7のつづき。
リサイタル後半はシャンソンを美輪は歌った。
焼け野原に落ちる夕日のような色の舞台で、
シャンソンの歌詞に込められた物語を美輪は、
主人公が瞬時に乗り移ったかのように、
一曲数分間の世界を構築し、
我々にその夢を垣間見せ、
愛、あるいは狂気の余韻を闇に残して
幕間にその都度消えた。
一曲ごとの演劇を私たちは息をすることも忘れたように魅入り、
美輪が袖に消えると一斉に「ふーっ」と長い溜息をつくのだった。
そしてまた美輪さんは何事もなかったように舞台に現れて、
いろいろな話をし、
それが次の曲の前振りだったか
脈絡がなかったかはもう憶えていないが、
次の前奏が始まるとまた途端に瞬間的に
会場は新たな物語に包まれるのだった。
それを私は見ながら、
ああ、この人は如来か菩薩かインドの神様なのかもしれない、と思った。
まあ如来も菩薩も本来インドの神様なのだけれど、
少なくとも一神教の系統ではないなと感じた。
観ているうちに黄色い頭の美輪さんが浮遊して、雲に乗って、
飛んでいってしまうのでは、という感覚に満たされ始めた。
もし本当に飛んでいっても不思議ではないという気持ちだった。
そしてもうひとつ、
「ああ、この人は強いな」だった。
善悪を問わず飲み込んで溶かしてしまう超越性を感じた。
美輪さんについてはっきりと書いてしまえば、
私としては気に入らないところもあった。
具体的には、スピリチュアルだのオーラだの、
○○になれるアプリだの、である。
私はその日、そこの部分を見極めに行ったのだった。
「本物か偽物か」をである。
その日から後、長い時間を美輪明宏について考えたが、
結論から言うと、
私の小さな尺度では計りきれないのだった。
混沌としているからこその完成形という存在を理解するには、
私にはまだ早かった、ということか。しかし、
「本物か偽物か」
これを美輪明宏に問う時、私が判断の基準にするのは結局、
言葉ではなく、姿かたちではなく、行動である。
つづく。
リサイタル後半はシャンソンを美輪は歌った。
焼け野原に落ちる夕日のような色の舞台で、
シャンソンの歌詞に込められた物語を美輪は、
主人公が瞬時に乗り移ったかのように、
一曲数分間の世界を構築し、
我々にその夢を垣間見せ、
愛、あるいは狂気の余韻を闇に残して
幕間にその都度消えた。
一曲ごとの演劇を私たちは息をすることも忘れたように魅入り、
美輪が袖に消えると一斉に「ふーっ」と長い溜息をつくのだった。
そしてまた美輪さんは何事もなかったように舞台に現れて、
いろいろな話をし、
それが次の曲の前振りだったか
脈絡がなかったかはもう憶えていないが、
次の前奏が始まるとまた途端に瞬間的に
会場は新たな物語に包まれるのだった。
それを私は見ながら、
ああ、この人は如来か菩薩かインドの神様なのかもしれない、と思った。
まあ如来も菩薩も本来インドの神様なのだけれど、
少なくとも一神教の系統ではないなと感じた。
観ているうちに黄色い頭の美輪さんが浮遊して、雲に乗って、
飛んでいってしまうのでは、という感覚に満たされ始めた。
もし本当に飛んでいっても不思議ではないという気持ちだった。
そしてもうひとつ、
「ああ、この人は強いな」だった。
善悪を問わず飲み込んで溶かしてしまう超越性を感じた。
美輪さんについてはっきりと書いてしまえば、
私としては気に入らないところもあった。
具体的には、スピリチュアルだのオーラだの、
○○になれるアプリだの、である。
私はその日、そこの部分を見極めに行ったのだった。
「本物か偽物か」をである。
その日から後、長い時間を美輪明宏について考えたが、
結論から言うと、
私の小さな尺度では計りきれないのだった。
混沌としているからこその完成形という存在を理解するには、
私にはまだ早かった、ということか。しかし、
「本物か偽物か」
これを美輪明宏に問う時、私が判断の基準にするのは結局、
言葉ではなく、姿かたちではなく、行動である。
つづく。