「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

情感的な美の原点―『日本の美を求めて』

2014年03月02日 | Arts
☆『日本の美を求めて』(東山魁夷・著、講談社学術文庫)☆

  不思議なもので、歳をとるにしたがって、日本の美に対する郷愁が高まってきた。たとえば風景を考えてみる。西欧や、西欧でなくても日本以外の場所で、こころ動かされる風景はけっして少なくない。しかしそれでも、いままさに自分の生命の灯が消えようとしているとき、どのような風景に囲まれて目を閉じたいかというと、一も二もなく日本の風景のなかで最期を迎えたいと願う。日本の風景といっても場所や季節によって多種多様であるし、この「日本の風景」とは「日本的なるもの」という意味なのかといった、こむずかしい議論はさておいての話である。
  本書は、日本画の大家、東山魁夷画伯による日本の美、とりわけ風景の美について語られた好エッセイである。画伯の語る言葉は、絵と同じく豊かな情感にあふれ、自然のもつ色彩やこまかな情景を、読む者の眼前に見せてくれる。本書にたびたび登場する「山雲濤声」は、その一つの具体例といえるだろう。「山雲濤声」は、1975年(昭和50年)に奈良の唐招提寺に奉納された障壁画の大作である。ネットで検索すればすぐに画像は見つかるはずだ。
  「山雲濤声」は「山雲」と「濤声」に分かれている。「濤声」は能登の西海岸、輪島と曽々木の間で、「山雲」は飛騨の天生峠の山路で、それぞれめぐりあった情景だという。「白い泡のアラベスクが華やかに浮び上る」や「山肌を這い上る雲烟による千変万化の姿」など、絵画に劣らぬ表現のように思う。もちろん、本物の「山雲濤声」を鑑賞する機会に恵まれたならば、迫力に圧倒され、感動はいかばかりだろうと想像する。
  東山画伯は、海と山が日本の風景を代表する二つの要素であり、日本のたたずまいを構成していると見ている。海と山は、日本の風土を形成し、その風土は日本の美の原点である。画伯によれば、日本人は哲学的な民族ではないといわれるが、ヨーロッパのような理知的・学術的な方向にいかなかっただけで、日本人は直観的に捉え、情感の比重を大きいため、むしろ芸術的な方面で輝きとなって現れているように思う、という(西洋画は、その美さえも理知的であるように思う、個人的には)。だから「すべて人間の生きている世界を、ただ知性で割りきって考えることには無理」があるとしている。
  いわゆる学術的な世界が西欧的な文化の上に築かれてきたからには、学術の世界では今後も理性的な分析は欠かせないだろう。その一方で、日本人が代表的であるかどうかはともかくとして、直観的・芸術的に(「理性的」に対応した表現をすれば「感性的」に)世界や人間を捉えることも、今後ますます重視されて然るべきではないだろうか。
  歳を得るにしたがって、日本の美になつかしさのようなものを感じるのはなぜか―理知的な世界で生きることに疲れた自らの魂が、情感的な世界へと回帰していこうとする現れなのかもしれない。これまた直観的な話であるが。ただし、浅薄な宗教的感情や厭世観に即つながるものではないことも、ぜひ付け加えておきたい。

  

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