キリスト教徒でなければ、ほとんどの人が聖書についてチンプンカンプンだと思います。
通常、ヨハネの福音書から始めて、マタイ、ルカ、マルコの福音書と言われる4つの福音書(ゴスペル)を読むことを勧められます。
イエス様の生涯と人物を知る為にも、この福音書は読む必要があります。
しかし、多くの人が預言について知りたがっています。特に終末預言について知りたいですよね。
私も知りたかったのですが、終末預言については教会では、ほとんど教えてもらえません。
終末期に再臨があるということぐらいは教えてもらえます。終末時代にどんな状況になるかの詳細は、語られません。
終末預言については、ビギナーは未だ知らなくて良い、まじめに礼拝を守り、きちんとした信仰生活を送りなさいという風潮が、特に日本の教会には存在します。
聖書は万人に書かれた本であって、ビギナー、アドバンス、未信者、無神論者、仏教徒、はこの書簡を読みなさいという分け隔てはありません。書簡によって、A級、B級、C級というレベルも存在しません。
ということは、黙示録は上級者向けではありません。
私は、昨年、ある情報をきっけけに、聖書に書かれている巨人族(ネフィリム)について興味を抱き、没頭して調べました。
なぜ、興味を持ったのかというのは、教会では一切、聞いたことのない・耳にしたことのない話だったからです。
“今、ネフィリムのことを調べてます”と牧師(引っ越した先で訪れた教会の牧師)に話したところ、
“そんなことを学んで何になるの?何の価値があるの?”と、ある意味、不真面目な信仰者として見下されたように感じました。
しかし、神様は、そんなつまらないことはおっしゃらない方です。個人の興味を尊重されます。個性を大事にされます。
また、“ワクチンを受けないで欲しい”と、3カ月間、その牧師夫婦に情報をメールで送り続けましたが、全く聞く耳を持ってもらえず、
“陰謀論が好きですね”と言われました。その教会の中に、反ワクチンの米国人女性がいましたが、嫌われたくないので、牧師の前では、その想いを口にせず遠慮していました。
そういう堅苦しい関係になっている時点で、権威主義が働いているのだと感じます。もっと、自由に話が出来る関係を築くべきですが、日本は教会の中でも、なかなか縦社会が崩れません。
その牧師は、イルミの存在も知らないし、ゲイツを優秀で素晴らしいと賞賛し、工リザべスを好きだと褒めていました。
この牧師、完全に終わってる・・・と、感じました。
ネフィリムについて知る=つまらないこと だと思うから、この世に悪い勢力が実在している意識も少ない。
聖書の世界(神の世界)が神学校で習うだけの中でしか考えれないから、狭い視野でしか神を理解出来ない。
あまりにも、退屈です。
海外では、ネフィリムについては、キリスト教徒が知りたいトップの主題です。
私は、1年近く、このチャンネルを聴いてきましたが、とにかく面白い!
神さまを知るのは、こうでなければいけないなんて決まりはありません。きっかけは何でもよいのです。
右向け右で、真面目に神学から とっかかる必要はありません。
自分の興味の対象をきっかけに、聖書や神様を知って行けば良いのです。
マンガやアニメで聖書を学んでも良いのです。神様は寛大なお方で、興味のない苦痛な学びを押し付けられません。
更に知ってみたいと思った時に、チャレンジをしていけばよいのです。
The Final Conflict in "The Book of Enoch" and Bible Prophecy
Join us tonight on the Midnight Ride (Live Every Saturday Night: 11 ES...
youtube#video
ビギナーは黙示録を学んではいけないという考えには反論します。
黙示録は終末と未来についての預言書ですが、黙示録の1章3節にこうあります。
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
信仰歴が長い者、信者だけが預言書を読んで理解しなさいということではありません。たとえ、未信者でも、預言を理解しなくとも、興味を持ち理解しようとする者は幸いな者だということです。
“Blessed is he that readeth, and they that hear the words of this prophecy, and keep those things which are written therein: for the time is at hand.” Rev1:3
日本語では“読む者はさいわいである”とありますが、英語では'Blessed is that readeth'です。“読む者は祝福されている”ということです。
黙示録を読み、そこに書かれていることを守る人は幸いである(祝福されている)という その理由は・・・
'for the time is at hand' 時がすぐそこまで近付いているからです。
時というのは終末期のことです。時間は多く残されてないから、イエスを信じ、アンテナを張って生活しなさいということです。
この世のことに気が囚われ過ぎないよう、目を覚まして、現状に気付きなさいということです。
日本の教会の多くは、終末期についての話を扱いません。
信仰がしっかりしていないのに知るには未だ早いとか、信者を怖がらせたくないという理由で避けています。
しかし、災害が起きることを想定するからこそ、災害訓練や災害対策を実施します。
それと同じように、終末時代が近付いてきていること、何が起きて行くのかを前々から知り、心の準備をする必要があります。
もちろん、黙示録を知らなくても預言を知らなくても救われます。しかし、神様を信じていても、警戒しておかなければ騙されます。
聖書には、反キリストや偽教師に、信者も騙されるとハッキリと書いています。背教が増えることが書かれています。
あらゆる偽の教えが蔓延ることが書かれています。
数日前、こういうコメを見かけました。They love Jesus, but they love lies more..... あ~ なるほど。
以下の記事は、多くのキリスト教徒が終末預言を知ろうとしない理由について説明しています。
要点を訳しました。
・日常のことで忙しいから。
・恐れており、知りたくないため。
・艱難前携挙を信じる人たちは、自分たちには関係ないと信じているため。
Why Many Christians Do Not Study Bible Prophecy - Prophecy Proof
I provide you with my insight on why many Christians neglect to study ...
Prophecy Proof Insights
要点を訳しました:
使徒パウロは、1テサロニケの5章20節で、預言を軽んじてはならないと教えています。 聖書預言は神から託宣されたもので、未来に起こることが書かれています。聖書には、神からの預言や警告を無視する人々たくさん登場しました。神のコトバを信じなかった故、散々な結末に陥ったり、命を失ったりしています。私たちは、神がわたしたちの将来について警告して下さっていることを、スルーしていないでしょうか?
多くの牧師は、今後起こる聖書の終末預言についての話についてほとんど触れません。
この世において優れた信者となることの利点について説教する牧師の教会には出席しますが、イエスが彼の花嫁のために戻って来られる終末の話に耳を向けることは避けます。残念ながら、多くの教会の教えは、地球上に宝物を保管し、この世界のものが消え去るという事実を無視しています。
不幸なことに、教会自身が信仰と言えども この世に気を取られ、神の預言的な警告やメッセージの重要性に気づかないため、神の贖いの最大の預言を逃す可能性があるということです。
教会が終末時代の預言について語らない理由:
要点を訳しました:
終わりの時代のことを教えたり説教したりする教会が少ないのは本当に驚くべきことです。しかし、現実、私たちの周りでますます混乱と恐ろしい出来事が起こっています。
なぜ多くの教会が終わりの時代について話さないかという理由は多く存在しますが、黙示録が単なる寓意であり、それほど大事ではないと考える牧師や信者もいます。他には、教会で、黙示録や預言についての学びを受けてないだけでなく、自分でも知識を広げて勉強する時間を取らない人もいます。
教会が終わりの時について話さない一番の理由は、恐怖ゆえです。
預言の解釈が色々と別れているため、もし、間違ったことを教えてしまったら・・・と、牧師が弱きになっています。間違ったことを教えた場合、結果的に人々を怒らせてしまう恐れがあります。また、預言については、信者の間で議論を巻き起こす可能性があるという心配からの恐れ。また、預言について知識が足りないという自信のなさから来る恐れ。他には、ポリティカル・コレクトネス(中立的な表現や用語を用いたいこと)を気にするが為、誰かを怒らせたくないという恐れもあります。
聖書の中で最も無視された本は黙示録だと言われています。理解するのが難解で複雑な本だと見なされています。しかし、神は、黙示録に書かれたものを読み、聞き、書かれたことを守る人々のために特別な祝福を与えて下さるという約束をされています。終末時代に起こることを知ることは非常に重要だという事です(黙示録1:3)。
黙示録を、裁きの運命・憂鬱・苦難の部分に焦点を当てるのではなく、希望の本として捉える必要があります。聖書は「祝福された希望を望み、偉大な神と救い主イエス・キリストの栄光の現れ(再臨)を待つ」ことだと言っています(テトス2:13)
私たちが日常のことに忙しくなってしまい、最も重要な本を見逃すのは恥じをみることになります。私たちは、現在、終わりの時代=黙示録に書かれている時代に生きています。丁度現在が、聖書での未来に起こる巻末にある預言書の時代に突入している時代です。
理解が最も困難な黙示録ですが、今、私たちは、黙示録に書かれていることを体験しており、預言が現実となっていることが明らかにされているのを目の前で見ています。
私たちは、まだ預言の最終段階には来ていません。毎週、毎月と、読み続けていくことにより、現実と照らし合わせた時、預言が実現化され紐ていくのを徐々に理解していきます。もちろん、現在、預言が紐解かれている途中の過程なので、誰もまだ 預言のすべてを理解しているとは言えませんが。
極僅かの教会しか、終末時代について教えませんが、実は信者も未信者も、終末時代について、とても知りたがっています。特に、社会の混乱や私たちの周りでの恐ろしい現象が増えているのを見て、多くの人が何かを感じています。
教会はもっとクリエイティブになり、日曜日の説教に預言を教えることも織り込み、初心者や上級者の両方の疑問や関心を満たす可能性が広がります。聖書の知識を助け導くたくさんの材料が存在します。
神の言葉を理解するために費やす時間に制限はありません。神のコトバを深く理解するためは、一生をかけたとしても不十分です。なぜなら、聖句にある事柄を自身の生活の現実的なことと結びつけを繰り返すことにより、新たな発見と成長の富が応用されていること(日常での神の関与)に気付くことが出来るからです。
驚くことに、多くの者は終わりの時代について知ることを熱望しています。彼らは、説明可能な牧師を必要とします。少なくとも、教会は、インターネットの偽りの牧師から間違った教えから学んでいる人々を放置し、彼らに任せるのではなく、評判の良い情報源から読み物と研究資料を提供し、人々を導く必要があります。
キリスト教徒と未信者とも、適格な教師によって進行される定期的な聖書の学びグループに出席するように奨励するべきです。牧師も、それらに参加する必要があります。
イエス御自身が、終わりの時代の啓示を与え、これは、起こり、過ぎ去らなければならないことだと、み使いたちに示されました。
イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。黙示録1:1
教会は、主の主、王の王としてイエス・キリストの再臨の時のために準備をする必要があります。世界中の国の人々が再臨の準備をする必要があります。神は私たちに恐怖心ではなく、力・愛・見極める霊を与えられます。
神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。2テモテ1:7
神の言葉が言うように、預言が成就するまでは、その預言者のコトバが真実だとは判りません(エレミヤ28:9)
<iframe id="google_ads_iframe_/29966721/BNET/faiths/christianity_2" style="color: #0000ff;" title="3rd party ad content" name="google_ads_iframe_/29966721/BNET/faiths/christianity_2" width="1" height="1" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" data-google-container-id="3" data-load-complete="true"></iframe>ただし、今わたしがあなたとすべての民の聞いている所で語るこの言葉を聞きなさい。 わたしと、あなたの先に出た預言者は、むかしから、多くの地と大きな国について、戦いと、ききんと、疫病の事を預言した。 平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ。エレミヤ28:7-9
しかし、神が言われた預言が真実であると信じるなら、まだ起きてない預言も必ず実現するということを信仰により確信することができます。そのような信仰を育むためには、神のコトバを読むこと、聞くことが必要です。
信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。ローマ10:17
しかし、終末の預言について語る説教者がいない・宣べ伝える者がいない場合、どうすれば良いのでしょうか?(ローマ10:15)。
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。ローマ書10:14-15
Why Do Most Churches Not Talk About the End Times?
Churchgoers overwhelmingly have questions about the end times. These a...
信仰の上下に、教会生活が長い・信仰生活が長い・教会の奉仕に熱心、というのは関係ありません。
聖書には、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マルコ10:31)とあります。
まだ神様を信じてない人でも聖書を知らなくても、先の者を追い抜かすほどの信仰が与えられたり、
神さまから特別に目をかけてもらえることが起きるということです。
純粋に神様を信頼する度合いにより、長年の信者が体験しないような奇跡も体験することも可能です。
また、求めれば賜物も与えられます。
私のような、誤字・雑字の多い、大雑把な者でも賜物を与えられています。
私は米国福音派的な教会に思想的なトラウマがあり、忠実な教会信者ではありません。
だから、あなたには 更なる可能性があります。
神さまに出会う方法は、人の数だけあります。型にハマってはいけません。
私は黙示録や携挙のタイミングについて昨年の秋頃から自分で学びました。それまでは、終末について
考えたこともありませんでしたので、何が何だかチンプンカンプンでしたが、知りたいと求めていたから徐々に解ってきます。
民法を勉強したことありますが、初めはチンプンカンプンでしたが、慣れてきたら どんどん好きになりました。
何事も慣れや勉強や訓練で、疑問や謎が解けていきます。
神様を知るにはルールはいりません。
終末論からでも、好きな所から、興味のある所から とっかかりやすい所からで よいのです。
終末論を知りたければ、教えてくれそうな牧師さんを見つけて、お茶や食事にでも誘って気軽に教えてもらって下さい。
質問だけでなく、反論でもよいのです。
日本の教会は、言われたことだけを行うイエスマンが多すぎます。そのまま縦社会が、教会の中にも成立しています。
一番思うことは、信徒が受け身過ぎるように感じます。
また、牧師が仕切り過ぎです。一般信徒に証しや説教を委ねない。ワンマンショーになってしまってます。
どんなに平信徒でも、何らかの教えが出来ます。証は皆が持ってます。
わたしたち1人1人が神の作品であり、神において解放された自由な存在です。
牧師に対して、質問すること、賛同しないこと、違う意見を持つことは、傲慢ではありません。