丹波市地域については、以前から関心がありました。現在の丹後・丹波・但馬などを含めた広い地域をタニハと呼んだ時代があったようです。縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけての古い時代のことですが・・・。特に弥生時代から「卑弥呼の時代」にかけての日本海側地域に関心がありました。
ある資料によると、「丹後王国」について、以下の説明がありました。
【 古代縄文から弥生時代に京都丹後半島に王国がありました。その名もタニハ(丹後、丹波、但馬、京都から兵庫にかけての)王国がありました。丹波は現在タンバと読みますが、古代は丹後をタニハと呼んでいたようです。】
また、別の資料によると、タニハ王国の中心地は、天橋立のある「宮津」と推定されていました。
関心を持つようになったきっかけは「堺観光ボランティアガイド」をしていたころに知り合った友人Tさんたちと一緒に丹後地方の古墳・遺跡めぐりをしたことでした。丹後地方には古墳や遺跡がたくさんありました。網野銚子山古墳、ニゴレ古墳、遠處遺跡などは見て回れましたが、50か所ほどありましたので、ほんの一部分を見て回っただけでした。丹後(タニハ)王国には古墳や遺跡が無茶苦茶多くあるようでした。また、『丹後王国物語』(丹後は日本のふるさと)という本や『古代史の謎は「海路」で解ける』(長野正孝著)の本を読んで、好奇心がわいてきた次第です。
長野正孝氏の本の内容で、一番興味深かった指摘は、古代の舟は「川を利用して上り、陸地を舟を引っ張り、峠などを越えて、また別の川を利用して下っていた」ということでした。日本海側の川を遡り、遡れなくなった陸地(峠越え地点)では、舟を牛や馬、人間に引っ張らせ、移動させ、瀬戸内海に下っていく川にその舟を浮かべて下って行った。舟利用で日本海と瀬戸内海とをつなぐ交易ルートがあった、という指摘に驚かされた。そのことが単なる想像の世界ではなく、『播磨風土記』の記述に着目されている。その風土記の記述には、「新羅の王子が播磨に来て、淡路島を占拠、王子は次々拠点を広げ、豊岡の出石にも拠点を置き、円山川河口から姫路の方に交易ルートを確保した」といった内容が書かれている、とのことである。私は『播磨風土記』を実際に読んでいないが、その歴史を信じている一人です。
弥生時代から古墳時代にかけて、日本では鉄を作れなかった。(製鉄所は存在しなかった)しかし、鉄を制する者は日本を制する時代だった。歴史から考えると、鉄を制したのは大和朝廷だった。
この時代(卑弥呼の時代)、鉄はどういう方法で手に入れたのであろうか? 鉄の塊を板にしたもの(=鉄鋌:てってい)を朝鮮半島から輸入して手に入れたのだった。その鉄鋌に熱を加えて加工(=鍛冶)した。武器や農具を作り、戦争に使い、農業に利用した。鉄鋌を多く輸入するためには、重い鉄の塊を人間が運べる量はごく一部に過ぎない。(現在でも、重いものを大量に運ぶためには船利用が一番である。)大昔においても、舟利用のルートの開拓が必要であったに違いない。
日本海側から瀬戸内海方向へ舟利用ルートはいろいろ試みられたことであろう。例えば、兵庫県縦断ルートを推定すると、円山川 → 中国山地の分水嶺近辺の陸路(船曳道)を引っ張り移動させ → 揖保川を下り瀬戸内海へ。または、由良川 → 中国山地の分水嶺近辺の陸路(船曳道)を引っ張り移動させ → 加古川を下り瀬戸内海へ。
とにかくどこの分水嶺を越えるかによって、主要なルートが選ばれたことでしょう。分水嶺の標高が高ければ高いほど、舟を引っ張ることは困難であろう。
分水嶺(降った雨水が日本海側と太平洋側:瀬戸内海側に分かれる地点)の標高は低い方が峠越えしやすいことになる。ちなみに、日本で一番標高が高い分水嶺は乗鞍岳で、3000m以上の分水嶺です。乗鞍岳付近に降った雨は分水嶺で日本海側と太平洋側へと別れて流れていくとのこと。
そこで、「日本一低い分水嶺は?」と関心を持っていた次第なのです。
すでに、前回のブログで紹介しましたように、兵庫県丹波市の「水別れ(みわかれ)公園」一帯の分水嶺が「日本一低い分水嶺」だったので、実際に訪問したかったのです。「何もないところ」ですよ、と紹介されたのですが・・・、私にとっては、感激でしたね。
卑弥呼の時代、この分水嶺付近を舟を曳いて移動していたかもしれない・・・と、想像しながら公園をうろうろして見学してきたのです。想像は楽しいです。
実際は、この水別れ公園(分水嶺)近辺とは違う分水嶺を利用したかもしれません。しかし、いろいろなルートを試みたに違いないので、「この分水嶺コースも試みられただろう」と想像した次第です。
(今日はここまでに。後日、追加内容を書くかも・・・。)
水別れ公園 この水が溜まっているところが分水嶺の一部
丹後王国物語(丹後は日本のふるさと)
長野正孝氏の本 2冊とも読みまくりました。
古代の舟の写真も参考にしてください。舟底が分厚くて、かなりこすっても壊れにくい舟のようです。この舟は発掘された「はにわ」です。古代の舟の埴輪は、こういうもの(先端がワニの口のように開いている形)が多く発掘されています。たぶん、実際の古代の舟を模したものでしょう。