない遺跡はまだまだありそうだ。
とにかく、弥生時代は日本海側沿海部地域が時代の変化に伴って、それぞれ王国として栄えていた。出雲王国・丹後王国・敦賀王国・邪馬台国(女王国の中心)など、日本海側の国々、→ コシ(高志・越)の国も栄えていたと考えられる。
私は邪馬台国が奈良県地方にあったとは、ぜんぜん思っていない。弥生時代の遺跡があまりにも少ないから。弥生時代の遺跡の宝庫である「日本海側沿岸部」に絞ってかんがえている。
下関方面かな? 出雲方面かな? 豊岡近辺かな? 丹後地方かな? 敦賀方面かな? 福井(越前)近辺かな?
あれこれ考えられる「邪馬台国の本拠地」は、日本海に面した場所ばかりである。全く素人が想像していることだから、あてにはならないだろうが・・・。結構楽しい考察である。
*この続きは「コシの国への好奇心③」へ
古代史研究家・八俣遠呂智氏の研究資料より転載した地図の一部。この方は、邪馬台国=越前説をたてておられる方です。私の考え(邪馬台国は丹後にあった。)とは少し違いますが、教えられることの多い学者です。
上記推定されている「狗奴国(くなこく)」が、弥生時代後の古墳時代の大和朝廷本拠地となっていくと考えられます。
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