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☆『<自己完結社会>の成立』(上柿崇英・著、農林統計出版)☆
一言で表現すれば壮大な文明論の試みである。
それは、日々、科学技術の恩恵や利便性にあふれた社会システムに取り囲まれ、安楽な生活を送っている「われわれ」に向けての根源的な問題提起のようにも思える。それはまた、一種の欲望の連鎖なのかもしれない。
それにもかかわらず、いや、そうだからこそと言うべきかもしれないが、われわれは不安を払拭できず、どこか救いを求めているようにも思われる。日々報道される、個人から国家に至るまでの様々な「歪み」はその現れのように思える。
その原因を求め「原理」を著者なりの視座から解明しようとした試みが本書である。そのメインコンセプトを<自己完結社会>と著者は表現している。<自己完結社会>とは、<環境>(言うまでもないことだが、<環境>とは「自然環境」など一般的・既成的な概念としての「環境」ではない)に埋め込まれた人間存在の変貌を示唆した概念と捉えることができるだろう。そしてそれは、人間存在の「脱身体化」と軌を一にしている。
壮大な試みの反映として、本書には様々な論点が提示されている。総論的には頷かざるを得なくとも、各論的には疑問符を付けたくなる部分もあるにちがいない。評者もその一人である。一読した限りでは、著者のいう<自己完結社会>が、往々にして科学技術に依拠している印象を与え、その点に違和感を覚えた。それに関連して「偶然性」についての論説が、いまひとつ明確ではないように思えた。もちろんこれは評者の能力(読解力)不足に起因する可能性が大きいのかもしれない。
しかし、そのような違和感を超えて、本書には「隠された」あるいは「気付かない」潮流を読み取るべきであるように思う。それは、主に西洋哲学に基づく哲学・思想の流れに対して、言わば徒手空拳で立ち向かっている著者の心意気である。近年の「文系不要論」に対する意義申し立てとも言えるだろう。
上下巻あわせて600ページ近い大著であり、正直なところ、多くの人にとって、読みやすい本とは言えないだろう。脚注も相当な量のため、いちいち脚注に当たりながら読み進むと「迷子」にもなりかねない。まずは本文だけを読み通し、あらためて脚注も含めて読み直すのが良いのではないかと思う。
書店やウェブ上には「哲学」を謳いながら、その実ビジネス書やマニュアル本まがいのエセ哲学書や哲学的言説があふれ、一方では古色蒼然とした文献解釈に拘泥した哲学書も少なくない。本来の哲学としての在り方からすれば、文献解釈的な書籍の存在意義は評者も認めるが、それは一種の「サークル」に閉じこもってしまいがちであり、世間一般を哲学・思想から遠ざけている一因でもあるのではないだろうか。その状況を打開するためには、本書のようにアクチュアルな問題提起を行い、失礼ながら少々読みづらくとも、そして売れる本にならなくとも、このような書籍の刊行を続けていくべきであると思う。
評者は、本書の著者と出版社に対する応援メッセージを送りたい気持ちで、一読を終えた。
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一言で表現すれば壮大な文明論の試みである。
それは、日々、科学技術の恩恵や利便性にあふれた社会システムに取り囲まれ、安楽な生活を送っている「われわれ」に向けての根源的な問題提起のようにも思える。それはまた、一種の欲望の連鎖なのかもしれない。
それにもかかわらず、いや、そうだからこそと言うべきかもしれないが、われわれは不安を払拭できず、どこか救いを求めているようにも思われる。日々報道される、個人から国家に至るまでの様々な「歪み」はその現れのように思える。
その原因を求め「原理」を著者なりの視座から解明しようとした試みが本書である。そのメインコンセプトを<自己完結社会>と著者は表現している。<自己完結社会>とは、<環境>(言うまでもないことだが、<環境>とは「自然環境」など一般的・既成的な概念としての「環境」ではない)に埋め込まれた人間存在の変貌を示唆した概念と捉えることができるだろう。そしてそれは、人間存在の「脱身体化」と軌を一にしている。
壮大な試みの反映として、本書には様々な論点が提示されている。総論的には頷かざるを得なくとも、各論的には疑問符を付けたくなる部分もあるにちがいない。評者もその一人である。一読した限りでは、著者のいう<自己完結社会>が、往々にして科学技術に依拠している印象を与え、その点に違和感を覚えた。それに関連して「偶然性」についての論説が、いまひとつ明確ではないように思えた。もちろんこれは評者の能力(読解力)不足に起因する可能性が大きいのかもしれない。
しかし、そのような違和感を超えて、本書には「隠された」あるいは「気付かない」潮流を読み取るべきであるように思う。それは、主に西洋哲学に基づく哲学・思想の流れに対して、言わば徒手空拳で立ち向かっている著者の心意気である。近年の「文系不要論」に対する意義申し立てとも言えるだろう。
上下巻あわせて600ページ近い大著であり、正直なところ、多くの人にとって、読みやすい本とは言えないだろう。脚注も相当な量のため、いちいち脚注に当たりながら読み進むと「迷子」にもなりかねない。まずは本文だけを読み通し、あらためて脚注も含めて読み直すのが良いのではないかと思う。
書店やウェブ上には「哲学」を謳いながら、その実ビジネス書やマニュアル本まがいのエセ哲学書や哲学的言説があふれ、一方では古色蒼然とした文献解釈に拘泥した哲学書も少なくない。本来の哲学としての在り方からすれば、文献解釈的な書籍の存在意義は評者も認めるが、それは一種の「サークル」に閉じこもってしまいがちであり、世間一般を哲学・思想から遠ざけている一因でもあるのではないだろうか。その状況を打開するためには、本書のようにアクチュアルな問題提起を行い、失礼ながら少々読みづらくとも、そして売れる本にならなくとも、このような書籍の刊行を続けていくべきであると思う。
評者は、本書の著者と出版社に対する応援メッセージを送りたい気持ちで、一読を終えた。
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