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☆『文系学部解体』(室井尚・著、角川新書)☆
もともと自然が好きで、その延長線上で自然科学に興味を持ち、大学学部でも物理学を専攻した。そのお陰で、ごくごく基礎的なものとはいえ、物理や数学に関連したことが、いま携わっているわずかな仕事のメインとなっている。数えてみたわけではないが、親しい友人も理系出身者が多いのではないかと思う。そんなこともあって、わたしも理系の人間と思われがちなのだが、本人にしてみると大いに違和感がある。若い頃は素朴にも科学技術が世界を救うと思っていたが、いつのまにか科学技術の暴走の方が気になりだした。自然科学に対する興味は薄れていないつもりだが、自然科学で世界が理解できるとか、科学技術が未来を拓くとか、理系の知が文系の知よりも役に立つなどという考えは、とんでもない誇大妄想だと思っている。理系の知に対する疑義に加えて、自分に理系の能力がないことを思い知らされ(理系の能力とは何かという問題はあるけれども)、大学院は理系大学の中の文系専攻という、他人には何とも説明しづらいところへ進んでしまった。
今年2015年6月8日付で、文部科学省は全国の国立大学に対して「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通達を行った。その中でもとくに注目されたのが、いわゆる文系学部・学科の縮小や廃止が「要請」されたことだった。要するに社会的要請の高い分野(役に立つ分野)に力を入れ、低い分野は切り捨てよということである。明確化されていないとはいえ、理系が役に立つ分野であり、文系が役立たない分野と想定されているのは明らかである。安倍政権になってからというもの、安保法制はいうに及ばず、矢継ぎ早に出される改悪的政策に強い危機感を持たざるを得ない。この政策もまたその一つのように思われ、決して見過ごせないものである。ただ気をつけなくてはならないのは、この問題が安倍政権下で顕在化したとはいえ、日本の大学の歴史や大学改革のあり方を踏まえて議論しなくては、表層的な政権批判に終わってしまい、問題の本質を捉えそこねてしまうということだ。
著者の室井尚さんは、上記の通達が出される以前から、ご自身のブログなどを通じて、この問題に対して積極的に発言してきた大学人である。しかしマスコミはといえば、ほとんどが室井さんの発言を政権批判や対立構図に単純化するばかりだったため、この問題をきっかけとして日本の大学教育の危機について語ったのが本書である。室井さんは哲学や美学を専門とする人文系の研究者であり、旧帝大系ではないが、それなりに名の知られた横浜国立大学の教授である。そういった視点や立場からの発言という制約はあるにしても、日本の大学教育が抱える問題を考えるうえで、本書は大いに読み応えがある。
いまとなってはまったくのお笑い種だが、自分の能力も省みずに、京都大学へ行きたいと思っていた頃があった。湯川秀樹や朝永振一郎に憧れていたことと、京都大学に自由で牧歌的なイメージを抱いていたからだ。大学院まで京都大学文学部で過ごした室井さんも書いているが、たとえば教員が授業をどれだけ休講にしても何も言われないし、講義も遅く始めて早く終わるのがあたりまえといったイメージ(実際にそうだったようだが)が、ほかの国立大学以上に京都大学にはあって、それを自由なイメージとして捉えていたように思う。ふつうに考えれば授業料泥棒である。ビジネス界では考えられないことだろう。大学を象牙の塔と呼び、大学教授を世間知らずと呼ぶのも、故なしとはいえないだろう。
いわゆる構造改革以降、新自由主義的な考え方が大学教育にも適用されるようになり、さまざまな「自由で牧歌的な」雰囲気は一掃されていった。それと同時に、民間企業や官庁出身などの大学教員も増加の一途をたどっているように思われる。それは実践的な専門職養成の名のもとに、大学は教育機関ではなく、人材供給機関になりつつある証ともいえそうだ。学部時代に私淑した女性教員は、日本の大学を卒業後アメリカの大学院へ進学しPh.Dを取り、IT企業や国際機関で仕事をした経歴の持ち主だった。彼女は遅刻を非常に嫌い、連絡もなしに遅刻や欠席をしたゼミ生を厳しく叱責していた。講義もほぼ定刻に始めていたように記憶している(終了は内容次第で早くなることも少なくなかったが)。彼女の時間厳守の考えにはまったく同意していたが、それは自分自身が遅刻嫌いという性格的な面が一致していたからにすぎず、大学の「自由で牧歌的な」雰囲気を好む思いが自分の中で一変したわけではない。
ここ十年くらいの変化を見ても、講義回数や授業開始・終了時刻を(他の教職員や学生の目を通して)気にせざるを得なくなり、シラバスの書き方も非常に細かな点まで指導が入るようになった。いい加減にやってよいとはまったく思わないが、形式ばかりが重視され、形式の遵守が査定に影響すると脅されている感が否めないのである。室井さんは「我々が育てているのは『人間』であって国家やグローバル企業に奉仕する『人材』ではない」と書いている。それを受けていえば、大学人自体が研究者や教育者ではなく、その気になればいつでも替えられる「人材」になってきているということだ。非常勤切りが横行し、任期付教員が増えているのはもちろんのこと、短期間に研究成果を出すように求められているのも、その表れだろう。
そもそも文系の学問は短期間に成果が出るようなものではなく、その意味でも「人材」養成に役立たないのは明らかである。理系の学問にしても、期限を切られて(研究者が任期を切られて)まともな成果など挙げられるものなのだろうか。何年までにノーベル賞受賞者を何人出すなどという、本末転倒もはなはだしい目標も掲げられていると聞くが、いわば自由を縛った状況下で世界に伍する研究成果など挙げられるはずがないと思うのだが(一言付け加えておけば、自然科学分野でノーベル賞を受賞した研究が“最高”の研究とは必ずしもいえないだろうし、今後ノーベル賞の性質自体が変化していく可能性も否定できないと思う)。
さらにいえば、理系で世界的な業績を挙げた研究者(繰り返しになるが、その業績がノーベル賞に結びついているとは限らない)の伝記などを読んでみると、哲学や芸術や文学など、自分の専門分野とかけはなれた幅広い教養の持ち主であることが多いことに気づかされる。また、文系の学者や作家、芸術家などでも、理系の知に関心を持っている人の著書や作品は興味深いものが多いような気がする。とりあえず日本に限っても、数十年前までは理系の人間同士でも、ある程度は哲学や文学の話ができたように思う(本書でも同様の思い出が語られている)。いまは理系にどっぷり浸かった友人に哲学の話などふっても、閉口されるのがおちである(専門外の話に耳を傾けてくれる畏友もいるが、少数派どころか稀有な存在に思える)。
それはかつて、たいていの大学生には邪魔者扱いされていた教養部が存在し、理工系の学生であっても、かなりの単位の文系科目を取らなければならなかったいうことも、小さくない理由だったように思う。しかしいまや、教養部はほとんどの大学で廃止され(ちなみに、わたしが学んだ大学院は、理系大学の教養科目を担当していた教員が中心となって立ち上げた大学院であり、そういった例も少ないことを本書を読んで初めて知った)、教養科目は本当に付けたしにすぎなくなってしまった(もちろんその背景には教養主義の凋落がある)。そして、役に立つ研究成果ばかりが求められることが加わって、理系学部の学生は専門書以外の本など、ほとんど手に取らないようになっている。理系の知が文系の知から派生した、いわば特殊な知の形態であることなど知ろうともしない。
それはともかくとしても、理系の知が役立つという名目で至上の知のように勘違いされる(むしろ“市場の知”なのにもかかわらず)状況が加速されているように思われる。それにもかかわらず(当然といえば当然といえるだろうが)理系学部や理系出身者たちの危機感は希薄である。いや、文系学部や文系出身者たちも似たようなものかもしれない。もはやなすすべがないかのような脱力感に苛まされているようにも見える。そういった危機感の希薄さこそが、本当の危機だと思うのだが。牧歌的といわれようが、年寄りの繰り言といわれようが、カタカナまじりの学部・学科にはうさんくささを感じるし、文理融合という名の学部・大学院もたんに水と油を無理やり混ぜたにすぎないようにも思える。これ以上、文系学部の解体が進めば、帯に書かれているとおり、知の拠点としての日本の大学そのものも解体していくように思われてならない。
(※)ここでは文系と理系との線引きをとくに説明することなく書いてきた。むかしから文系と理系の区分けはいろいろと試みられているが、明確な区分けはやはりむずかしいように思う。常識的にいって、文学部は文系、理・工・農・薬・医学部などは理系としていいだろう。難しいのは、心理学や教育学を含む社会科学系である。個々人がその学問の性格や文脈を読み取って考えてもらうしかないというところだろうか。
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もともと自然が好きで、その延長線上で自然科学に興味を持ち、大学学部でも物理学を専攻した。そのお陰で、ごくごく基礎的なものとはいえ、物理や数学に関連したことが、いま携わっているわずかな仕事のメインとなっている。数えてみたわけではないが、親しい友人も理系出身者が多いのではないかと思う。そんなこともあって、わたしも理系の人間と思われがちなのだが、本人にしてみると大いに違和感がある。若い頃は素朴にも科学技術が世界を救うと思っていたが、いつのまにか科学技術の暴走の方が気になりだした。自然科学に対する興味は薄れていないつもりだが、自然科学で世界が理解できるとか、科学技術が未来を拓くとか、理系の知が文系の知よりも役に立つなどという考えは、とんでもない誇大妄想だと思っている。理系の知に対する疑義に加えて、自分に理系の能力がないことを思い知らされ(理系の能力とは何かという問題はあるけれども)、大学院は理系大学の中の文系専攻という、他人には何とも説明しづらいところへ進んでしまった。
今年2015年6月8日付で、文部科学省は全国の国立大学に対して「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通達を行った。その中でもとくに注目されたのが、いわゆる文系学部・学科の縮小や廃止が「要請」されたことだった。要するに社会的要請の高い分野(役に立つ分野)に力を入れ、低い分野は切り捨てよということである。明確化されていないとはいえ、理系が役に立つ分野であり、文系が役立たない分野と想定されているのは明らかである。安倍政権になってからというもの、安保法制はいうに及ばず、矢継ぎ早に出される改悪的政策に強い危機感を持たざるを得ない。この政策もまたその一つのように思われ、決して見過ごせないものである。ただ気をつけなくてはならないのは、この問題が安倍政権下で顕在化したとはいえ、日本の大学の歴史や大学改革のあり方を踏まえて議論しなくては、表層的な政権批判に終わってしまい、問題の本質を捉えそこねてしまうということだ。
著者の室井尚さんは、上記の通達が出される以前から、ご自身のブログなどを通じて、この問題に対して積極的に発言してきた大学人である。しかしマスコミはといえば、ほとんどが室井さんの発言を政権批判や対立構図に単純化するばかりだったため、この問題をきっかけとして日本の大学教育の危機について語ったのが本書である。室井さんは哲学や美学を専門とする人文系の研究者であり、旧帝大系ではないが、それなりに名の知られた横浜国立大学の教授である。そういった視点や立場からの発言という制約はあるにしても、日本の大学教育が抱える問題を考えるうえで、本書は大いに読み応えがある。
いまとなってはまったくのお笑い種だが、自分の能力も省みずに、京都大学へ行きたいと思っていた頃があった。湯川秀樹や朝永振一郎に憧れていたことと、京都大学に自由で牧歌的なイメージを抱いていたからだ。大学院まで京都大学文学部で過ごした室井さんも書いているが、たとえば教員が授業をどれだけ休講にしても何も言われないし、講義も遅く始めて早く終わるのがあたりまえといったイメージ(実際にそうだったようだが)が、ほかの国立大学以上に京都大学にはあって、それを自由なイメージとして捉えていたように思う。ふつうに考えれば授業料泥棒である。ビジネス界では考えられないことだろう。大学を象牙の塔と呼び、大学教授を世間知らずと呼ぶのも、故なしとはいえないだろう。
いわゆる構造改革以降、新自由主義的な考え方が大学教育にも適用されるようになり、さまざまな「自由で牧歌的な」雰囲気は一掃されていった。それと同時に、民間企業や官庁出身などの大学教員も増加の一途をたどっているように思われる。それは実践的な専門職養成の名のもとに、大学は教育機関ではなく、人材供給機関になりつつある証ともいえそうだ。学部時代に私淑した女性教員は、日本の大学を卒業後アメリカの大学院へ進学しPh.Dを取り、IT企業や国際機関で仕事をした経歴の持ち主だった。彼女は遅刻を非常に嫌い、連絡もなしに遅刻や欠席をしたゼミ生を厳しく叱責していた。講義もほぼ定刻に始めていたように記憶している(終了は内容次第で早くなることも少なくなかったが)。彼女の時間厳守の考えにはまったく同意していたが、それは自分自身が遅刻嫌いという性格的な面が一致していたからにすぎず、大学の「自由で牧歌的な」雰囲気を好む思いが自分の中で一変したわけではない。
ここ十年くらいの変化を見ても、講義回数や授業開始・終了時刻を(他の教職員や学生の目を通して)気にせざるを得なくなり、シラバスの書き方も非常に細かな点まで指導が入るようになった。いい加減にやってよいとはまったく思わないが、形式ばかりが重視され、形式の遵守が査定に影響すると脅されている感が否めないのである。室井さんは「我々が育てているのは『人間』であって国家やグローバル企業に奉仕する『人材』ではない」と書いている。それを受けていえば、大学人自体が研究者や教育者ではなく、その気になればいつでも替えられる「人材」になってきているということだ。非常勤切りが横行し、任期付教員が増えているのはもちろんのこと、短期間に研究成果を出すように求められているのも、その表れだろう。
そもそも文系の学問は短期間に成果が出るようなものではなく、その意味でも「人材」養成に役立たないのは明らかである。理系の学問にしても、期限を切られて(研究者が任期を切られて)まともな成果など挙げられるものなのだろうか。何年までにノーベル賞受賞者を何人出すなどという、本末転倒もはなはだしい目標も掲げられていると聞くが、いわば自由を縛った状況下で世界に伍する研究成果など挙げられるはずがないと思うのだが(一言付け加えておけば、自然科学分野でノーベル賞を受賞した研究が“最高”の研究とは必ずしもいえないだろうし、今後ノーベル賞の性質自体が変化していく可能性も否定できないと思う)。
さらにいえば、理系で世界的な業績を挙げた研究者(繰り返しになるが、その業績がノーベル賞に結びついているとは限らない)の伝記などを読んでみると、哲学や芸術や文学など、自分の専門分野とかけはなれた幅広い教養の持ち主であることが多いことに気づかされる。また、文系の学者や作家、芸術家などでも、理系の知に関心を持っている人の著書や作品は興味深いものが多いような気がする。とりあえず日本に限っても、数十年前までは理系の人間同士でも、ある程度は哲学や文学の話ができたように思う(本書でも同様の思い出が語られている)。いまは理系にどっぷり浸かった友人に哲学の話などふっても、閉口されるのがおちである(専門外の話に耳を傾けてくれる畏友もいるが、少数派どころか稀有な存在に思える)。
それはかつて、たいていの大学生には邪魔者扱いされていた教養部が存在し、理工系の学生であっても、かなりの単位の文系科目を取らなければならなかったいうことも、小さくない理由だったように思う。しかしいまや、教養部はほとんどの大学で廃止され(ちなみに、わたしが学んだ大学院は、理系大学の教養科目を担当していた教員が中心となって立ち上げた大学院であり、そういった例も少ないことを本書を読んで初めて知った)、教養科目は本当に付けたしにすぎなくなってしまった(もちろんその背景には教養主義の凋落がある)。そして、役に立つ研究成果ばかりが求められることが加わって、理系学部の学生は専門書以外の本など、ほとんど手に取らないようになっている。理系の知が文系の知から派生した、いわば特殊な知の形態であることなど知ろうともしない。
それはともかくとしても、理系の知が役立つという名目で至上の知のように勘違いされる(むしろ“市場の知”なのにもかかわらず)状況が加速されているように思われる。それにもかかわらず(当然といえば当然といえるだろうが)理系学部や理系出身者たちの危機感は希薄である。いや、文系学部や文系出身者たちも似たようなものかもしれない。もはやなすすべがないかのような脱力感に苛まされているようにも見える。そういった危機感の希薄さこそが、本当の危機だと思うのだが。牧歌的といわれようが、年寄りの繰り言といわれようが、カタカナまじりの学部・学科にはうさんくささを感じるし、文理融合という名の学部・大学院もたんに水と油を無理やり混ぜたにすぎないようにも思える。これ以上、文系学部の解体が進めば、帯に書かれているとおり、知の拠点としての日本の大学そのものも解体していくように思われてならない。
(※)ここでは文系と理系との線引きをとくに説明することなく書いてきた。むかしから文系と理系の区分けはいろいろと試みられているが、明確な区分けはやはりむずかしいように思う。常識的にいって、文学部は文系、理・工・農・薬・医学部などは理系としていいだろう。難しいのは、心理学や教育学を含む社会科学系である。個々人がその学問の性格や文脈を読み取って考えてもらうしかないというところだろうか。
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