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『光と祈りのメビウス』(松本侑子・著、筑摩書房)
ごくまれに同じ本を二冊買うことがある。といっても、一冊は単行本であり、もう一冊はその文庫本だ。たいていの文庫本には解説が付いていて、その解説を読みたいがために買うことが多い。白紙の心で読むのが読書の王道だという考えかたもあるだろう。しかし、解説を読むことによって、その本と自分との間に水路のようなものができて、自分なりにその本の咀嚼が進むこともある。この『光と祈りのメビウス』もまた単行本と文庫本とを買った。けれども、解説を読みたかったからというよりは、文庫本の帯のフレーズと装丁の写真に惹かれたからだ。単行本の奥付を見ると「1999年7月8日 第1刷発行」とあるので、買ってからたぶん5年以上もツンドク状態にあったことになる。読みたくなかったわけではなく、むしろすぐにでも読みたかった本だった。しかし、読んでしまうのがもったいないというか、美味しいものを後にとっておく心理に近かったのだろうと思う。ところで、先日田舎へ帰るとき、久しぶりに高速バスを使うことにした。鉄道よりも長距離バスのほうが読書には適していると思っているのだが、そのときなぜか『光と祈りのメビウス』を読みながら帰ろうと思った。車中で読むには文庫本のほうが都合が良いし、前々からその装丁も気になっていたので、乗車の直前に買い求め、5年ぶりに初めて本文に目を通すことになった。
機縁というものはやはりあるのだと思った。人との出会いに限らず、本との出合いにおいても機縁は存在する。昨夜の大雨がウソのように車窓からの風景は穏やかだった。身体をシートに委ね、ゆったりとした心でページをめくり始めたのだが、最初のページからして少なからず衝撃を受けた。以前までの自分ならば、単なるプロットにすぎないと読み流していたかもしれない。少なくとも、そのことにそれほどは拘らなかっただろうと思う。さらに読みすすめるにしたがって、そのことに限らず、現代文明批判にからませた主人公の治美の心の揺れ動きが、次々と自分に問いかけてきた。性のちがいを超えて、治美の行動や想いが他人事のように思えなかった。彼女や彼女の周囲の人々の口を借りてここに書かれていることは、ほとんどが自分もいままで考えてきたことではなかったのか。そう思うと、この本は読むべきときに読んだのだと確信した。単行本を買ってすぐに読んでいたならば、このような感慨は絶対に抱かなかったにちがいない。単行本を買った当時は、著者の松本侑子にしてはめずらしく(いままでとは趣が異なり)環境問題に関する小説という程度の認識しかなかった。しかし、だからこそ、よけいに興味を持ち、すぐに読むのを控えていたのだった。機縁とは元は仏教語で「機は縁に会えば発動する」という意味であるらしい。まさに「機が縁に会うまで」この本は読まれるのを待っていたのではないか。そう思わざるを得なかった。
いうまでもなく、人は一面的な存在ではない。人は「合理」と「非合理」をあわせ持っている。いつもは「合理」を前面に押したて社会を生きているが、ときには「合理」に飽きたらず「非合理」に魅せられてしまう。どんなに「合理」的に行動しようとしても、「非合理」的な感情に流されてしまうこともある。あまり言葉を吟味せずに使ってしまうが、「合理」を「知性」、「非合理」を「感性」と置き換えることもできるだろう。その意味では、松本侑子という人は知性と感性とをバランスよく持ち合わせた女性なのではないかと思う。自分の知るかぎり、この小説の設定には、微妙にずれながらも、著者自身の経歴とかなり重なる部分もあるように思った。しかし、著者が治美のように車も持たず、自然農法を実践しているわけではたぶんないであろう。だからといって、この小説にウソが書いてあるとは思わない。人の生死や自然との関わりは、たぶんに感性の領域に属している。しかし、それを物語りに紡ぐのは知性の領域である。著者の本物の問題意識が治美を生み出し、その意味で、このフィクションにウソはないといえる。解説者の阿刀田高はタイトルの「メビウス」を、「生命の謳歌と悲しみへの慰撫」の連関として捉えている。それと同時に、著者が治美であり、治美が著者であるという意味でも「メビウス」の輪ではないかと自分には思えた。
知性に縛られているだけでは窮屈でしかたがない。そうはいっても、感性に流されていては危なっかしいだけだ。では、どうすれば良いのか。自分のライフワーク(テーマ)はどうやらその辺にあるらしい。本書はそのことにも改めて気づかせてくれた。やはり機縁はあるのである。
ごくまれに同じ本を二冊買うことがある。といっても、一冊は単行本であり、もう一冊はその文庫本だ。たいていの文庫本には解説が付いていて、その解説を読みたいがために買うことが多い。白紙の心で読むのが読書の王道だという考えかたもあるだろう。しかし、解説を読むことによって、その本と自分との間に水路のようなものができて、自分なりにその本の咀嚼が進むこともある。この『光と祈りのメビウス』もまた単行本と文庫本とを買った。けれども、解説を読みたかったからというよりは、文庫本の帯のフレーズと装丁の写真に惹かれたからだ。単行本の奥付を見ると「1999年7月8日 第1刷発行」とあるので、買ってからたぶん5年以上もツンドク状態にあったことになる。読みたくなかったわけではなく、むしろすぐにでも読みたかった本だった。しかし、読んでしまうのがもったいないというか、美味しいものを後にとっておく心理に近かったのだろうと思う。ところで、先日田舎へ帰るとき、久しぶりに高速バスを使うことにした。鉄道よりも長距離バスのほうが読書には適していると思っているのだが、そのときなぜか『光と祈りのメビウス』を読みながら帰ろうと思った。車中で読むには文庫本のほうが都合が良いし、前々からその装丁も気になっていたので、乗車の直前に買い求め、5年ぶりに初めて本文に目を通すことになった。
機縁というものはやはりあるのだと思った。人との出会いに限らず、本との出合いにおいても機縁は存在する。昨夜の大雨がウソのように車窓からの風景は穏やかだった。身体をシートに委ね、ゆったりとした心でページをめくり始めたのだが、最初のページからして少なからず衝撃を受けた。以前までの自分ならば、単なるプロットにすぎないと読み流していたかもしれない。少なくとも、そのことにそれほどは拘らなかっただろうと思う。さらに読みすすめるにしたがって、そのことに限らず、現代文明批判にからませた主人公の治美の心の揺れ動きが、次々と自分に問いかけてきた。性のちがいを超えて、治美の行動や想いが他人事のように思えなかった。彼女や彼女の周囲の人々の口を借りてここに書かれていることは、ほとんどが自分もいままで考えてきたことではなかったのか。そう思うと、この本は読むべきときに読んだのだと確信した。単行本を買ってすぐに読んでいたならば、このような感慨は絶対に抱かなかったにちがいない。単行本を買った当時は、著者の松本侑子にしてはめずらしく(いままでとは趣が異なり)環境問題に関する小説という程度の認識しかなかった。しかし、だからこそ、よけいに興味を持ち、すぐに読むのを控えていたのだった。機縁とは元は仏教語で「機は縁に会えば発動する」という意味であるらしい。まさに「機が縁に会うまで」この本は読まれるのを待っていたのではないか。そう思わざるを得なかった。
いうまでもなく、人は一面的な存在ではない。人は「合理」と「非合理」をあわせ持っている。いつもは「合理」を前面に押したて社会を生きているが、ときには「合理」に飽きたらず「非合理」に魅せられてしまう。どんなに「合理」的に行動しようとしても、「非合理」的な感情に流されてしまうこともある。あまり言葉を吟味せずに使ってしまうが、「合理」を「知性」、「非合理」を「感性」と置き換えることもできるだろう。その意味では、松本侑子という人は知性と感性とをバランスよく持ち合わせた女性なのではないかと思う。自分の知るかぎり、この小説の設定には、微妙にずれながらも、著者自身の経歴とかなり重なる部分もあるように思った。しかし、著者が治美のように車も持たず、自然農法を実践しているわけではたぶんないであろう。だからといって、この小説にウソが書いてあるとは思わない。人の生死や自然との関わりは、たぶんに感性の領域に属している。しかし、それを物語りに紡ぐのは知性の領域である。著者の本物の問題意識が治美を生み出し、その意味で、このフィクションにウソはないといえる。解説者の阿刀田高はタイトルの「メビウス」を、「生命の謳歌と悲しみへの慰撫」の連関として捉えている。それと同時に、著者が治美であり、治美が著者であるという意味でも「メビウス」の輪ではないかと自分には思えた。
知性に縛られているだけでは窮屈でしかたがない。そうはいっても、感性に流されていては危なっかしいだけだ。では、どうすれば良いのか。自分のライフワーク(テーマ)はどうやらその辺にあるらしい。本書はそのことにも改めて気づかせてくれた。やはり機縁はあるのである。