2022年10月13日から2泊3日で、中山道(信濃路)一人歩き旅に出かけた。今回のコースは、長野県から群馬県へのコースで、碓氷(うすい)峠を越える難コースであった。
13日早朝、午前6時前に家を出て、JR堺市駅へ。午前6時28分の快速に乗り、大阪駅へ。大阪駅から東海道本線で、米原駅へ。そして、大垣駅で乗り換え名古屋駅に到着したのは、午前9時43分でした。40分ほど待ち時間があり、中央本線・中津川駅を目指した。中津川駅で乗り換え、塩尻駅で降りた。塩尻駅で普通列車利用だと、1時間足らず待たされるので、ちょうど駅に停車していた(新宿行き)特急あずさに飛び乗った。塩尻駅から小淵沢駅までの乗車券と特急券を車内で車掌から購入したときは、すでに列車は動き出していた。
今回利用した切符は、俗称=(秋の青春18切符)と呼ばれている、正式名=「秋の乗り放題パス」を利用したのだった。連続3日間利用・全国JR線の普通・快速列車乗り放題切符で、7850円。ただし、特急に乗る場合、利用区間の乗車券と特急券を購入しなければならないルール。普通列車が少なくなる地方では、特急を利用したくなるような状況が多いですね。
「特急利用」をしたので、小淵沢駅(小海線始発駅)に14時30分に着くことができました。31分の待ち合わせで、15時1分発の小海線(小淵沢駅~小諸駅)に乗ることができました。小海線は地方路線であり、本数は少ない。JRで標高の一番高い野辺山駅があるので、鉄道ファンに人気のある路線らしい。私は乗ったことがなかったので、この機会に小海線に乗ってみた次第です。単線かつ普通列車のみで、距離のわりに駅の数が多く、小諸駅に着くまで、2時間半ほどかかりました。
塩尻駅で特急あずさ号に乗れましたので、(普通利用では午後8時半ごろに小諸駅到着予定でしたので)午後5時40分に宿泊予約していたホテルに入ることができました。
歩き旅初日は、列車の乗り換えばかりで、(中山道・追分宿に近い)小諸駅にたどり着いた次第です。車窓を楽しむだけで、一日目は「中山道歩き旅」の行程そのものを歩くことなく、過ぎました。それでも、万歩計の歩数を調べたら、10000歩を超えていました。各駅での乗り換えが中心の歩数ですが、(えっ、こんなに歩いていたのか!)と驚いた次第です。
旅行2日目、早朝に起き、小諸駅発7時30分の列車、(私鉄)しなの鉄道に乗りました。軽井沢駅行きの列車でした。15分後、追分宿に近い、信濃追分駅で降りました。降りた駅から10分ほど歩くと、中山道(街道筋)に着きました。
いよいよ中山道歩きの(今回の)スタートです。午前8時でした。
本当に自分の歩いている道が中山道かどうか自信がなかったので、(以前、中山道歩きで間違った道を歩いていた経験があったので)散歩中の女性たちに声をかけました。「すみません・・・この道は中山道に間違いないですか?」と。そしたら、間違いがないことを教えてくださり、その上、中山道の名所ポイントについての説明もしていただけました。
国道18号線やしなの鉄道に沿った道が中山道でした。中軽井沢駅の近くが沓掛(くつかけ)宿中心地で、脇本陣跡の碑もありましたが、見つけにくい場所でした。沓掛宿周辺にお住いの方々や軽井沢町も「中山道」のアピールに力を入れていないように感じました。江戸時代に栄えた沓掛宿でしたが、現在は(江戸時代の名残の建物はまったくなく)軽井沢の観光地・別荘地の一部として、にぎやかな地域になっていました。国道18号線の車の通行量も多く、「中山道」という歴史を感じさせる道ではありませんでした。「沓掛時次郎」の出生地ということですが、沓掛時次郎という名も知っている人はほとんどいない時代になりました。私も詳しいことは知りません。実在の人物ではないようです。
軽井沢は避暑地であり、観光地として繁栄していて、新幹線の軽井沢駅周辺や旧軽井沢銀座に観光客が押し寄せている様子でした。上皇と上皇后とが(若いころに)テニスを楽しまれた軽井沢。有名人やお金持ちの別荘が多くある地として栄えていった地でもあるようです。
しかし、軽井沢が中山道の宿場であり、旧軽井沢銀座付近に「本陣」「脇本陣」などがあったことを認識している人は少ないようです。本陣跡や脇本陣跡を探すことをメインに歩き旅をしたのですが、わかりにくかったですね。「脇本陣江戸屋」はなんとか見つかりましたが・・・。
軽井沢宿の東の桝形(入り口)に、「つるや旅館」が現存していました。江戸時代は茶屋だったようで、明治以降は旅館になり、現在に至っている。「つるや旅館」は歴史を感じさせる建物で、立派な旅館でした。調べたところ、芥川龍之介、堀辰雄などの文人が多数宿泊している。すぐちかくに芭蕉句碑や「ショーハウス(英国聖公会宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーの別荘 礼拝堂がある)」があり、多くの観光客は「ショーハウス」を目指して歩いていく。「ショーハウス」は中山道に面した位置にあった。その先も道が続いていたが、ほとんどの人は「ショーハウス」の見学を終えると、Uターンして戻っていくようだった。碓氷峠まで中山道は続いているのだが・・・。その道を歩いていくのは私一人だけになっていた。(車やバス利用で行く人はいたが。)
旧中山道はある地点から、人が歩かなくなり、道が消失していたので、(あっちへこっちへと、道を探してみたのだが、わからなくなってしまった。雨が降ってきたし、薄暗くなってきていたので、不安になった。遭難してはいけないので、車道(中山道そのものではない道)が見つかったので、中山道ではないとわかっていたが・・・、安全のため、車道利用で碓氷峠まで歩くことにした。
道がわからなくなり、さまよってしまったので、予定の時間(12時過ぎには着く予定)が過ぎていたが、碓氷峠に到着できた時、ほっとした。到着は午後1時になっていた。
(ここから続きです。)
碓氷峠に、名物の「力餅」を食べさせてくれる茶屋があった。雨が降っていたので、茶屋の中で休憩を兼ねて、「力餅」を食べて「歩く力をつける」ことにした。歩いて碓氷峠に来た人はわずからしく、茶屋の中にいる客の服装は「歩く格好」ではなかった。私が入った茶屋は、国境=信濃国と上野国(こうずけのくに)との境(現在の長野県と群馬県との県境)に建っていた。玄関前の敷地に赤い線が引かれていた。その赤い線が、まさに国境(県境)で、赤い線が建物内に入っても、床に赤い線(国境線)が引かれていた。私が力餅をいただいたテーブルの真横の戸が国境線の上にあり、ガラス戸の左側に「群馬県」、右側に「長野県」と書かれてあった。あまりにも「珍しいガラス戸」だったので、写真を一枚、パチリ! (このお店の税金は群馬県に? それとも長野県? それとも敷地面積に応じて、両県に? )なんてことを、想像していた。質問はしなかったけれど・・・。はて、実際はどうなんだろうか? (しょうもないことに関心を持つ私の悪い癖)
力餅は予想していた大きさよりも小さかった。小さなあんころ餅が8個(写真参照)竹皿の並べられていた。おそらく昔からこういう竹のお皿に力餅をのせて客に提供していたのでしょうね。(竹皿から江戸時代を感じられて、おいしかったですね。)
碓氷峠の国境に熊野神社がある。(私は参らなかったが・・・)本宮は国境上にあり、新宮は上野国(上州)側に、那智宮は信州側に建っているそうだ。和歌山県の熊野三山を模して設置されたらしい。とにかく全国に「熊野神社」は4700社ほどあるらしい。「本家本元」はもちろん和歌山の熊野神社。世界遺産になったぐらいだから、歴史に重みもあるのだろう。「熊野神社の影響力はすごい!」
この「熊野神社」の本宮を目指して、安政時代に「遠足(とおあし)」が始まったらしい。江戸時代、安中藩の藩士96名を、安中城からスタートさせ、約30km先の碓氷峠の熊野神社(本宮)まで、駆け足で走らせたという記録が残っている。まさに、日本の「マラソン発祥地」だといわれている。去年の10月に、安中宿を(中山道歩き旅で)歩いた時、「安政遠足之図」を目にした。無学な私は「あんせいえんそくのず」と読んでいた。(去年)自宅に帰ってから「とおあし」と読むんだ! と勉強した。おかげで、今年は「とおあし」と認識できていた。
*参考資料
安政遠足(あんせいとおあし)について 【以下、ネット情報からの要約・抜粋です。】
江戸時代・安政2年(1855年)、安中(あんなか)藩主が藩士の鍛錬のため、藩士96人に安中城門から碓氷峠の熊野権現神社まで走らせた徒歩競走。 碓氷峠の茶屋で発見された『安中御城内御諸士御遠足着帳』にそのときの記録が記されている。しかし、順位やタイムは重要視されていなかったようで、ゴールした者には餅などがふるまわれたという。安政遠足は、日本におけるマラソンの発祥といわれ、安中城址には「安中藩安政遠足の碑」と「日本マラソン発祥の地」の石碑が建てられている。 総走行距離は30キロメートル程度ながら最終的にスタートとゴールの標高差は1000メートル以上とのこと。
*(ブログ本文に戻ります。)
午後1時半ごろに、茶屋「しげの屋」を出るころに、雨が小やみになっていた。坂本宿方面への中山道はすぐに見つけることができた。熊野神社の近くにバス停があって、20人ぐらい人たちが並んでいた。赤色の観光用バスが碓氷峠バス停に来た時、私は碓氷峠と別れて、一人だけで下って行った。バス停のある道は広かったが、100メートルほど歩くと、細い地道になった。(この道は車は無理だろう・・・) 人間が二人ほど歩ける幅の道がしばらく続き、ある地点から、一人しか歩けない幅になってきた。そのうえ、下りの坂が急になり、雨でぬれていたので、滑りそうになった。(足をくじいて捻挫しては大変だ!)と心の中で叫びながら、どんどん下って行った。(えっ、こんなに細くて、ぬめりが多い坂道を、江戸時代末期、和宮様を乗せた籠が下って行ったのだろうか?)と想像しながら、どんどんきつい下り坂を下って行った。つるっと滑ったときは、ヒヤッとした。(注意! 注意!)とブツブツ独り言を言いながら気合を入れて下った。平坦な道になることなく、連続下り坂が1時間以上続いた。
途中、高齢のご夫婦一組に出会った。また(私と同年齢ぐらいの)一人歩きの男性にもであった。(中山道歩きで、歩き旅をしている人に出会うのは久しぶりだった。9月の(美濃路)中山道歩き旅では、まったく誰にも出会わなかったので、「おっ、流石に、碓氷峠の中山道歩きでは、私以外に歩く人がいるんだ!」と、感激しましたね。(熊も歩く人が複数いると、出没する可能性は低いだろう・・・)と、ある意味で安心なコースだと思えた。
「山中坂」「まごめ坂」など、坂ばかりの中山道が続いていた。さらに下って行ったところに、「座頭ころがし」という場所があった。急坂で岩や小石がごろごろし、年月の劣化とともに赤土になり、湿っているので、滑りやすい危険な箇所との説明だった。物騒な名前がつけられた箇所で、時計を見たら、午後3時25分だった。(坂本宿まではまだまだ距離がありそうだな・・・)と、日が明るい間に坂本宿に着きたいと願いつつ、ほとんど休まずに歩き続けていた。
標高810mの刎石山(はねいしやま)の麓地点に到着した時、「碓氷坂の関所跡」(899年、関所設置されていた所)に道標があった。「坂本宿2・5km」との標示に、ほっとできた。(あと、2.5kmで坂本宿だ! がんばろう!)
細い(一人しか歩けない)中山道の坂道をジグザグと下っていき、「覗(のぞき)」という下界を見通せる場所についたとき、「まばらに家々」が見えていた。坂本宿だった。家並を目にすると、元気が出た。日没が近いことを意識し、どんどん下って行った。
(もうすぐ日が暮れる・・・) 芥川龍之介の『トロッコ』の主人公の少年を連想しながら、私も、「走るように」急いだ。坂本宿に到着できた時、ほっとした。(午後5時過ぎだったので、薄暗くなっていた。)少年のように「泣きじゃくり」はしなかったが・・・。「日没までに、坂本宿に着けて良かった!!」と、安心したのだった。
本日、坂本宿が到達地点ではなかった。2kmほど先にJR横川駅がある。その駅が(本日の歩き)到達地点だったので、あとひと踏んばり、歩かなければならない。しかし、横川駅から列車に乗れるので、足腰は傷んでいたが、気分はルンルンだった。
去年の10月28日に訪れたことのあった『碓氷関所跡』で、写真を一枚撮って、横川駅に急いだ。もう日が完全に暮れていた。午後6時前の横川駅始発の列車に乗り、高崎駅に向かった。今日の予約ホテルは、高崎駅前のビジネスホテル。午後7時過ぎにホテルに到着し、部屋に入ることができた。夕食をホテルの近くの食堂で食べ、ホテルに戻って休んだ。長い一日だった。
2022年10月14日(歩き旅2日目)の歩数は、49870歩だった。さ迷ったりしたことが原因で、30km近く歩いたことになった。(地図上では25kmぐらいだったが・・・。)それにしても、朝から晩まで、一日中よく歩きましたね。
本日のブログはここまで。 (了)
*3日目の記録、「高崎宿 → 倉賀野宿へ」は次のブログへ。
小海線 野辺山駅のホームの標柱に「JR線最高駅野辺山 1345米」が書かれていた。線路は所々で、崖っぷちの個所を通過していた。窓から見える風景から、厳しい山岳地帯を走っていることが分かった。
沓掛宿 脇御本陣蔦屋跡の碑がひっそりと駐車場奥に設置されていました。街道筋ではなかったので、見つけにくかったですね。
つるや旅館 全景 (この坂道を登っていくと、碓氷峠に至る。約3.3kmの上り坂道が続いていた。)この日、中山道を歩いている人は私一人だけだった。車や観光用バス利用の人はいた。(軽井沢駅から車道利用で碓氷峠まで行くことができた。)
中山道に面した「つるや旅館」玄関の前に 『軽井沢宿』標柱が設置されていた。
ショーハウス 礼拝堂 中山道の道から見えている。(見学者が多い軽井沢観光ポイントの一か所)
碓氷峠にある茶屋(しげのや) 赤い線が県境(昔の国境)
茶屋の建物の内部にも赤い線が続いていた。硝子戸の右側が(長野県・軽井沢町)、左側が(群馬県・安中市) 硝子戸の字に注目してください。私は、群馬県側のテーブルで力餅をいただきました。
竹の皿が風流で、江戸時代の雰囲気を感じました。おいしい力餅でした。
碓氷峠付近の比較的広い街道 中山道
険しい坂道が続いていた
かなり急坂だった箇所 足場が悪く事故が起こりそうな雰囲気の中山道の難所
坂本宿は一直線の宿場町だった
2度目の訪問 碓氷関所跡(坂本宿側から写した一枚)