2020/10/17
「壱岐島・一支国(いきこく)博物館見学」 古代への好奇心
壱岐島(長崎県壱岐市)にある「一支国博物館」を見学することができた。福岡県や佐賀県に近い位置にある壱岐島は、対馬同様に長崎県に所属している。
長崎県は五島列島・壱岐島・対馬など、朝鮮半島に近い島々は長崎県の所属になっている。壱岐島も県庁所在地の長崎市からは遠い位置になる。地理的には、福岡県または佐賀県に所属してもおかしくはなさそうだが・・・。聞くところによると、農耕地の少ない島々は「価値の少ないところ」とみなされ、江戸時代から各藩は支配したがらなかったらしい。(さて、ほんとうかな?) 年貢が期待できない島は支配したがらないという状況は予想できる。
長崎県がこれらの島々を所属地にした経緯(歴史)は詳しくは調べていない。
さて、壱岐島の「壱岐」という字だが、いつの時代か確認していないが、新しい字体になったと考えられる。魏志倭人伝に出てくる国名の一つが「一大國」。この字は誤って書き写されたようで、もともとは「大」ではなく、「支」だったようなのである。「支」を間違って「支」が「大」と書かれてしまったようである。
魏志倭人伝の写本のどの時点で、「一支國」が「一大國」と間違って書き写されたかは、詳しくは知らない。
とにかく「一支」と書いて「いき」と発音されてきたようだ。「一支」を「いき」と読める人は少ないのではないだろうか? そこで、「いき」の字体を変えたのではないだろうか?
現在使われている「壱岐」の字体になったのは、明治以降のような気がするが…。
一=壱 支=岐 へと変化させたのだろう。さて、私の推測はどうかな?
確信をもって、調べていないが・・・。
現在の壱岐島の博物館名は、『壱岐市立 一支国(いきこく)博物館』となっている。
私はフリガナを付けたが、パンフレットにはフリガナは打たれていない。なかなか一目で正しく読むのが難しい博物館名である。あえて「一支国」という漢字を使っているのは、魏志倭人伝の表記を強調したかったからであろう。
前置きが長くなったが、弥生時代の交易を実感できる博物館であった。朝鮮半島や中国大陸との交流で重要な位置になる島であることは、対馬同様に推定できることである。さらに、福岡県沖に沖ノ島という島の存在も歴史上最重要である。なにしろ、その島からは歴史上の貴重な品々が発掘されている。
金の指輪他、国宝が約10万点も発掘されている島なのである。10万点も!
壱岐島も(沖ノ島ほどではないにしても)、弥生時代や古墳時代などの重要な歴史的価値の高いものが発掘されている。
朝鮮や中国との交易場の発掘や復元などにも力を入れているようだった。「原の辻(はるのつじ)遺跡」の建物復元もなされており、弥生時代の様子が映像紹介をうまく取り入れていて、想像しやすかった。
映像効果が抜群だった。映像紹介が終わると、幕が上がると、実際の風景が見える仕掛けには驚いた。なかなかうまい仕掛けだと感心した。
弥生時代の交易船(復元船・実物大)も展示されていた。板のカンナがけなども古代風になされていた。古い資料を参考に作ったようだ。これも見ごたえがあった。埴輪では古代船を見たことがあったが、実物大の復元船を見たのは初めてだった。
この日(10月14日)佐賀県・唐津からフェリーに乗り、壱岐島の印通寺(いんどおじ)港についた。港で、バスに乗る予定であったが、フェリーが遅れたため、バスが出てしまっていた。仕方がなく、(私の得意な?)電動自転車を借りることにした。坂道が多い島なので、電動自転車が役に立った。おかげで、博物館へ楽に行くことができた。帰りのフェリーにも遅れることなく乗ることができた。
唐津から小倉までが、遠かった。小倉で泊って、次の日の早朝の列車(鈍行)で、帰阪しなければならなかった。15日が旅行最終日に当たり、その日のうちに帰らなければならなかった。「秋の青春18切符」利用のため。JR3日間乗り放題で、7850円。格安切符利用の遺跡巡りの旅だった。無事何事もなく帰宅できました。
コロナに気をつけながら、マスクを常にしながらの、ホテルや施設入口、フェリー乗船時の検温など何度も測られた。検温の時は(発熱してたら? )と、ちょっと緊張した旅になりましたが、有意義な遺跡巡りになりました。
魏志倭人伝(写本)の文脈中、「一支國(一大國と書かれている部分)」が分かるように白字にして紹介されていた。 博物館内の展示物の一部。 漢字の文脈を読めば、一支國がどういう国かが紹介されていることがわかる。邪馬台国に至るまでのルートが記述されているようだ。対馬國その他の国々についても、白字部分前後(暗い部分)に書かれているようだ。
印通寺港 フェリーターミナル
原(はる)の辻 遺跡公園 建物が復元されていた。
「原の辻」が壱岐島の古代・弥生時代の中心地であった。古代においては、舟で川をさかのぼると、一支王国の中心地「原の辻」に至る。そこで渡来人との交易が盛んにおこなわれたようだ。
博物館の3階の庭から4階の展望塔を写す。立派な建物だった。4階からの眺めは壱岐島を360度見まわすことができ、「原の辻遺跡公園」も眼下遠方にばっちり見ることができた。
堺市博物館もこのような展望塔があって、仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)をばっちり見れたらなあと思った。「堺市博物館の位置」も工夫が必要だと思った。
長崎県は五島列島・壱岐島・対馬など、朝鮮半島に近い島々は長崎県の所属になっている。壱岐島も県庁所在地の長崎市からは遠い位置になる。地理的には、福岡県または佐賀県に所属してもおかしくはなさそうだが・・・。聞くところによると、農耕地の少ない島々は「価値の少ないところ」とみなされ、江戸時代から各藩は支配したがらなかったらしい。(さて、ほんとうかな?) 年貢が期待できない島は支配したがらないという状況は予想できる。
長崎県がこれらの島々を所属地にした経緯(歴史)は詳しくは調べていない。
さて、壱岐島の「壱岐」という字だが、いつの時代か確認していないが、新しい字体になったと考えられる。魏志倭人伝に出てくる国名の一つが「一大國」。この字は誤って書き写されたようで、もともとは「大」ではなく、「支」だったようなのである。「支」を間違って「支」が「大」と書かれてしまったようである。
魏志倭人伝の写本のどの時点で、「一支國」が「一大國」と間違って書き写されたかは、詳しくは知らない。
とにかく「一支」と書いて「いき」と発音されてきたようだ。「一支」を「いき」と読める人は少ないのではないだろうか? そこで、「いき」の字体を変えたのではないだろうか?
現在使われている「壱岐」の字体になったのは、明治以降のような気がするが…。
一=壱 支=岐 へと変化させたのだろう。さて、私の推測はどうかな?
確信をもって、調べていないが・・・。
現在の壱岐島の博物館名は、『壱岐市立 一支国(いきこく)博物館』となっている。
私はフリガナを付けたが、パンフレットにはフリガナは打たれていない。なかなか一目で正しく読むのが難しい博物館名である。あえて「一支国」という漢字を使っているのは、魏志倭人伝の表記を強調したかったからであろう。
前置きが長くなったが、弥生時代の交易を実感できる博物館であった。朝鮮半島や中国大陸との交流で重要な位置になる島であることは、対馬同様に推定できることである。さらに、福岡県沖に沖ノ島という島の存在も歴史上最重要である。なにしろ、その島からは歴史上の貴重な品々が発掘されている。
金の指輪他、国宝が約10万点も発掘されている島なのである。10万点も!
壱岐島も(沖ノ島ほどではないにしても)、弥生時代や古墳時代などの重要な歴史的価値の高いものが発掘されている。
朝鮮や中国との交易場の発掘や復元などにも力を入れているようだった。「原の辻(はるのつじ)遺跡」の建物復元もなされており、弥生時代の様子が映像紹介をうまく取り入れていて、想像しやすかった。
映像効果が抜群だった。映像紹介が終わると、幕が上がると、実際の風景が見える仕掛けには驚いた。なかなかうまい仕掛けだと感心した。
弥生時代の交易船(復元船・実物大)も展示されていた。板のカンナがけなども古代風になされていた。古い資料を参考に作ったようだ。これも見ごたえがあった。埴輪では古代船を見たことがあったが、実物大の復元船を見たのは初めてだった。
この日(10月14日)佐賀県・唐津からフェリーに乗り、壱岐島の印通寺(いんどおじ)港についた。港で、バスに乗る予定であったが、フェリーが遅れたため、バスが出てしまっていた。仕方がなく、(私の得意な?)電動自転車を借りることにした。坂道が多い島なので、電動自転車が役に立った。おかげで、博物館へ楽に行くことができた。帰りのフェリーにも遅れることなく乗ることができた。
唐津から小倉までが、遠かった。小倉で泊って、次の日の早朝の列車(鈍行)で、帰阪しなければならなかった。15日が旅行最終日に当たり、その日のうちに帰らなければならなかった。「秋の青春18切符」利用のため。JR3日間乗り放題で、7850円。格安切符利用の遺跡巡りの旅だった。無事何事もなく帰宅できました。
コロナに気をつけながら、マスクを常にしながらの、ホテルや施設入口、フェリー乗船時の検温など何度も測られた。検温の時は(発熱してたら? )と、ちょっと緊張した旅になりましたが、有意義な遺跡巡りになりました。
魏志倭人伝(写本)の文脈中、「一支國(一大國と書かれている部分)」が分かるように白字にして紹介されていた。 博物館内の展示物の一部。 漢字の文脈を読めば、一支國がどういう国かが紹介されていることがわかる。邪馬台国に至るまでのルートが記述されているようだ。対馬國その他の国々についても、白字部分前後(暗い部分)に書かれているようだ。
印通寺港 フェリーターミナル
原(はる)の辻 遺跡公園 建物が復元されていた。
「原の辻」が壱岐島の古代・弥生時代の中心地であった。古代においては、舟で川をさかのぼると、一支王国の中心地「原の辻」に至る。そこで渡来人との交易が盛んにおこなわれたようだ。
博物館の3階の庭から4階の展望塔を写す。立派な建物だった。4階からの眺めは壱岐島を360度見まわすことができ、「原の辻遺跡公園」も眼下遠方にばっちり見ることができた。
堺市博物館もこのような展望塔があって、仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)をばっちり見れたらなあと思った。「堺市博物館の位置」も工夫が必要だと思った。
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2020/10/13
「土井ヶ浜遺跡見学」 古代への好奇心
昨夜(10月12日)夜行バスで下関に移動した。早朝に到着。下関駅からJR山陰本線に乗り、長門二見駅へ。バスの本数が少ないけれど、なんとか1時間待てば、バスに乗ることがで出来た。長門二見駅から7キロほど北にある土井ヶ浜バス停に到着した。
遺跡までの行き方の案内板がややわかりにくく、遠回りしてしまった。15分ほど歩くことになった。バス停から近道を歩けば、約3分の位置にあったのだった。
弥生人の埋葬遺跡『土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム』という立派な施設。
長門二見駅で、ある老人に「土井ヶ浜遺跡の博物館」への行き方を質問したところ、「そんな施設はあったかなあ?」と言われた。弥生人の遺跡に関心のない人に質問してしまったようだ。みんなが知っているわけではなさそうだった。
私にとっては「すごいものが見つかった遺跡だ! これは、すごい!」と、うなる遺跡であったが…。
発掘された砂丘の地に 記念碑が立てられていた。この碑の近くに「土井ヶ浜ドーム」があり、内部に弥生人の人骨(レプリカ)が発掘当時の位置・形のままで並べられていた。
ドーム内の人骨群 雨風にさらされないように展示されている。砂の中に埋まっていた様子がよくわかる。300体の弥生人人骨が砂丘の中から発掘されたことがよく分かった。
埋葬されていた人体は、すべて頭部が東向きに埋葬されていた。頭部の目は西の方角(海を見ている形)を向いていた。土井ヶ浜の海の向こうは、まさに中国大陸である。彼らは、中国大陸からやってきた「渡来人」だという説が重要視されている。
そのことは、遺体の骨の向きが物語っているように、私も感じた。渡来人と日本人とが混血し、文化を伝え、新たな日本を作り上げていったように感じられた。彼らの先祖はおそらく中国大陸にいたのだろう。中国の内乱によって、中国本土に住んでいられなくなり、放浪・脱出してこの地にたどり着いたのかもしれないなあ・・・、と想像しながら、埋葬された遺骨群を見学したのだった。
(ちなみに実物の骨は別の場所に保管されているとのこと。ドーム内の展示物は、すべてレプリカ。とはいえ、リアルなレプリカだった。)
石に囲まれた6体の骨もあった。上にかぶせてあった石は横に並べ、内部を見やすくしてあった。この6体はおそらく家族だろう。この集落のリーダー的存在だったのかもしれない。直接砂に埋められていた人骨がほとんど。石棺に該当する囲いの中に埋葬されている骨は少ないから。首長的立場の人だったのかもしれないと、想像できた。
なぜ、骨は弥生人だと分かったのか? これに対する答えは、骨だけではなく一緒に発掘された土器などの年代測定によって分かったようだ。
さらに、なぜこの地に埋葬された骨は融けずに残っていたのか? それも300体!?
その答えは、この地の砂丘の砂の成分が大きく関係していたのだった。
一般に骨は土の中で融けていく。1000年以上経つと、跡形もなくなってしまうのが、一般的である。しかし、この砂丘の砂は「砂に含まれているカルシュウム分が遺体に働き、融かしていかなかった。」との説明がなされていた。
要するに、土井ヶ浜砂丘の砂は「特別な砂」だったのだ。
鳥取県の青谷上寺地遺跡からも弥生人の人骨が複数発掘されている。青谷上寺地遺跡の場合、「水没の持続」によって弥生人の人骨が「真空状態」に置かれていたことが「融けなかった理由」のようだった。
土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡を比較してみることは「おもしろい」と思った。
まだまだ素人レベルの遺跡見学者だが、弥生時代を意識することはワクワクします。
認知症防止のためにも、古墳・遺跡見学は続けたいですね。
遺跡までの行き方の案内板がややわかりにくく、遠回りしてしまった。15分ほど歩くことになった。バス停から近道を歩けば、約3分の位置にあったのだった。
弥生人の埋葬遺跡『土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム』という立派な施設。
長門二見駅で、ある老人に「土井ヶ浜遺跡の博物館」への行き方を質問したところ、「そんな施設はあったかなあ?」と言われた。弥生人の遺跡に関心のない人に質問してしまったようだ。みんなが知っているわけではなさそうだった。
私にとっては「すごいものが見つかった遺跡だ! これは、すごい!」と、うなる遺跡であったが…。
発掘された砂丘の地に 記念碑が立てられていた。この碑の近くに「土井ヶ浜ドーム」があり、内部に弥生人の人骨(レプリカ)が発掘当時の位置・形のままで並べられていた。
ドーム内の人骨群 雨風にさらされないように展示されている。砂の中に埋まっていた様子がよくわかる。300体の弥生人人骨が砂丘の中から発掘されたことがよく分かった。
埋葬されていた人体は、すべて頭部が東向きに埋葬されていた。頭部の目は西の方角(海を見ている形)を向いていた。土井ヶ浜の海の向こうは、まさに中国大陸である。彼らは、中国大陸からやってきた「渡来人」だという説が重要視されている。
そのことは、遺体の骨の向きが物語っているように、私も感じた。渡来人と日本人とが混血し、文化を伝え、新たな日本を作り上げていったように感じられた。彼らの先祖はおそらく中国大陸にいたのだろう。中国の内乱によって、中国本土に住んでいられなくなり、放浪・脱出してこの地にたどり着いたのかもしれないなあ・・・、と想像しながら、埋葬された遺骨群を見学したのだった。
(ちなみに実物の骨は別の場所に保管されているとのこと。ドーム内の展示物は、すべてレプリカ。とはいえ、リアルなレプリカだった。)
石に囲まれた6体の骨もあった。上にかぶせてあった石は横に並べ、内部を見やすくしてあった。この6体はおそらく家族だろう。この集落のリーダー的存在だったのかもしれない。直接砂に埋められていた人骨がほとんど。石棺に該当する囲いの中に埋葬されている骨は少ないから。首長的立場の人だったのかもしれないと、想像できた。
なぜ、骨は弥生人だと分かったのか? これに対する答えは、骨だけではなく一緒に発掘された土器などの年代測定によって分かったようだ。
さらに、なぜこの地に埋葬された骨は融けずに残っていたのか? それも300体!?
その答えは、この地の砂丘の砂の成分が大きく関係していたのだった。
一般に骨は土の中で融けていく。1000年以上経つと、跡形もなくなってしまうのが、一般的である。しかし、この砂丘の砂は「砂に含まれているカルシュウム分が遺体に働き、融かしていかなかった。」との説明がなされていた。
要するに、土井ヶ浜砂丘の砂は「特別な砂」だったのだ。
鳥取県の青谷上寺地遺跡からも弥生人の人骨が複数発掘されている。青谷上寺地遺跡の場合、「水没の持続」によって弥生人の人骨が「真空状態」に置かれていたことが「融けなかった理由」のようだった。
土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡を比較してみることは「おもしろい」と思った。
まだまだ素人レベルの遺跡見学者だが、弥生時代を意識することはワクワクします。
認知症防止のためにも、古墳・遺跡見学は続けたいですね。
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タグ: 古墳
2020/10/8
「奈良県最北部 佐紀古墳群巡り」 古代への好奇心
昨日(10月7日)奈良県最北部に位置する「佐紀古墳群」を案内してもらって、巡ってきた。今回の参加者は6人。その中のお一人が古墳にたいへん詳しい方で、いつもいろいろな古墳・遺跡などの案内をしてくださる。古墳などの資料もその方が分かりやすく作成され、説明もしてくださる。おかげさまで、古墳巡りが有意義で楽しい活動になった次第です。
その方は、たいへん歴史探求に熱心な方で、優秀な方である。(私とはレベルの違う方だと、いつも感心させられる。)
佐紀古墳群は奈良県にある古墳群だが、京都南部の府境(県境)がすぐ近くにある。京都府を流れている木津川が近い。木津川を利用すれば、琵琶湖につながっており、湖北まで船でいくことができる。湖北から日本海は近い。渡来人が鉄文化をもたらしたルートであろう。
鉄ルートを制する者が日本を統治したと考えられる。ちなみに、ヤマト朝廷=「鉄の覇者」だった。
佐紀古墳群は、奈良盆地にある古墳群の中でも一番古い古墳群のような気がした。実際、4世紀に築造されている古墳が多い。世界遺産になった百舌鳥古墳群や古市古墳群は5世紀に築造された古墳が多い。
このことから、(私の推定に過ぎないが・・・)弥生時代に一番近い頃に築造された(奈良県や大阪府にある)古墳群の中で、一番古いのは、『佐紀古墳群」だと思った。
それ故に、興味津々。墳丘長200mを超える古墳が、8基もあった。大小合わせて約25基の古墳がかたまっている古墳群だった。古墳が隣り合わせに並んでいる古墳がいくつかあった。とにかく「古墳の密度」の濃さに驚いた。
全国に古墳が20万基ほどあったのだが、破壊されたりしているので、約16万基に減っているようだ。その中でもヤマト朝廷の影響が大きいと考えられる前方後円墳は約5000基ある。古墳は「円墳」と分類されるものが一番多い。弥生時代の古墳の多くは円墳のようだ。
四角形の「方墳」もあるのだが、数は少ないようだ。とにかく小さな円墳の数が多い。
佐紀古墳群にも円墳があったようだが、破壊されて住宅地になっていた。古墳が破壊されないためには、それなりの保護・保存活動がいるようだ。
古墳が私物である場合、税金がかかるので、売りたくなるのかもしれない。公的機関が所有している場合は、破壊される度合いは低い。
しかし、道路建設などで破壊されるケースは結構あるようだ。遺跡についても、同じことが言える。
その古墳や遺跡は残すべきか、破壊すべきか・・・? どの地域でも問題になることが多い。
佐紀古墳群は、琵琶湖・日本海とつながっている重要な位置にある。渡来人がヤマトに文化をもたらした重要地=(奈良県最北部)佐紀の地 だったと、私には思えるのである。
地形図を予想し、考えながら、弥生時代・古墳時代前期を連想したのだった。
「佐紀こそ、奈良県の古代史最重要地点と言えるであろう!」なんて、勝手に推定しながら、古墳巡りをしてきたのだった。
案内役のTさん、ありがとうございました。勉強になりました。
佐紀はすごい!
佐紀(さき)丘陵の一部をめぐっている。 写真前方に東大寺の裏手に当たる「若草山」の一部が見えていた。写真ではわかりにくいが・・・。佐紀丘陵を越えて北へ行くと、木津川に達する。木津川まで、それほど遠くはなさそうだ。今回は歩いていないが…。(地図から推測) 佐紀丘陵へのアクセスは、近鉄奈良線の大和西大寺駅で京都線に乗り換え、一駅北へ行ったところに「平城(へいじょう)駅」がある。平城駅から歩くコースが、古墳巡りには便利だった。今回の私たちもそのルートで回った。
ヒシアゲ古墳(仁徳天皇皇后・磐之媛陵との説あり)への入り口付近
前方後円墳で墳丘長219mの大きな古墳だった。古墳のほとんどは、誰が埋葬されているかは、ほとんどわかっていない。古代の天皇陵で確定できている古墳はないようだ。証拠がないからだろう。骨さえ残っていないケースがほとんどで、副葬品から推定することになるのだろう。盗掘されていたら、それこそなおさら手掛かりがなくなっている。
天皇や皇后の古墳を断定できないことがほとんどである。それでも、宮内庁が強引に定めたようだ。(古事記や日本書紀、その他の江戸時代らの学者の記述などを手掛かりに) 科学的には信用できない情報ばかりだ。
近年になり、科学的測定が可能になってきたので、古代史も科学的データに基づいて議論されるようになってきている。
まあ、100年後には宮内庁も少しは考え方が変わるだろう。(と、私は思っている。)当分は、今のままで、宮内庁が管理している天皇陵の認定に変更はなされないだろう。
コナベ古墳(墳丘長208m)の濠の側に咲いていた彼岸花。お彼岸が過ぎても、真っ赤な花が咲いていた。水面の向こうが墳丘。濠がきちんと整備されていた。
今回の古墳巡りは、花が美しかった。コスモスの花が満開だった。シオン(紫苑)の花についても教えてもらえた。薄い紫色の花だった。キクイモ(菊芋)も背丈が2メートルほどになり、満開だった。ウォーキングに適した、いい季節だった。
平城京跡に立派な建物が再建され、身近に見ることができた。
菅原道真の歌碑 「このたびは 幣(ぬさ)も取とりあえず 手向山(たむけやま) 紅葉の錦 神のまにまに」(百人一首にも採用されている歌)が 添御懸坐(そうのみあがたにます)神社入口に設置されていた。
この佐紀丘陵が「手向山」の地だと推定されたのであろう。この神社のある地は、「歌姫越え」と言われる地で、諸国への旅の国境(手向けの地)だと推定できる。山城国(京都)から大和国(奈良)との国境の地=佐紀丘陵 であることが地形や地図からも推定できる。
なるほど、この歌の詠まれた「手向山」とは、ここだったのだなあ・・・と、思えた。
私は逢坂山付近が国境・関所であり、「手向山=逢坂山付近」と勘違いしていたようだ。一つ、勉強になりました。この歌における紅葉のイメージは、やはり大和国への旅でしょうね。
その方は、たいへん歴史探求に熱心な方で、優秀な方である。(私とはレベルの違う方だと、いつも感心させられる。)
佐紀古墳群は奈良県にある古墳群だが、京都南部の府境(県境)がすぐ近くにある。京都府を流れている木津川が近い。木津川を利用すれば、琵琶湖につながっており、湖北まで船でいくことができる。湖北から日本海は近い。渡来人が鉄文化をもたらしたルートであろう。
鉄ルートを制する者が日本を統治したと考えられる。ちなみに、ヤマト朝廷=「鉄の覇者」だった。
佐紀古墳群は、奈良盆地にある古墳群の中でも一番古い古墳群のような気がした。実際、4世紀に築造されている古墳が多い。世界遺産になった百舌鳥古墳群や古市古墳群は5世紀に築造された古墳が多い。
このことから、(私の推定に過ぎないが・・・)弥生時代に一番近い頃に築造された(奈良県や大阪府にある)古墳群の中で、一番古いのは、『佐紀古墳群」だと思った。
それ故に、興味津々。墳丘長200mを超える古墳が、8基もあった。大小合わせて約25基の古墳がかたまっている古墳群だった。古墳が隣り合わせに並んでいる古墳がいくつかあった。とにかく「古墳の密度」の濃さに驚いた。
全国に古墳が20万基ほどあったのだが、破壊されたりしているので、約16万基に減っているようだ。その中でもヤマト朝廷の影響が大きいと考えられる前方後円墳は約5000基ある。古墳は「円墳」と分類されるものが一番多い。弥生時代の古墳の多くは円墳のようだ。
四角形の「方墳」もあるのだが、数は少ないようだ。とにかく小さな円墳の数が多い。
佐紀古墳群にも円墳があったようだが、破壊されて住宅地になっていた。古墳が破壊されないためには、それなりの保護・保存活動がいるようだ。
古墳が私物である場合、税金がかかるので、売りたくなるのかもしれない。公的機関が所有している場合は、破壊される度合いは低い。
しかし、道路建設などで破壊されるケースは結構あるようだ。遺跡についても、同じことが言える。
その古墳や遺跡は残すべきか、破壊すべきか・・・? どの地域でも問題になることが多い。
佐紀古墳群は、琵琶湖・日本海とつながっている重要な位置にある。渡来人がヤマトに文化をもたらした重要地=(奈良県最北部)佐紀の地 だったと、私には思えるのである。
地形図を予想し、考えながら、弥生時代・古墳時代前期を連想したのだった。
「佐紀こそ、奈良県の古代史最重要地点と言えるであろう!」なんて、勝手に推定しながら、古墳巡りをしてきたのだった。
案内役のTさん、ありがとうございました。勉強になりました。
佐紀はすごい!
佐紀(さき)丘陵の一部をめぐっている。 写真前方に東大寺の裏手に当たる「若草山」の一部が見えていた。写真ではわかりにくいが・・・。佐紀丘陵を越えて北へ行くと、木津川に達する。木津川まで、それほど遠くはなさそうだ。今回は歩いていないが…。(地図から推測) 佐紀丘陵へのアクセスは、近鉄奈良線の大和西大寺駅で京都線に乗り換え、一駅北へ行ったところに「平城(へいじょう)駅」がある。平城駅から歩くコースが、古墳巡りには便利だった。今回の私たちもそのルートで回った。
ヒシアゲ古墳(仁徳天皇皇后・磐之媛陵との説あり)への入り口付近
前方後円墳で墳丘長219mの大きな古墳だった。古墳のほとんどは、誰が埋葬されているかは、ほとんどわかっていない。古代の天皇陵で確定できている古墳はないようだ。証拠がないからだろう。骨さえ残っていないケースがほとんどで、副葬品から推定することになるのだろう。盗掘されていたら、それこそなおさら手掛かりがなくなっている。
天皇や皇后の古墳を断定できないことがほとんどである。それでも、宮内庁が強引に定めたようだ。(古事記や日本書紀、その他の江戸時代らの学者の記述などを手掛かりに) 科学的には信用できない情報ばかりだ。
近年になり、科学的測定が可能になってきたので、古代史も科学的データに基づいて議論されるようになってきている。
まあ、100年後には宮内庁も少しは考え方が変わるだろう。(と、私は思っている。)当分は、今のままで、宮内庁が管理している天皇陵の認定に変更はなされないだろう。
コナベ古墳(墳丘長208m)の濠の側に咲いていた彼岸花。お彼岸が過ぎても、真っ赤な花が咲いていた。水面の向こうが墳丘。濠がきちんと整備されていた。
今回の古墳巡りは、花が美しかった。コスモスの花が満開だった。シオン(紫苑)の花についても教えてもらえた。薄い紫色の花だった。キクイモ(菊芋)も背丈が2メートルほどになり、満開だった。ウォーキングに適した、いい季節だった。
平城京跡に立派な建物が再建され、身近に見ることができた。
菅原道真の歌碑 「このたびは 幣(ぬさ)も取とりあえず 手向山(たむけやま) 紅葉の錦 神のまにまに」(百人一首にも採用されている歌)が 添御懸坐(そうのみあがたにます)神社入口に設置されていた。
この佐紀丘陵が「手向山」の地だと推定されたのであろう。この神社のある地は、「歌姫越え」と言われる地で、諸国への旅の国境(手向けの地)だと推定できる。山城国(京都)から大和国(奈良)との国境の地=佐紀丘陵 であることが地形や地図からも推定できる。
なるほど、この歌の詠まれた「手向山」とは、ここだったのだなあ・・・と、思えた。
私は逢坂山付近が国境・関所であり、「手向山=逢坂山付近」と勘違いしていたようだ。一つ、勉強になりました。この歌における紅葉のイメージは、やはり大和国への旅でしょうね。
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投稿者: 鬼井江 3
タグ: 古墳
2020/6/18
「古代の地図がおもしろい(含・追加分)」 古代への好奇心
弥生時代以後の大阪・奈良近辺の地形を想像してみた。
約2000年~1500前の大阪平野および奈良近辺の地形を調べたり、想像することは楽しい。
大阪平野(河内平野)に河内湖があった時代、奈良盆地は「古代奈良湖」が浅くなり、陸地化し始めていたようだ。「古代奈良湖」の底は平たく、陸地化した土地に、(飛鳥時代になり)「藤原京」などの都が作られたようだ。大和三山が昔は「島」だったようだ。
広大な「藤原京」の中に、大和三山(耳成山、畝傍山、天香久山)が存在する・・・。藤原京の真ん中に立つと、大和三山が(ぐるりと回ると)見渡せる。この風景は一見である。大和三山が「古代においては島」だったと想像できる。
古墳時代、琵琶湖方面と大和地方とは船で行き来できたと推測できる。
さらに、想像するなら・・・、日本海・丹後地方または敦賀と琵琶湖は舟で行き来できたようにも思える。川を利用し、陸上の一部は船を曳いて移動させる。
日本海と琵琶湖は舟で行き来できたように想像している。
日本海ルート + 琵琶湖利用大和川ルート で、中国・朝鮮などとつながっていたのかもしれない。想像の世界だが…。
可能性はある。
中国山地(鳥取県だったかな?)「船通山」という山がある。船が通う山・・・。どういういわれがあって、こんな名がついているのだろうか? 地名が謎を解くヒントになってくれそうだ。
地名はおもしろい。
古代においては、琵琶湖 → 宇治川 → 巨椋(おぐら)池 → 淀川 → 河内湖 → 大阪湾 とつながっていた。船で行き来できたようだ。荷物を運ぶには船が便利だったと考えられる。
河内湖の東側には生駒山があり、生駒山の麓には「馬が放牧(飼育)」されていただろう。地名から想像できる。
河内湖と古代奈良湖(古奈良湖)は大和川でつながっていた。この大和川は、現在の大和川とは違う。現在の大和川の下流は江戸時代(1704年)に人の手で掘られた運河(江戸時代の地図には、新大和川と書かれている。)なのである。
古代の大和川は河内湖に流れ込んでいた。河内湖が消滅した後は、上町台地周辺で、淀川と合流し、大阪湾に流れこんでいた。
新大和川が掘られるまでは、大雨が降ると洪水が頻発していたようだ。新大和川が掘られたので、洪水被害が激減した。その代わり、堺の堺港近くの海には土砂が流れ込むことになった。江戸時代後半、堺港が土砂の弊害で発展にブレーキがかかることになったわけである。
川の流れが変わると、一大変化をもたらすものだ。
古代、上町台地(河内湖と大阪湾に挟まれた、つきだした部分)の北端付近はとにかく潮の流れが速く、航行の難所だったと考えられる。上町台地の西沿岸部は、特に潮の流れが速かった。「浪速」という地名にも表れている。「浪速」という語がなまった「難波」も地名として定着していった。どちらも、潮流の速さからきている言葉である。現代においては、なまった言葉=「難波」が、地名・駅名として一般化している。
もともとの「浪速」は「浪速区」「浪速警察署」などと使われている。
歴史的には「浪速」が古い。が、「難波」駅は超有名な駅である。
縄文時代の河内は 湖ではなく「海」だった。 河内湾
高槻・枚方方面まで 河内湾が広まっていた。
弥生時代後期になると 上町台地の先端海岸部から砂州が伸びていき、河内湾の口がすぼめられ、海水の流れが少なくなり、淡水の湖(=河内湖)になっていったようだ。
古墳時代(後期)になると、いよいよ河内湖は浅くなり、湖の大きさも狭められていった。しかし、仏教が(現在の)奈良県・桜井市に初めて伝来したルートを予想すれば、大阪湾から桜井市「仏教伝来地」まで、船で行くことができたようだ。大和川の存在が重要だったに違いない。現在のJR王寺駅近辺の大和川は急流だったようだ。(川航路の難所だったにちがいない。)
琵琶湖と大和地方とは、船でつながっていた時代でもあった。
仏教伝来ルート(予想ルート)
=大阪湾 → 河内湖 → 長瀬川(大和川本流だった) → 大和川 → 桜井市
約2000年~1500前の大阪平野および奈良近辺の地形を調べたり、想像することは楽しい。
大阪平野(河内平野)に河内湖があった時代、奈良盆地は「古代奈良湖」が浅くなり、陸地化し始めていたようだ。「古代奈良湖」の底は平たく、陸地化した土地に、(飛鳥時代になり)「藤原京」などの都が作られたようだ。大和三山が昔は「島」だったようだ。
広大な「藤原京」の中に、大和三山(耳成山、畝傍山、天香久山)が存在する・・・。藤原京の真ん中に立つと、大和三山が(ぐるりと回ると)見渡せる。この風景は一見である。大和三山が「古代においては島」だったと想像できる。
古墳時代、琵琶湖方面と大和地方とは船で行き来できたと推測できる。
さらに、想像するなら・・・、日本海・丹後地方または敦賀と琵琶湖は舟で行き来できたようにも思える。川を利用し、陸上の一部は船を曳いて移動させる。
日本海と琵琶湖は舟で行き来できたように想像している。
日本海ルート + 琵琶湖利用大和川ルート で、中国・朝鮮などとつながっていたのかもしれない。想像の世界だが…。
可能性はある。
中国山地(鳥取県だったかな?)「船通山」という山がある。船が通う山・・・。どういういわれがあって、こんな名がついているのだろうか? 地名が謎を解くヒントになってくれそうだ。
地名はおもしろい。
古代においては、琵琶湖 → 宇治川 → 巨椋(おぐら)池 → 淀川 → 河内湖 → 大阪湾 とつながっていた。船で行き来できたようだ。荷物を運ぶには船が便利だったと考えられる。
河内湖の東側には生駒山があり、生駒山の麓には「馬が放牧(飼育)」されていただろう。地名から想像できる。
河内湖と古代奈良湖(古奈良湖)は大和川でつながっていた。この大和川は、現在の大和川とは違う。現在の大和川の下流は江戸時代(1704年)に人の手で掘られた運河(江戸時代の地図には、新大和川と書かれている。)なのである。
古代の大和川は河内湖に流れ込んでいた。河内湖が消滅した後は、上町台地周辺で、淀川と合流し、大阪湾に流れこんでいた。
新大和川が掘られるまでは、大雨が降ると洪水が頻発していたようだ。新大和川が掘られたので、洪水被害が激減した。その代わり、堺の堺港近くの海には土砂が流れ込むことになった。江戸時代後半、堺港が土砂の弊害で発展にブレーキがかかることになったわけである。
川の流れが変わると、一大変化をもたらすものだ。
古代、上町台地(河内湖と大阪湾に挟まれた、つきだした部分)の北端付近はとにかく潮の流れが速く、航行の難所だったと考えられる。上町台地の西沿岸部は、特に潮の流れが速かった。「浪速」という地名にも表れている。「浪速」という語がなまった「難波」も地名として定着していった。どちらも、潮流の速さからきている言葉である。現代においては、なまった言葉=「難波」が、地名・駅名として一般化している。
もともとの「浪速」は「浪速区」「浪速警察署」などと使われている。
歴史的には「浪速」が古い。が、「難波」駅は超有名な駅である。
縄文時代の河内は 湖ではなく「海」だった。 河内湾
高槻・枚方方面まで 河内湾が広まっていた。
弥生時代後期になると 上町台地の先端海岸部から砂州が伸びていき、河内湾の口がすぼめられ、海水の流れが少なくなり、淡水の湖(=河内湖)になっていったようだ。
古墳時代(後期)になると、いよいよ河内湖は浅くなり、湖の大きさも狭められていった。しかし、仏教が(現在の)奈良県・桜井市に初めて伝来したルートを予想すれば、大阪湾から桜井市「仏教伝来地」まで、船で行くことができたようだ。大和川の存在が重要だったに違いない。現在のJR王寺駅近辺の大和川は急流だったようだ。(川航路の難所だったにちがいない。)
琵琶湖と大和地方とは、船でつながっていた時代でもあった。
仏教伝来ルート(予想ルート)
=大阪湾 → 河内湖 → 長瀬川(大和川本流だった) → 大和川 → 桜井市
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タグ: 古代の地図から想像