中東の現状況。一般のニュースの動きから読み解くと、こんなカンジです。
ただし、一般情報では知りえない真実の情報が存在します。世界政治は茶番です。
真実は小説よりも奇なり。
どの国のトップも、NW0をもたらすために、たとえ敵同士であっても目的のために結託しています。もちろん、権力覇権争いのため派閥は存在します。
ですので、特定の国を善とし、特定の国を悪と判断するのは間違いです。米国のディスペンセーション思想の影響のせいなのか、日本のキリスト教会の牧師たちも、この奥義の意味を理解できておらず、国家別で善と悪とに判断してしまいがちです。どの国家も、丸ごと善でも悪でもありません。それは日本も同じこと。支配層と支配される民に別れます。悪と善の闘いがどの国家内にも存在します。
聖書には、国家間の戦い(血肉の戦い)だとは書かれていません。悪は、人工削減とNW0をもたらそうとする多くの国の支配層です。国民を含むその国丸ごとが悪ではありません。神の裁きは各々に対してです。
善はこの悪魔勢力に妥協・結託せず闘う神の側につく 全ての国の民です。神様は悪に抵抗する、妥協しない 全ての民と共におられます。
神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。
悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。
なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。
そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。
なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。
すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。
彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。
そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。
もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。
姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。
聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。
もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。
だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。
かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。
というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。ローマ2:6-29
さて、なぜ、ユダヤ人は狙われるのでしょうか?
ずばり、イスラエルの地には選民がいるからです。
1948年、世界から集められ民がイスラエルに帰還する預言が成就されました。また、古代、離散せずにパレスチナに残ったパレスチナ人の末裔の中にも選民はいます。DNAがそれを保証しています。それぞれの割合は判りませんが、イスラエル国には、選民がいます。多民族国家なので、誰が選民であるのかは神のみぞ知ることです。艱難時代後半に、選民は真のメシアに立ち返ります。また、世界に散らばっている諸外国から失われた10部族が集まります。
イスラエルには12部族の中心となるHouse of Judah(ユダ族)の末裔がいます。ヤコブの4人目の息子ユダを祖とし、ユダヤの名称の語源となりました。古代イスラエル王国は、ユダ族を含む2部族により構成されるユダ王国と、10部族により構成される北イスラエル王国に分裂した。北イスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされ、残ったユダ王国はバビロニア(バビロン)によって滅ぼされ、民はバビロンに捕囚された。
12部族 | |
---|---|
その他 |
ユダ族の居住していた地方は、旧約聖書の時代にはユダ、新約聖書の時代にはユダヤとよばれるようになりました。
モーセ、アロン、ミリヤム、ダビデ、ソロモン、エルアザル、エリ、エリサベツ、そして、イエスキリストもユダ族の出身です。
1)エルサレム(平和の教え)の都はユダにあった。
2)神の神殿もユダにあった。
3)神の契約の箱もユダにあった。
4)ダビデ王を起点とした王族もユダ族に属する。
5)ユダ族の特徴、シンボルは獅子である。
6) ユダ族は12部族の中で戦いの先陣を切る民であった。12部族が戦いに出る時、常にユダが戦いの先陣を飾る。
7)ユダは他の兄弟、すなわち他の11部族にまさるものとなる。
神さまが教えて下さったことは、イスラエルにいる選民の敵は、外国だけではなく自国の支配層にもいます。上層部に毒麦が混ざっているのです。カナン人の末裔(巨人族=悪霊のハイブリッド)であり爬虫類人間が、民を装って潜伏していると、神から示されました。旧約聖書を読むと判りますが、カナンといういう場所は昔から様々な巨人族たちが住み着いていた場所です。やはり、その土地を奪還しようと、悪魔勢力が、その土地に戻ってくるのです。
ワクチン接種もこの国から半強制的に始まりました。それは、国内の選民を真っ先に狙うためです。偶然ではありません。ヒトラーの時代もですが、ずっと、ユダヤの民が狙われています。
その悪魔勢力に騙されて便乗している民もいます。しかし、最後まで、悪魔に魂を売らずに、純粋に神を敬い信仰しているユダヤ人こそ、選民のDNAを受け継いでおり、終末時代の144,000人に数えられるユダヤ人です。彼らのために真剣に祈ることが世界の平和に繋がります。
ディスペンセーション主義者は“ヤコブの苦難”というフレーズを使い、“艱難時代に苦難にあうのはイスラエル人だ”という偏った主張をしますが、これは独断的な間違った思想です。
ヤコブには12人の息子と1人の娘がいました。ということは、ヤコブの息子(すべての末裔)=The House of Jacob にも同じ困難が来るということです。古代イスラエルの民が世界中に散らばっています。ユダ族と一緒に、世界に散らばった残りの部族も共に苦難を通るということです。
古代イスラエル人の末裔が渡来した中東、アフリカ、アジア、そして聖書文化を神道・一部の仏教に持つ日本も例外ではないということです。ヤコブの苦難はすべての国の国民に影響します。
艱難前に自分たちだけエスケープ出来るなんて間違った教えを信じ続けるのは、既にタイムアウトです。艱難前携挙は間違った教えなので起こりません。既に、艱難時代に突入しているからです。
実際、新政権のナフタリ・ベネット氏がローテーションでラピード氏と交代(2023年9月)するまでには、第3神殿を建てる計画を公言しています。もちろん、彼が決めたことではなく、国家勢力が決めたことです。残り2年7か月の間のどこかで、神殿が完成してしまうようです。
神殿の建設と同時に正式な動物の生贄の儀式も着々と進んでいるようです。
これが、なんとも恐ろしいぐらいに、私が示された反キリストの登場時期と重なります。また、ベネット氏がバイデン政権を嫌っている要因というのも、パズルのように繋がってきます。
すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。
このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。テトス2:11-15
勘違いして理解している方は、反ユダヤ主義をボイコットして下さい。私たちは、最後まで神に依り頼むイスラエルの選民と世界に散っている末裔のため、また全ての人が真の神に立ち返るように祈らなければいけません。エルサレルがNW0勢力に牛耳られないように祈ることは、同じ神を持つ者として、日本人にも世界の民にも霊的に深く関係しています。
私たちの敵は、特定の国ではなく、世界に散らばる爬虫類人間の支配層です。思い出してください、ジョージアガイドストーンは8カ国の言語で書かれています。世界規模の人工削減計画です。
エルサレムの平和のために祈れ。『おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように』詩編122:6、7