この、数日間、武士道について考えてました。
長いブログになりますが、興味がある方は、最後までお読みください。
数日前、英語圏の人たちの艱難時代の解説の中で、騎士道(Chavalier)精神を見ました。本日、1人だけ紹介します。
私は、騎士道と武士道に共通点を見ます。この説明が絶対正しいとは思いませんが、だいたい参考にして下さい。
どちらの精神にも共通して言えることは、忠誠と尊厳だと感じます。
Bushidoとは英語でどんな風に表現するのか調べてみました。
decisiveness loftiness of soul nobility of character high-mindness honrobleness
潔さ、魂の高潔さ、高貴な精神、尊厳さ、などという意味です。
私は、聖書の登場人物の話に、武士道&騎士道精神を貫いた人たちを見つけています。
その、代表人物は Uriah (ウリヤ)です。
ウリヤは神様に忠実であったからこそ、君主にも仲間にも忠実で、仁義ある人物でした。
ウリヤの話には、有名なダビデ王が登場します。簡潔にまとめると、このような話です。
幼少から神様を愛し、神様から大いに祝福を受けていたダビデですが、中年期以降になり、大きな罪を犯します。ある日、バテシバという綺麗な婦人が外庭で入浴をしている最中を見下ろしてしまいムラムラします。それだけではなく、自分の妻にすることを決めました。しかし、バテシバには (ダビデの家来である) ウリヤという夫がいました。そこで、ダビデは ウリヤを何度も戦地に送り、その間、バテシバを宮殿に連れて来させ関係を持ちます。結果、妊娠させてしまいます。ダビデはウリヤに妊娠がバレないように謀り、最後はウリヤを戦死させるため、一番闘いの激しい戦地に行くように謀り、戦死させます。ウリヤが死んだことを確認した後、ダビデはバテシバを自分に嫁がせます。
神様は、ダビデに対してとてもお怒りになり、預言者ナタンを遣わし、犯した罪をダビデに悟らせます。
ダビデは、情欲に誘惑されて犯した大きな過ちに目を覚まし、また、神がお怒りになっていることを悲しみ、心から悔い改めます。結論から言うと、神様は憐みのある方なので、ダビデをお赦しになりました。しかし、ダビデ家にいくつもの不幸が起きていきます。バテシバとの間に産まれた子が亡くなったり、ダビデの長男のアムノンが妹のタマルを犯したり、また、ダビデの息子のアブサロムがタマルの報復のためにアムノンを殺します。その後、アブサロムは王となります。しかし、父ダビデとの確執が生まれ、親子で戦さを交えることになります。アブサロムはダビデ陣営に殺されます。家系内で大きな問題が生じたのは、ダビデ自身が自分の罪滅ぼしをするための因果のためでした。しかし、それでも、神様はバテシバとの間にソロモンという、後の王になる息子を与えます。有名なソロモン王です。賢人として知られ、各地から彼の知恵を試みるため、ソロモンを訪問し、驚嘆した1人にシバの女王がいます。旧約聖書の、”ヨブ記” “箴言” “伝道の書”はソロモンに関係します。また、外典では”シラ書” ”知恵の書”です。
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神様は、ダビデが犯した罪ゆえに、いくらかの祝福を取り上げられました。
種には、良い種と悪い種があり、良い種からは良質な実がなりますが、悪い種からは悪質な実がなります。そして、悪い種を撒いた場合、悪い実を刈り取ることになります。自分にツケがまわって来ます。
罪というのは恐ろしく、罪から這い上がらなければ、最後は、自分の精神・肉体が滅ぼされます。わかりやすい例で言えば小説アンナ・カレーニナです。不倫という罪からスタートを切り、最後は自殺へと向かいます。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。ガラテヤ6:7
罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。ローマ6:20-23
こちらはシンガポールのコーナーストン・チャーチの牧師さんですが、神への騎士道精神と言える良いメッセージを見つけました。
#27. "The Rise Of The 666 Beast – Part II" – Apocalypse Soon
If you have ever read and wondered about the Book of Revelation, here ...
youtube#video
コーナーストーンは、偽牧師で名高い、トランプ狂奉者ジョン・へイギーが本部教会の主任牧師ですが、こちらの牧師さんのメッセージは全く質が違います。
彼も、本部教会に合わせて艱難時代前携挙説を信じてはいるようですが、あまり艱難前携挙という時期に強いスタンスを取ってはおられません。
メッセージの一部を紹介します。
18:40~
黙示録13:10には、艱難時代に生きる人たちへのアドバイスが書かれています。
7 そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。9 耳のある者は、聞くがよい。10 とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。黙示録13:7-10
反キリストに捕えられ、獄に送られるなら獄に行きなさい。もし、剣で殺されるなら、殺されなさい。神様を信じる者として、死・投獄・家族や家を失くすなど、選択しなければいけない状況に置かれた場合、その試練を受け入れなさい”というのがイエス様のアドバイスです。シャデラク、メシャク、アベデネゴの3人は、ネブカドネザル王を崇めなかったため、火の中に投げ入れられましたが、神様が奇跡により彼らを救出されました。ダニエルがライオンの檻の中に投げ込まれ、神様が助けたのと同じ奇跡が起きました。
しかし、イエスについて行く者であるなら 試練も覚悟しなければいけません。(反キリストを拝まず、獣の印を受けないという)信念ゆえに、命を諦めなければならない選択が必要なのです。艱難時代に、投獄や死を選ぶ選択に立ちはだかった時、勇気を持ってそれを受け入れなさい。Die well, Die magnificently(優雅に死になさい、勇敢に死を受け入れなさい)。自分の信じることを貫き通し、死に至るまでも忠実でありなさいということです。
(自分の信念・正しい思想のために死ぬという道を選ぶのか? それとも妥協して悪魔に従い獣の印を受け 永遠の地獄に行くのか?という二者択一を、1人1人が選ばされます。他人事ではありません。)
“deliverance(救出)”という言葉が聖書によくありますが、神は、シャデラク、メシャク、アベデネゴの3人を奇跡を持って救出されました。しかし、
イエスの弟子のステファノ(使徒行伝7章)はイエスを信じたことにより、石打ちの刑にあい殉教死しました。
ただ、シャデラク、メシャク、アベデネゴの3人だけが神のdeliverance(救出)を受けたのではありません。ステファノは亡くなる直前に、イエスが神の右の御座に立って腕を広げてステファノの魂を迎え入れたという、死ぬ直前に神の栄光に預かったことが書かれています。ステファノは完全に破壊されたのではなく、神の栄光に迎え入れられました。
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。 55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。使徒行伝7:54-60
ですので、肉の命が助かることのほうが優れていると考えてはいけません。殉教することの方が神よりより多くの栄誉を受けます。”私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です”というパウロの言葉を憶えていますか?
この肉体が死ぬことによって、私たちの魂は、永遠の休息、永遠の喜び、永遠の平安、永遠の解放へと入ることが出来るのです。ですから、艱難時代の試練と苦難は、イエスの苦しみをこの身に受け、主の苦労を共にする、主の弟子であるという歓びだと受け取って下さい。
主の朽ちぬ愛と恵みがすべての人の上に - 今日の「いのちのパン」
エペソ6:24『私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。』主の愛は不滅の愛です。朽ちない愛...
主の朽ちぬ愛と恵みがすべての人の上に - 今日の「いのちのパン」
また、このシンガポールの牧師さんが別の動画で語ってる事は・・・
”黙示録は、謙虚な魂を持って読むべき書物であり、また、期待(望み)を持って読むべき書物です。比喩やシンボルが多いため理解するには難解で、終末時代の裁きについて書かれているためキリスト教徒の間でも避けられている書物です。また、エンターテイメントのネタとして映画業界の題材に利用されて来ました。しかし、黙示録のメッセージの中心はイエス・キリストであり、イエスの再臨の希望(HOPE)が中心メッセージです。
"艱難時代に災害が起きて自分の家を失うのでは?”と心配したり、”イエス様、未だ再臨されては困ります。やりたいことがあるので、もう1年待って下さい。”などと思いがちですが、神様は、イエス様が再臨される時、私たちの想像を遥かに超え(far greater)、人知ではとうてい理解出来ないような素晴らしい計画を成就されます。イエスの再臨こそ、”祝福に満ちた望み”(blessed hope)です。
すべての人を救う神の恵みが現われ、 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。テトス2:11-14
使徒ヨハネが黙示録の最後の章で、こう書いています。Even So, Come Lord Jesus Christ. イエス様、来たりたまえ。
イエスの再臨のために、艱難時代という大試練の時期を通らなくてはいけません。しかし、それが過ぎ去らなければ、悲しみも苦しみも病気も死もない、神が到来させる平和な次の世界はやってこない、という事です。
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黙示録の最後の章です。
追記:
艱難時代において、1人1人の運命がどうなるのかは、神のみぞ知る事です。
一番、試されるのは、長年、信仰を持ってきた人たちだと感じます。信仰を始めてから短い人が、大きな試練を通らないことを願います。
しかし、大きな試練を通るのであれば、それはかなり見込まれているという事にもなります。
また、試練だけではなく、神様を頼るのであれば、不思議な方法を通して助けて下さることも起きます。
誰がどんな運命を通るのかは、神のみぞ知る事です。ですので、自分の命も運命も、委ねるしかないのです。
ですが、イエス様を自身の救い主として受け入れることにより、何が起きようとも永遠の命が約束されます。