以下、2020年5月・6月記述のコピーです。
「コシの国への好奇心①→真脇遺跡(まわきいせき)」 古代への好奇心
私が育ったのは堺市だが、戸籍上の生まれは石川県である。出生地が石川県といえども、生まれたところの記憶や思い出は何もない。生まれてすぐに堺市で住むようになったからであろう。
子どもの頃の思い出はすべて堺市での生活である。高校は私の希望で香川県の学校(国立詫間電波高等学校・現香川高専詫間キャンパス)で3年間過ごした。高校卒業後はまた堺市に住み、現在に至っている。
石川県(古代・コシの国の一部)への関心は、ほとんどなかったが、古代への関心を持つようになってから、出生地への関心が出てくるようになった。
ちなみに、コシヒカリの語源は「コシ」の国と関係あり。弥生時代は高志(こし)と書かれ、奈良時代になると、越(こし)と字が変化している。そして、江戸時代ごろには、コシの国は越前・越中・越後・能登・加賀などと細分化されていった。コシヒカリは「コシの国」が語源となっている。さらに、コシという地は、「古志」「高志」「越」と字が変化してきたようだ。字の変化は、日本各地でもままあることで、時代やその他の理由で字に変化が起こるようだ。
私の出生地は石川県能登半島の鵜川村というところである。その村は富山湾に面した漁村である。昭和の時代には(国鉄・JRの)鵜川駅があったが、現在は廃線になっている。
石川県鵜川村は母が育ったところであり、縁あって(どういう縁であったかは詳しく知らないが・・・)堺市の父と結ばれている。
戦後、食糧難の時代が続いたようで、私を身ごもってから栄養不足にならないようにと、石川県の実家(漁業中心の家だったらしい)で過ごしたようだ。
母の実家のある鵜川村は小さな漁村だが、(少し離れてはいるが)近くに「真脇遺跡」なるものがある。縄文時代の遺跡である。
参考(以下、『真脇遺跡』の紹介=ネットによる資料のコピーです)
【 真脇遺跡は石川県能登町字真脇にある、北陸最大級の縄文時代遺跡です。富山湾に臨み、三方を丘陵に囲まれた小さな入り江の奥の沖積平野に位置しています。
以前より土師遺跡が存在し、平安時代末期の古文書にもその名が見られることから、古い歴史をもつ土地として知られていましたが、1980年に圃場整備の計画が持ち上がり、遺跡の分布調査が行われたところ、中・近世の地層の下から縄文時代の地層が発見され、縄文時代の遺跡であることがわかりました。 】
(へぇー、私は縄文時代の遺跡があったところの近くで、生まれているんだ!)と、好奇心をくすぐられた次第。
堺観光ボランティアガイドをするまでは、古代への関心はまったくなかったのに、仲間の影響が大きく、「好奇心の方向」が変化していっているようだ。
最近の関心は「邪馬台国は丹後または越前地方にあったかも?」という考え方に向き始めている。「邪馬台国は丹後にあった」という考えから、少し修正し始めたしだいです。
*このつづきは「コシの国への好奇心②」へ
子どもの頃の思い出はすべて堺市での生活である。高校は私の希望で香川県の学校(国立詫間電波高等学校・現香川高専詫間キャンパス)で3年間過ごした。高校卒業後はまた堺市に住み、現在に至っている。
石川県(古代・コシの国の一部)への関心は、ほとんどなかったが、古代への関心を持つようになってから、出生地への関心が出てくるようになった。
ちなみに、コシヒカリの語源は「コシ」の国と関係あり。弥生時代は高志(こし)と書かれ、奈良時代になると、越(こし)と字が変化している。そして、江戸時代ごろには、コシの国は越前・越中・越後・能登・加賀などと細分化されていった。コシヒカリは「コシの国」が語源となっている。さらに、コシという地は、「古志」「高志」「越」と字が変化してきたようだ。字の変化は、日本各地でもままあることで、時代やその他の理由で字に変化が起こるようだ。
私の出生地は石川県能登半島の鵜川村というところである。その村は富山湾に面した漁村である。昭和の時代には(国鉄・JRの)鵜川駅があったが、現在は廃線になっている。
石川県鵜川村は母が育ったところであり、縁あって(どういう縁であったかは詳しく知らないが・・・)堺市の父と結ばれている。
戦後、食糧難の時代が続いたようで、私を身ごもってから栄養不足にならないようにと、石川県の実家(漁業中心の家だったらしい)で過ごしたようだ。
母の実家のある鵜川村は小さな漁村だが、(少し離れてはいるが)近くに「真脇遺跡」なるものがある。縄文時代の遺跡である。
参考(以下、『真脇遺跡』の紹介=ネットによる資料のコピーです)
【 真脇遺跡は石川県能登町字真脇にある、北陸最大級の縄文時代遺跡です。富山湾に臨み、三方を丘陵に囲まれた小さな入り江の奥の沖積平野に位置しています。
以前より土師遺跡が存在し、平安時代末期の古文書にもその名が見られることから、古い歴史をもつ土地として知られていましたが、1980年に圃場整備の計画が持ち上がり、遺跡の分布調査が行われたところ、中・近世の地層の下から縄文時代の地層が発見され、縄文時代の遺跡であることがわかりました。 】
(へぇー、私は縄文時代の遺跡があったところの近くで、生まれているんだ!)と、好奇心をくすぐられた次第。
堺観光ボランティアガイドをするまでは、古代への関心はまったくなかったのに、仲間の影響が大きく、「好奇心の方向」が変化していっているようだ。
最近の関心は「邪馬台国は丹後または越前地方にあったかも?」という考え方に向き始めている。「邪馬台国は丹後にあった」という考えから、少し修正し始めたしだいです。
*このつづきは「コシの国への好奇心②」へ
「コシの国への好奇心②→福井県・三国」 【2020年5月記述】 古代への好奇心
コシの国(福井県・石川県・富山県・新潟県一帯の弥生時代の国名=高志の国)が、高度に栄えていたことは遺跡などから推定できる。その地域の中心地(都)は、越前と呼ばれている地域にあったであろう。そういう説がある。つまり、「邪馬台国の中心地は越前にあった」という説(注)である。
邪馬台国の中心地(都)は、時代とともに移動したという説があるのだが、その説に興味津々の私。
この説は中国の古代史の研究者(中国人)の方が唱えており、「なるほど、そう考えれば、納得がいくなあ!」と、私は最近同感するようになってきた。
私は「邪馬台国は丹後にあった」という説を支持してきたのだが、越前から丹後に移動したのかもしれない。または、丹後から越前に移動したのかもしれない…と考えるようになってきた。
越前に「三国」という地がある。この地名に興味がある。「三つの国がどう関係しているのかなあ?」と予想してみるのだが、どうもわからない。
堺市に「三国ヶ丘」という地名・駅名があり、三つの国が名前の語源に関係している。摂津・和泉・河内という三つの国が接する地点が台地(丘)になっており、「三国ヶ丘」という地名・駅名になっている。
しかし、福井県の「三国」という地名は、古代から使われている。三つの国は具体的には浮かんでこない。「三国」の意味は単に「三つの国」という意味ではなさそうだ。
さて、そこで「三国」の意味を追求してみると・・・・
まず、国語辞典=小学館発行『大辞泉』を引いてみた。
さんごく【三国】 とは、(以下の説明があった。)
🈩三つの国。
🈔①古く、日本・中国・インド、または日本・中国・朝鮮のこと。全世界の意にも用いる。
②富士山が裾野をひく三つの国、駿河・甲斐・相模のこと。
③古代中国で、後漢の滅亡後に天下を三分した魏・蜀・呉のこと。
④4~7世紀の朝鮮で、新羅・百済・高句麗のこと。
これらの説明で、福井県三国の地名が関係するのは、
🈔①古く、日本・中国・インド、または日本・中国・朝鮮のこと。
④4~7世紀の朝鮮で、新羅・百済・高句麗のこと。
の項目だろうと推測できた。そして、弥生時代に的を絞って考えれば、(インドは関係が薄そうなので)三国の地名に関係するのは、「日本・中国・朝鮮」=全世界ということになりそうだ。
弥生時代に栄えていたのは日本海側の地方で、太平洋側や瀬戸内海一帯は、栄えていなかった。遺跡を調べれば納得できることである。日本海側には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が多い。特に玄界灘に面した九州地方・山陰地方と呼ばれる日本海に面した地方・コシの国(北陸地方)など、弥生時代の遺跡が無茶苦茶多い。古墳時代より前の時代には、四隅突出型古墳が多く発見されているが、それらのほとんどは島根県・鳥取県・福井県で見つかっている。島根県と言えば「出雲地方の遺跡群」。鳥取県と言えば「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」や「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」などが弥生時代・古墳時代に日本海側が栄えていたことを物語っており、証拠にもなっている。これらの遺跡の発見は近年になってからであるから、発見されていない遺跡はまだまだありそうだ。
とにかく、弥生時代は日本海側沿海部地域が時代の変化に伴って、それぞれ王国として栄えていた。出雲王国・丹後王国・敦賀王国・邪馬台国(女王国の中心)など、日本海側の国々、→ コシ(高志・越)の国も栄えていたと考えられる。
私は邪馬台国が奈良県地方にあったとは、ぜんぜん思っていない。弥生時代の遺跡があまりにも少ないから。弥生時代の遺跡の宝庫である「日本海側沿岸部」に絞ってかんがえている。
下関方面かな? 出雲方面かな? 豊岡近辺かな? 丹後地方かな? 敦賀方面かな? 福井(越前)近辺かな?
あれこれ考えられる「邪馬台国の本拠地」は、日本海に面した場所ばかりである。全く素人が想像していることだから、あてにはならないだろうが・・・。結構楽しい考察である。
*この続きは「コシの国への好奇心③」へ
(注) 古代史研究家・八俣遠呂智氏の研究。この方は、邪馬台国=越前説をたてておられる。私の考え(邪馬台国は丹後にあった。)とは少し違いますが、教えられることの多い学者です。
邪馬台国の中心地(都)は、時代とともに移動したという説があるのだが、その説に興味津々の私。
この説は中国の古代史の研究者(中国人)の方が唱えており、「なるほど、そう考えれば、納得がいくなあ!」と、私は最近同感するようになってきた。
私は「邪馬台国は丹後にあった」という説を支持してきたのだが、越前から丹後に移動したのかもしれない。または、丹後から越前に移動したのかもしれない…と考えるようになってきた。
越前に「三国」という地がある。この地名に興味がある。「三つの国がどう関係しているのかなあ?」と予想してみるのだが、どうもわからない。
堺市に「三国ヶ丘」という地名・駅名があり、三つの国が名前の語源に関係している。摂津・和泉・河内という三つの国が接する地点が台地(丘)になっており、「三国ヶ丘」という地名・駅名になっている。
しかし、福井県の「三国」という地名は、古代から使われている。三つの国は具体的には浮かんでこない。「三国」の意味は単に「三つの国」という意味ではなさそうだ。
さて、そこで「三国」の意味を追求してみると・・・・
まず、国語辞典=小学館発行『大辞泉』を引いてみた。
さんごく【三国】 とは、(以下の説明があった。)
🈩三つの国。
🈔①古く、日本・中国・インド、または日本・中国・朝鮮のこと。全世界の意にも用いる。
②富士山が裾野をひく三つの国、駿河・甲斐・相模のこと。
③古代中国で、後漢の滅亡後に天下を三分した魏・蜀・呉のこと。
④4~7世紀の朝鮮で、新羅・百済・高句麗のこと。
これらの説明で、福井県三国の地名が関係するのは、
🈔①古く、日本・中国・インド、または日本・中国・朝鮮のこと。
④4~7世紀の朝鮮で、新羅・百済・高句麗のこと。
の項目だろうと推測できた。そして、弥生時代に的を絞って考えれば、(インドは関係が薄そうなので)三国の地名に関係するのは、「日本・中国・朝鮮」=全世界ということになりそうだ。
弥生時代に栄えていたのは日本海側の地方で、太平洋側や瀬戸内海一帯は、栄えていなかった。遺跡を調べれば納得できることである。日本海側には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が多い。特に玄界灘に面した九州地方・山陰地方と呼ばれる日本海に面した地方・コシの国(北陸地方)など、弥生時代の遺跡が無茶苦茶多い。古墳時代より前の時代には、四隅突出型古墳が多く発見されているが、それらのほとんどは島根県・鳥取県・福井県で見つかっている。島根県と言えば「出雲地方の遺跡群」。鳥取県と言えば「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」や「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」などが弥生時代・古墳時代に日本海側が栄えていたことを物語っており、証拠にもなっている。これらの遺跡の発見は近年になってからであるから、発見されていない遺跡はまだまだありそうだ。
とにかく、弥生時代は日本海側沿海部地域が時代の変化に伴って、それぞれ王国として栄えていた。出雲王国・丹後王国・敦賀王国・邪馬台国(女王国の中心)など、日本海側の国々、→ コシ(高志・越)の国も栄えていたと考えられる。
私は邪馬台国が奈良県地方にあったとは、ぜんぜん思っていない。弥生時代の遺跡があまりにも少ないから。弥生時代の遺跡の宝庫である「日本海側沿岸部」に絞ってかんがえている。
下関方面かな? 出雲方面かな? 豊岡近辺かな? 丹後地方かな? 敦賀方面かな? 福井(越前)近辺かな?
あれこれ考えられる「邪馬台国の本拠地」は、日本海に面した場所ばかりである。全く素人が想像していることだから、あてにはならないだろうが・・・。結構楽しい考察である。
*この続きは「コシの国への好奇心③」へ
(注) 古代史研究家・八俣遠呂智氏の研究。この方は、邪馬台国=越前説をたてておられる。私の考え(邪馬台国は丹後にあった。)とは少し違いますが、教えられることの多い学者です。
福井県・三国から少し北に行くと、石川県小松市に達する。この小松という地名は、弥生時代の語源は「高麗津(こまつ)」であったようだ。高麗=高句麗からやってきた人が住み着いた港があったに違いない。現在の観光地「安宅関」周辺が、津=港のあったところだろうと、推測できる。
朝鮮半島東側沿海地域(現在の北朝鮮)から難破船が漂流してくると、能登半島部西海岸部に漂着することが多い。(日本海沿岸部・近場では出雲地方。多くは能登半島に。遠くでは北海道に。)
これは現代の北朝鮮から脱出を試みた船が難破船となり、漂流したコースにおいてもいえることである。海流の流れは、弥生時代も現在も変わらない。
朝鮮半島東側海岸部を離れた船は、まずロシアから流れてくるリマン海流にながされ、南下する。(日本の)対馬の東部方面海域に達すると、方向を変える。対馬海流に流されと東ヘ(出雲沖→丹後半島→能登半島へ)流されていくことになる。一部は、隠岐の島や佐渡島にたどり着く漂流船もあったにちがいない。
たぶん、朝鮮半島から船出した人々(戦乱で、日本へ行かざるを得なくなった人々=ボートピープル)の多くは福井県・三国港や石川県・高麗津(小松)に到達した人々が多かったに違いない。出雲コース・丹後コース・三国コース・高麗津コースなど、渡来人船乗りが航路をつくりあげていたと考えられる。
造船技術・操船技術・米作り・仏教・鉄加工など、高度な文化を日本にもたらしたのはすべて渡来人たちである。馬を日本にもたらしたのも、渡来人だ。朝鮮半島から船で運んできた。
馬に関しては高麗人が得意とする分野である。小松市にある博物館には「人が足を広げて馬に乗っている埴輪」が展示されているようだ。(私はまだ実物を見学していないのだが)とにかく高麗(高句麗)は、騎馬民族であり、馬に関係が深いようだ。
弥生時代ごろ、三国港には(世界中から、つまり中国・朝鮮などから渡来人がやってきたのだろう。また、小松には高麗から多くの渡来人がやってきたのであろう。と、私は勝手に想像して地図を眺めている。九頭竜川河口部の三国。白山から流れてきた川の河口部が(高麗津)小松市に該当する。現在の安宅関辺りの川は小さいが、弥生時代はかなり大きかったに違いない。現在の状況とは違うはずだから。
弥生時代を考えるためには、2000年前の海岸線をしらべて、弥生時代の地形・海岸線を推定する必要がある。ちなみに、弥生時代の超巨大水田地帯(人口が多かったに違いない)は、福井県九頭竜川流域地帯なのである。まさに、福井県・三国周辺は日本一の穀倉地帯だったようだ。ある資料には、沖積平野として水田に適した土地であると書かれていた。
三国・小松周辺に渡来人が押し寄せたのは、日本一の穀倉地帯ゆえだったからであろう。もっとも、新潟県が日本一の穀倉地帯になるのは弥生時代よりもずっと後のことある。
弥生時代前期、奈良県中心部は、奈良湖があり、大阪平野には河内湖があった。弥生時代の遺跡があるのは、海岸部に多く、大阪平野の弥生時代の遺跡もやはり海岸部(川の河口部など)が多い。(少し話が脱線してきましたが・・・)
とにかく石川県には真脇遺跡(縄文時代の遺跡)があり、福井県には恐竜博物館(すごいですね、この博物館は!)があるぐらい「古代との関係は密」な地域である。当然、弥生時代の遺跡も多いことだろう。
朝鮮半島東側沿海地域(現在の北朝鮮)から難破船が漂流してくると、能登半島部西海岸部に漂着することが多い。(日本海沿岸部・近場では出雲地方。多くは能登半島に。遠くでは北海道に。)
これは現代の北朝鮮から脱出を試みた船が難破船となり、漂流したコースにおいてもいえることである。海流の流れは、弥生時代も現在も変わらない。
朝鮮半島東側海岸部を離れた船は、まずロシアから流れてくるリマン海流にながされ、南下する。(日本の)対馬の東部方面海域に達すると、方向を変える。対馬海流に流されと東ヘ(出雲沖→丹後半島→能登半島へ)流されていくことになる。一部は、隠岐の島や佐渡島にたどり着く漂流船もあったにちがいない。
たぶん、朝鮮半島から船出した人々(戦乱で、日本へ行かざるを得なくなった人々=ボートピープル)の多くは福井県・三国港や石川県・高麗津(小松)に到達した人々が多かったに違いない。出雲コース・丹後コース・三国コース・高麗津コースなど、渡来人船乗りが航路をつくりあげていたと考えられる。
造船技術・操船技術・米作り・仏教・鉄加工など、高度な文化を日本にもたらしたのはすべて渡来人たちである。馬を日本にもたらしたのも、渡来人だ。朝鮮半島から船で運んできた。
馬に関しては高麗人が得意とする分野である。小松市にある博物館には「人が足を広げて馬に乗っている埴輪」が展示されているようだ。(私はまだ実物を見学していないのだが)とにかく高麗(高句麗)は、騎馬民族であり、馬に関係が深いようだ。
弥生時代ごろ、三国港には(世界中から、つまり中国・朝鮮などから渡来人がやってきたのだろう。また、小松には高麗から多くの渡来人がやってきたのであろう。と、私は勝手に想像して地図を眺めている。九頭竜川河口部の三国。白山から流れてきた川の河口部が(高麗津)小松市に該当する。現在の安宅関辺りの川は小さいが、弥生時代はかなり大きかったに違いない。現在の状況とは違うはずだから。
弥生時代を考えるためには、2000年前の海岸線をしらべて、弥生時代の地形・海岸線を推定する必要がある。ちなみに、弥生時代の超巨大水田地帯(人口が多かったに違いない)は、福井県九頭竜川流域地帯なのである。まさに、福井県・三国周辺は日本一の穀倉地帯だったようだ。ある資料には、沖積平野として水田に適した土地であると書かれていた。
三国・小松周辺に渡来人が押し寄せたのは、日本一の穀倉地帯ゆえだったからであろう。もっとも、新潟県が日本一の穀倉地帯になるのは弥生時代よりもずっと後のことある。
弥生時代前期、奈良県中心部は、奈良湖があり、大阪平野には河内湖があった。弥生時代の遺跡があるのは、海岸部に多く、大阪平野の弥生時代の遺跡もやはり海岸部(川の河口部など)が多い。(少し話が脱線してきましたが・・・)
とにかく石川県には真脇遺跡(縄文時代の遺跡)があり、福井県には恐竜博物館(すごいですね、この博物館は!)があるぐらい「古代との関係は密」な地域である。当然、弥生時代の遺跡も多いことだろう。
能登半島の付け根部分(西側)に邑知潟(おうちがた)地溝帯という低地が続いている。現在の羽咋市にある潟ならびに低地帯である。細長い溝のような低地で、北東方向に位置する七尾市(富山湾に面している)につながっている。断層のような地だが、地質学者によると、断層ではないとのことである。
現在、JR七尾線が標高の低い地溝帯に沿って走っている。
この邑知潟周辺こそ、縄文時代・弥生時代・古墳時代には重要な地であった。縄文土器や弥生時代の集落跡などがある。発掘もされている。
弥生時代には、この地で「卜骨(ぼくこつ)」(=動物の骨を焼いて吉凶を占う祭祀)が行われていた。いわゆる卑弥呼など祈祷師が、主に航海安全のタイミングを占うために、(弥生時代から古墳時代などに)卜骨を行っていた。卜骨後の骨が遺跡から見つかっている。日本海側の主な沿海部で見つかっている。その卜骨実施個所の北限が、「邑知潟」である。つまり、邑知潟周辺こそ、「女王」の支配が及ぶ「邪馬台国の一部」だったと考えられる。この考え方をする学者もいる。
弥生時代、海洋民族であった倭国にとって、国際交易品としての重要産物は、(新潟県糸魚川市)姫川上流に産する翡翠(ヒスイ)だった。
翡翠は、中国や朝鮮では産出しないものだったので、わずかな量とはいえ、超高価な価値を持つ宝石だったのである。中国や朝鮮では、王族クラスの人たちが「超魔力を秘めている翡翠(緑色の光のパワーを放つ)」を競って手に入れようとした。
一方、倭人は交易品として(当時の日本にはなかった)鉄材を手に入れようとした。鉄材を加工して、武器や農具にした。
ちなみに、数世紀後にこの輸入鉄材を制したのが、「大和朝廷」」。
倭国にとって「鉄こそ超貴重品」だったのだ。大きくは「鉄材」と「翡翠」との交換が交易品の中心になった。
この翡翠(ヒスイ)の原石を運ぶルート・方法として、日本海・船が使われた。富山湾から能登半島を遠回りするよりも、能登半島の邑知潟地溝帯を(一部区間は陸上を船を引っ張って移動したと考えられる)船で移動するほうが早い。潟と川を移動すれば便利だ。弥生時代、邑知潟地溝帯の距離は約20km余りだった。
この邑知潟こそは「翡翠の移動ルート」として最重要拠点だった。だから、人が集まり、文化も高度になっていったにちがいない。
姫川 → 邑知潟 → 三国 → 敦賀 → 丹後方面 → 出雲 → 対馬 → 朝鮮・中国へ 移動していったと考えられる。逆ルートは「鉄材」が倭国に運ばれてくることになる。
まさに、日本海ルートは「鉄の道」であり、「翡翠の道」でもあったのだ。
現在、JR七尾線が標高の低い地溝帯に沿って走っている。
この邑知潟周辺こそ、縄文時代・弥生時代・古墳時代には重要な地であった。縄文土器や弥生時代の集落跡などがある。発掘もされている。
弥生時代には、この地で「卜骨(ぼくこつ)」(=動物の骨を焼いて吉凶を占う祭祀)が行われていた。いわゆる卑弥呼など祈祷師が、主に航海安全のタイミングを占うために、(弥生時代から古墳時代などに)卜骨を行っていた。卜骨後の骨が遺跡から見つかっている。日本海側の主な沿海部で見つかっている。その卜骨実施個所の北限が、「邑知潟」である。つまり、邑知潟周辺こそ、「女王」の支配が及ぶ「邪馬台国の一部」だったと考えられる。この考え方をする学者もいる。
弥生時代、海洋民族であった倭国にとって、国際交易品としての重要産物は、(新潟県糸魚川市)姫川上流に産する翡翠(ヒスイ)だった。
翡翠は、中国や朝鮮では産出しないものだったので、わずかな量とはいえ、超高価な価値を持つ宝石だったのである。中国や朝鮮では、王族クラスの人たちが「超魔力を秘めている翡翠(緑色の光のパワーを放つ)」を競って手に入れようとした。
一方、倭人は交易品として(当時の日本にはなかった)鉄材を手に入れようとした。鉄材を加工して、武器や農具にした。
ちなみに、数世紀後にこの輸入鉄材を制したのが、「大和朝廷」」。
倭国にとって「鉄こそ超貴重品」だったのだ。大きくは「鉄材」と「翡翠」との交換が交易品の中心になった。
この翡翠(ヒスイ)の原石を運ぶルート・方法として、日本海・船が使われた。富山湾から能登半島を遠回りするよりも、能登半島の邑知潟地溝帯を(一部区間は陸上を船を引っ張って移動したと考えられる)船で移動するほうが早い。潟と川を移動すれば便利だ。弥生時代、邑知潟地溝帯の距離は約20km余りだった。
この邑知潟こそは「翡翠の移動ルート」として最重要拠点だった。だから、人が集まり、文化も高度になっていったにちがいない。
姫川 → 邑知潟 → 三国 → 敦賀 → 丹後方面 → 出雲 → 対馬 → 朝鮮・中国へ 移動していったと考えられる。逆ルートは「鉄材」が倭国に運ばれてくることになる。
まさに、日本海ルートは「鉄の道」であり、「翡翠の道」でもあったのだ。
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「コシの国への好奇心」①➁③④のブログ再掲は以上です。すでに読んだことがある方には、新鮮味のない内容でした。再掲を読んでいただき、ありがとうございました。記述した本人でありながら、(一部ですが)忘れていたことがありました。自分自身のためにも、再掲は意味があったように思っています。 2025年1月21日・鬼井江