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☆『真面目な人は長生きする』(岡田尊司・著、幻冬舎新書)☆
健康で長生きしたいというのが、ほとんどの人の本音ではないかと思う。長生きなんてしたくないとか、早く死んだほうがましだと思うのは、うつなどの精神的な疾患を患っているか、不幸にも不治の病に侵されて苦痛を強いられる状況におかれているからではないだろうか。心身ともに健康であれば、人はふつうに長生きを望み、結果的にそのような人は長寿を全うするように思う。
障害をもって生まれたため、自分は長生きしないだろうなという思いを、子どもころから漠然ともっていた。小学生のころ、この子は二十歳までもたないだろうと医師に言われたと、後年母から何度も聞かされた。ところが、小学生のころよりも成人してからのほうが、むしろ健康になったという実感がある。四十を過ぎたころ、検査入院をした某有名大学病院で、五十を過ぎたら体力が落ちて動けなくなるかもしれないと脅された。たしかに五十の声を聞いたころから、体力の衰えを実感することが多くなった。とはいえ、いまのところ、以前とくらべて日常生活に大きな支障がでるような状況にはなっていない。そもそも体力の衰えは、老化と障害の両方の因子が関わっているはずだが、いまの状況から判断するかぎり、老化の因子よりも障害の因子のほうが重みをもっているようには思われない。それがいまの正直な気持ちである。
4年前の十二月に父が87歳で亡くなり、昨年のやはり十二月に母が89歳で亡くなった。約7年間におよぶ遠距離介護が終わり、ちょうど一年が経った。介護が終わった当初は大きな解放感を得たたが、時が経つにつれて解放感は空虚さや寂しさにかわり、さらに後悔の念ばかりが募ってくる。もっとやさしく接すればよかった、もっと話をしておけばよかった、もっと外へ連れ出してやればよかった、もっと○○すればよかった…と。しかし、どんなに悔やんでも時を遡ることはできないし、父や母が戻ってくることもない。亡くなってしまった父母に、自分はいま何ができるのかと考えたとき、障害のある自分をこの歳まで育て、生かしてくれた両親の思いにあらためて気づかされた。そう考えると、父母から受け継いだ命を、できるだけ長く健康で活かしていくことが使命のように思えてきた。だから、いまになって、素直に長生きをしたいと思うようになった。
本書は、ターマンとフリードマンという二人の研究者による寿命の調査研究を紹介しながら、長寿の要因を探ったものである。とはいえ、巷にあふれる特定の食品や健康法を推奨する本とは、明らかに趣が異なっている。医療や食べ物や生活習慣よりもむしろ、勤勉で誠実な性格と安定した「愛着」の関係こそが、長寿を決定づける最も大きな要因であると説く。「勤勉性」と称される性格をもった「真面目な人」は、人生のリスクを回避する可能性が高く、相対的にストレスも低減され、あるいはストレスをうまく乗り越えていくことができる。さらに、安定した「愛着」関係も築きやすく、結果的に人生を安らかに全うすることが可能となる。「勤勉性」こそが不老長寿の妙薬なのである。著者の岡田尊司さんといえば「愛着」の研究で有名だが、「愛着」と長寿との関係を我田引水的につなげているわけではない。「愛着」が長寿を導くのは当然の帰結であって、特定の健康法を金科玉条とするような説明よりは、よほど説得力があるように思う。
本書に載っている「長寿性格」の診断テストをやってみたところ(ちなみに、テストを受ける前に判定結果を絶対見ないように!)、意外にも長生きしやすい性格であると判定された。しかし、食習慣や健康法ではなく心理面でのテストだったのだから、当然の結果であったように思う。自分の神経質な性格が「勤勉性」と親和的であることは容易に想像がつくからだ。いま経済的にはひじょうに厳しい状況におかれていて、不満やストレスも少なくないが、仕事を含めてやるべきことを、ひとまず勤勉にこなしていると思う。さほど広くも深くもないかもしれないが、人間関係も誠実な付き合いを旨としているつもりだ(ときにはウソもつくが(笑))。今日まで結婚もせず(できず?)パートナーのいない生活を続けている。もちろん寂しさを感じることも多いが、パートナーとの不安定な関係や離別が与える影響を考えると、闇雲にパートナーを探すよりも、出会いは時の流れに任すほうがよいのかもしれないと思っている。
将来に対する不安から、ときにはうつ状態に陥ることもある。仕事をやめ、友人との関係もすべて断ち切って、田舎に隠遁しようかと思ったりもする。しかし、一日も経たないうちに、もっともっとやりたいことがあったのだと目が覚める。あれも知りたいし、これも知りたい。能力があろうがなかろうが、もっと勉強もしたい。そのためには本も読みたい。勉強や読書でインプットしたら、その証としてアウトプットに拙い文章も書いてみたい。とはいえ、体力の衰えは避けられない。視力や聴力も明らかに落ちてきた。記憶力や持続力の衰えも例外ではない。それでも、まだ何かをやりたいという気力だけは、十分ありそうだ。この気力が牽引車となって、健康寿命を延ばしてくれるのではないか。本書はそんな自分の期待に対する応援である―「向上心をもって常に努力を怠らず、成功や目標を成し遂げることが、老年まで健康に活躍し、長く元気でいることにもつながる」と。
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健康で長生きしたいというのが、ほとんどの人の本音ではないかと思う。長生きなんてしたくないとか、早く死んだほうがましだと思うのは、うつなどの精神的な疾患を患っているか、不幸にも不治の病に侵されて苦痛を強いられる状況におかれているからではないだろうか。心身ともに健康であれば、人はふつうに長生きを望み、結果的にそのような人は長寿を全うするように思う。
障害をもって生まれたため、自分は長生きしないだろうなという思いを、子どもころから漠然ともっていた。小学生のころ、この子は二十歳までもたないだろうと医師に言われたと、後年母から何度も聞かされた。ところが、小学生のころよりも成人してからのほうが、むしろ健康になったという実感がある。四十を過ぎたころ、検査入院をした某有名大学病院で、五十を過ぎたら体力が落ちて動けなくなるかもしれないと脅された。たしかに五十の声を聞いたころから、体力の衰えを実感することが多くなった。とはいえ、いまのところ、以前とくらべて日常生活に大きな支障がでるような状況にはなっていない。そもそも体力の衰えは、老化と障害の両方の因子が関わっているはずだが、いまの状況から判断するかぎり、老化の因子よりも障害の因子のほうが重みをもっているようには思われない。それがいまの正直な気持ちである。
4年前の十二月に父が87歳で亡くなり、昨年のやはり十二月に母が89歳で亡くなった。約7年間におよぶ遠距離介護が終わり、ちょうど一年が経った。介護が終わった当初は大きな解放感を得たたが、時が経つにつれて解放感は空虚さや寂しさにかわり、さらに後悔の念ばかりが募ってくる。もっとやさしく接すればよかった、もっと話をしておけばよかった、もっと外へ連れ出してやればよかった、もっと○○すればよかった…と。しかし、どんなに悔やんでも時を遡ることはできないし、父や母が戻ってくることもない。亡くなってしまった父母に、自分はいま何ができるのかと考えたとき、障害のある自分をこの歳まで育て、生かしてくれた両親の思いにあらためて気づかされた。そう考えると、父母から受け継いだ命を、できるだけ長く健康で活かしていくことが使命のように思えてきた。だから、いまになって、素直に長生きをしたいと思うようになった。
本書は、ターマンとフリードマンという二人の研究者による寿命の調査研究を紹介しながら、長寿の要因を探ったものである。とはいえ、巷にあふれる特定の食品や健康法を推奨する本とは、明らかに趣が異なっている。医療や食べ物や生活習慣よりもむしろ、勤勉で誠実な性格と安定した「愛着」の関係こそが、長寿を決定づける最も大きな要因であると説く。「勤勉性」と称される性格をもった「真面目な人」は、人生のリスクを回避する可能性が高く、相対的にストレスも低減され、あるいはストレスをうまく乗り越えていくことができる。さらに、安定した「愛着」関係も築きやすく、結果的に人生を安らかに全うすることが可能となる。「勤勉性」こそが不老長寿の妙薬なのである。著者の岡田尊司さんといえば「愛着」の研究で有名だが、「愛着」と長寿との関係を我田引水的につなげているわけではない。「愛着」が長寿を導くのは当然の帰結であって、特定の健康法を金科玉条とするような説明よりは、よほど説得力があるように思う。
本書に載っている「長寿性格」の診断テストをやってみたところ(ちなみに、テストを受ける前に判定結果を絶対見ないように!)、意外にも長生きしやすい性格であると判定された。しかし、食習慣や健康法ではなく心理面でのテストだったのだから、当然の結果であったように思う。自分の神経質な性格が「勤勉性」と親和的であることは容易に想像がつくからだ。いま経済的にはひじょうに厳しい状況におかれていて、不満やストレスも少なくないが、仕事を含めてやるべきことを、ひとまず勤勉にこなしていると思う。さほど広くも深くもないかもしれないが、人間関係も誠実な付き合いを旨としているつもりだ(ときにはウソもつくが(笑))。今日まで結婚もせず(できず?)パートナーのいない生活を続けている。もちろん寂しさを感じることも多いが、パートナーとの不安定な関係や離別が与える影響を考えると、闇雲にパートナーを探すよりも、出会いは時の流れに任すほうがよいのかもしれないと思っている。
将来に対する不安から、ときにはうつ状態に陥ることもある。仕事をやめ、友人との関係もすべて断ち切って、田舎に隠遁しようかと思ったりもする。しかし、一日も経たないうちに、もっともっとやりたいことがあったのだと目が覚める。あれも知りたいし、これも知りたい。能力があろうがなかろうが、もっと勉強もしたい。そのためには本も読みたい。勉強や読書でインプットしたら、その証としてアウトプットに拙い文章も書いてみたい。とはいえ、体力の衰えは避けられない。視力や聴力も明らかに落ちてきた。記憶力や持続力の衰えも例外ではない。それでも、まだ何かをやりたいという気力だけは、十分ありそうだ。この気力が牽引車となって、健康寿命を延ばしてくれるのではないか。本書はそんな自分の期待に対する応援である―「向上心をもって常に努力を怠らず、成功や目標を成し遂げることが、老年まで健康に活躍し、長く元気でいることにもつながる」と。
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