鬼井江の世界(gooブログ)

「疋田」についてのブログ内容に関連しての補足資料(ネット情報のコピーを転載)

 以下、ネットでの情報のコピーです。(    )の補足は、鬼井江の意見です。
 
長野正孝氏の著書、『古代史の謎は「海路」で解ける』
この本にはかなりの衝撃を受けた。 
 
(この感想は、私、鬼井江も同感した次第です。以下、この本の内容を簡潔にまとめておられるので、コピーさせていただいた。 古代に関心のある方に、長野正孝氏の書物をおすすめいたします。『古代史の謎は「鉄」で解ける』も素晴らしい書物ですよ。私は、この2冊の影響で、すっかり「古代史」にはまってしまいました。 鬼井江)

この本を読むと、出雲、丹波、丹後、但馬の謎だけではなく、
なぜ奈良に人々が集まったか、という謎が一気に解ける。
そして、それは古代日本の権力構造の読み解き、
山背大兄皇子~古人大兄皇子~大海人皇子時代の謎解きにも繋がって来ると確信した。

長野氏の著書で、衝撃的な話は以下の2つ。
・昔の日本の船は平底構造で西洋船のような竜骨がなかったが、
 これは造船技術の未熟さによるものではなく、
 帆が補助で手漕ぎが主流であった日本においては、
 海荒れの日の陸揚げやある程度の勾配の山であれば船を曵いて越えていた。
・中国でも帆船が普及し始めるのは、後漢の武帝の頃で、
 日本で帆船が登場するのは300年代。
 そして、この帆船が現れるまで、瀬戸内海を手漕ぎで越えるのは至難であった。
 つまり、神話で瀬戸内航海が描かれるのは時代錯誤。
 瀬戸内海の航路を開拓したのは雄略天皇とされる人物。

前者のことによって、出雲や丹波(丹後、但馬)の繁栄が説明されている。
出雲大社があるあたりは、当時は本州とは海で隔てられていて、
その間の海を進む際の停泊地として栄えており、
丹波エリアは船曵きの中継地として王国が栄えたと述べられている。

そして、後者の話しとして帆船で海運を始めたのが、
応神天皇とされる人間で、これまで手漕ぎで越えられなかった丹後半島を越え、
敦賀から畿内への曳き船ルートを押さえたことで、
敦賀王国が栄えて丹波王国は衰退したという推理が展開されている。
また、応神天皇とされる人物は、主に新羅エリアからの避難民を一旦豊前、豊後に移送し、
その後日本各地に植民させて行ったと書かれているが、
これも大変理にかなっている。

応神天皇を祀る神社が敦賀の気比大社で、
日本海側では敦賀界隈に彼を祀る神社が集中している、ということを書いている。
これは、手漕ぎで越えることができなかった丹後半島を回ったところにある、
現在の京都府の伊根町の名物の舟屋は、その風習があるのがこの町と大分だけ、
ということともリンクしてくる。
なにより、日本海側で特異とされる四隅突出型墳墓の存在と、
一部前方後円墳が入り乱れる状況の説明できるところも魅力を感じる。

古代の大量輸送は船であり、その船が曳き船で陸を通行し、
というショッキングな話は江戸時代でも記録に残っているらしい。
そして、敦賀~琵琶湖~大阪湾というルートと敦賀~琵琶湖~大和というルートが存在し、
そのルートを押さえた流通の元締めが権力を握っていた、
ということは大変理解できる話である。

そして、この海運と陸運が交わるのが、
古代では大きな湖が国の中央にあった大和であり、
大和は南にいけば吉野川~紀ノ川から太平洋沿いに東海に出られたわけで、
海部氏と同族の尾張氏が、それぞれ日本海側と東海側にいることは、
この曳き船交易の大きなネットワークで考えると繋がってくる。

ただ、海部氏の本貫地が大分なので、彼らは応神系とも関係が深いはずで、
しかし、曳き船文化圏と思われる籠神社(元伊勢)と関係があるため、
もしかしたら、帆船技術の導入に海部氏が大きな役割を果たしたと思われる。

この大きな流通ネットワークに大和も入っていて、
大和のど真ん中に大きな湖が存在し、その湖を囲むように、
古代豪族の本拠地とされるエリアが広がっている、という事実を考えた場合、
つまり、古代豪族とされる人々は海運と陸運を担った人々であり、
この時代の天皇所在地があちこち行き来するのは、
こういう運送業者が横並びで、その時々でカリスマ性がある人々がトップだった、
ということを想像した場合、それを裏付けることができると考えられる。

都市国家が横並びで共和制というのは、同じ海運で成り立っていたギリシャが彷彿とされる。

また、曳き船がネットワークを形成していたからこそ、
纏向遺跡が東海エリアの土器がより集中的にある事実も明快になると思う。
つまり、纏向遺跡は東海の流通関係者が集まるエリアで、
大和の環湖交易の拠点の一つが纏向だったとも想定できそうだ。

曳き船手漕ぎ船ネットワークでいくと、纏向と九州はもっとも遠いことになり、
そのため纏向遺跡で九州系の土器が少ないことも納得性が高くなる。

そして、手漕ぎ文化の祭祀の中心杵築大社(出雲大社)であり、
元出雲とされる丹波一宮の出雲大神宮であり、帆船文化の拠点が宇佐神宮であるとすると、
二礼四拍手一礼の風習が出雲大社と宇佐神宮だけというのも、納得性が高まる。
そして、海洋族が何かしらの論理の元に一つに近かったが故に、
前方後円墳が全国規模で無理なく広まったのではないかと思われる。
 
 
*以上、長野正孝氏の書物の(ある方の)解説並びに推論のコピーでした。
 
 ちなみに、文中に登場する「海部氏」について。ひょっとしたら、全国に散らばっている住み着いた「海部一族」の一人は、わが先祖かもしれない(?)なんて・・・私は勝手に想像している。我が先祖は慶長年間(豊臣の時代)に、阿波の国(徳島県)の海部という地より、堺にやってきている。その当時、堺は(商人が実権を持っている)自由自治都市であったが、実は、武士の三好一族が背後にいて、堺を守っていた。三好一族は阿波が本拠地で、港のある「海部(海部城もあった港町)」も支配下にあった。三好一族系列の商人(海部屋の屋号で商売)として、堺に移住し、海部屋利左衛門として、商売を始めている。(と、先祖の過去帳に記載されている。) 初代、利左衛門の後、3代目の人は、商売を発展させ、船3艘を持ち、かなり手広く商売をしていた。(と、過去帳に記載されている。)
 海部氏は船と関係があったらしい。海部氏は全国に散らばり、住み着いたと考えられる。海部一族は「大分」からスタートしたらしいが、徳島や名古屋など、海でつながっている所に、船で移住していったと考えられる。
 
 わが先祖が「海部屋」という屋号で商売していることや徳島県の「海部」から堺へ移住している点など、過去帳の記述を手掛かりに・・・。(勝手な想像に過ぎないかもしれないが、)あちらこちらへと現地訪問及び想像しながらの、「古代」や「中世」を仮説的に考えることは、リアルで楽しいことです。
 的外れなことだったとしても、ウキウキできることなので・・・、「古代史」の現地訪問を楽しんでいるしだいです。
 
 今回の「疋田」訪問、とてもよかったです。長野正孝氏の本(2冊)を読み返す機会にもなりました。
 
 さて、明日(9月9日)はまた「歩き旅」に出ます。明日は、山陽道(岡山県の矢掛宿近辺)歩きで、1泊2日の予定です。
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